座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆群衆はみな、イエスを見ると驚き、

2016年08月26日 17時20分05秒 | 聖書
走り寄って来て、あいさつをした。(マルコ九・一五)
 
モーセとイエスとの間には、なんと大きな相違があるだろう。ホレブの預言者は、四十日間山の上にいた時、一種の変貌をなし、その顔が非常な光を放ったので、民はその顔を見ることができなかった。そのために、彼は顔におおいをした。しかし私たちの救い主はそうではなかった。モーセよりもさらに大いなる栄光をもって変貌されたが、人々は御顔の輝きのために目がくらんだとは記されていない。むしろ彼らは驚き、みもとに走り寄って来てあいさつをしたのであった。
律法の栄光は人を退けるが、イエスのさらに大いなる栄光は人を引きつける。イエスは聖にして義なる方であるが、恵みとまことに満ちておられる。そのため罪人たちは主の徳に驚き、その愛に心を捕えられて、みもとに走り寄ったのである。彼らはあいさつをし、その弟子となり、彼を主また師として受け入れた。
友よ。今あなたは、神の律法のまばゆい輝きで、ものを見ることができないかもしれない。あなたは律法の要求を良心に感じるが、それを自分の生活で実践することはできない。律法に欠点があるのではなく、それをこの上なく重んじているが、それによっては少しも神のみもとに引かれることはない。かえって心はかたくなになり、絶望の淵にさまようのである。
おお、あわれな心よ! おまえの目を、人を退ける輝きを発するモーセからそらせよ。そして、隠やかな栄光に輝かれるイエスを見つめよ。主の血潮したたる傷口と、いばらの冠をいただく頭を見よ! 主は神の御子であられるゆえに、モーセよりも偉大である。しかし主は愛の主であられ、立法者よりも優しい。彼は神の怒りを担い、その死によって、シナイの輝きにはるかにまさる神の義を現された。しかし、その義は今や目的を遂げ、イエスを信じる者の守護者となっている。
罪人よ。血に染まられた救い主を見よ。そして主の愛に引きつけられたならば、その御腕の中に飛び込め。そうすればあなたは救われるであろう。
私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、
 
 

「ただ私としては、この最後の人にも、

2016年08月26日 17時18分57秒 | 聖書

あなたと同じだけ上げたいのです」(マタイ20:14)

このぶどう園の主人は、早朝、9時、12時、3時、5時に労務者を雇った。
早朝の者たちとは「1デナリ」の契約をした。9時以降は、金額を約束しないで「相当のものを」と言った。

そして、6時に支払いをするが、最後に来た者順にした。1時間しか働かない者が、意外にも1デナリ、丸1日分を貰った。
1時間で1デナリなら、早朝の者はかなり多く貰えると予測した。が、全員1デナリ。

そこで、早朝の者が不当だと文句を言った。しかし、1デナリの契約であり、主人は何も不当ではない。
皆に同じようにしてやりたいと。
後の者が分不相応の扱いを受け、あとの者が先になり、先の者があとになると。

神は働きに正比例してではなく、分を越えて遙かに良くして下さる「恵み」の世界を現わされた。

実は早朝の者は大きな恵みを受けていた。
早朝から賃金が約束され、夕刻には確実に糧が手に出来る。
家で待つ妻や子供の喜ぶ姿を思い浮かべ、1日心穏やかに平安に働けたのだ。

又、主人のために働ける事は喜びではないか。これにまさる恵みはない。
これを忘れると、多く働く者ほど自分で働いたのであり、自分の力でしたのであり、当然とばかりに要求する。
恵みでなく、報酬=律法の下に入るので、感謝も喜びも無く、不平不満だ。

私たちの奉仕の態度はどうだろう。
3時や5時まで立っていた人々は、家族を思いどんなに大きな不安、恐れ、思い煩いにさいなまれていた事だろう。
そこに思いを至らせられる私たちの主は、何と憐れみ深く気前の良い方だろう。

-----------------
自分が何者かを見失うと、すべてが当然になって、感謝も恵みも見えず、不平不満しかない。
恐ろしい高慢に陥ってしまう。
取るに足らない者を選んで下さったこと、救われなければどうなっていたのか、自らは5時の者であり、常にその恵みにいたい。


今日の聖人の記念日

2016年08月26日 08時20分12秒 | キリスト教

聖ゼフィリーノ教皇

在位198年-217年

 ゼフィリーノが教皇時代に起こった、セプティミウス・セウェールス皇帝による迫害は、ローマよりもその周辺の地域で激しかった。しかし彼が殉教者といわれるのは、キリスト教の神学者たちの間に起きた大きな争いによって、心臓を痛めたことによる。

 彼は、助祭カリスト(次期教皇)の支援により、厳しさと愛徳とを常に保った教皇であった。
 ゼフィリーノは、学者ヒッポリトから、誤った教えを信じて離れて行く信者たちを引き留めることができないと批判されもしたが、必要だと自分が判断したときには厳しくすることができたといわれている。


◆人の平等・神の平等

2016年08月26日 08時19分20秒 | 聖書

富む者と貧しい者とは互いに出会う。
これらすべてを造られたのは主である。(箴言二二2)
 
神の前にすべての人が平等であるといわれています。
人間の心は、平等を強く願います。恥ずかしい話ですが、私の体験をお話ししましょう。春の年度替わりを前にして、私が理事会のメンバーになっている団体でも、新しい月給の額を決める会議をしました。提出された原案を見ると、こんな考えが出てきました。「同じような仕事をする団体でも、私のところとこんなにも違うのか。独身で私より若い人が、大家族をかかえた私より二倍も多いとは。こんなことでいいのか。ひきさげるべきではないだろうか。……」しばらくして、自分で自分がほんとうに恥ずかしくなりました。
人間というものは、自分を身近な人と比べて、やれ、サラリーが千円、二千円違うと言って、目くじらをたてたりします。私は、人と比べて、自分を測る愚かさとむなしさを強く感じました。そして、神の物差しに当てはめて自分を見ることの大切さを思ったのです。
人の目から見ると、神は不公平のようにすら思えます。富める人と貧しい人、能力のある人とない人、環境や家柄の違い。――しかし、神は、実に平等な方だと思います。
第一に、愛の平等です。世界にはあなた一人しかいないかのように、神が愛を注いでおられます。それが分かることのすばらしさは、たとえようがありません。
第二に、使命の平等です。神は私たち一人一人に、他の人では代わりができない尊い使命を与えていらっしゃいます。このことに目ざめるなら、新しい世界が開けるのです。
第三に、永遠の祝福の平等です。神は一人残らず、救われて天国に入ることを望んでいらっしゃいます。悔い改めて、キリストを信じるなら、一人残らず、永遠の祝福を得るのです。
 
 

◆主は……

2016年08月26日 08時18分35秒 | 聖書
ご自分の契約をとこしえに定められた。(詩篇一一一・九)
 
主の民は契約そのものを楽しむ。それは、彼らにとって尽きることのない慰めの源泉である。聖霊は間断なく彼らを饗宴の大広間に導き、その愛の旗をひるがえされる。
彼らはその契約の古いことを思って喜ぶ。すなわち明けの明星がその位置につく前、また惑星が運動を始める前に、すでに聖徒たちの権利はキリスト・イエスのうちに確保されていたことを思い起こすのである。
「ダビデへの変わらない愛の契約」を黙想することで、彼らは契約の確実なことを思い起こして格別に喜ぶ。彼らは、契約が署名され、調印され、批准され、いささかの手落ちもないことを知って楽しむのである。
契約の不変性を考える時、彼らの心は喜びにあふれる。すなわち、時も永遠も、生も死も、その契約を破ることができず、契約は永遠の昔から永遠の未来に至るまで千歳の岩のように続く。
彼らはまた、この契約の満ち満ちたものを喜ぶ。その契約の中に、彼らの必要とするすべてのものが備えられているのを見るためである。神は彼らの分、キリストは彼らの友、聖霊は彼らの助け主、大地は彼らの宿舎、天国は彼らの故郷である。彼らはその古い永遠の権利証書の中で権利をもつすべてのたましいのために、資産が蓄えられ、かつ保たれているのを見る。彼らは、聖書の中に宝を見いだして、目を輝かす。おお、なんということだろう。彼らは、自分の親族である神の子の遺言書の中でも、その資産が自分たちにゆずられていることを発見して非常に喜ぶのである。
さらにまた、神の民はこの契約の恵み深いことを思って喜ぶ。彼らは、律法が行いの契約であり、人間のいさおしに立脚しているゆえに無効にされたことを見る。しかしこの契約は愛が基礎となり、条件となり、特徴となり、とりでとなり、土台となり、頂上の石となっているために、永久に堅固であることを知る。
契約は富の条件であり、食糧の倉庫であり、いのちの泉であり、救いの貯蔵庫であり、平和の憲章であり、喜びの港である。
 
 

エステル記9章16-19節

2016年08月26日 08時17分24秒 | 聖書


9:17 これは、アダルの月の十三日のことであって、その十四日には彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。 9:18 しかし、シュシャンにいるユダヤ人は、その十三日にも十四日にも集まり、その十五日に休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。



 他の町にいたユダヤの人々は、勝利を与えられた日がアダルの月の13日でしたので、その次の日の14日を祝日として祝い、感謝の贈り物をしあいました。

ところが、シュシャンの人々は1日伸ばしてもらい14日にも働きをしたので、その次の日の15日を祝いの日として覚えて、その日に喜び歌いました。

 祝日というのは、喜びの日、またその結果としての祝いのの日です。

イスラエルの民が喜びを祝う時には、主が自分たちの上に恵みを与えてくださった日として、これを守り祝っていました。

神の守りと導きを覚えて、その感謝を神様に捧げる日として、祝いの時を持っていたのです。

これは過越の祭でも、収穫の祭りでもそうでした。

お祝いでも、まず神への感謝が覚えられたのです。


ルカ13章29節~30節

2016年08月26日 08時15分07秒 | 聖書


★人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。


■O:今日のコラム
本日の箇所を見るときに、神の国に入ることの出来る者は、一体どのような人物であるかがわかると思います。

イエス様に対してひたすら批判的なことを言う人が次々とやってきます。
それに対してイエス様はたとえ話しを持って答えられます。
どのたとえ話しも悔い改めと神の国のことについて語っています。
たとえ話しの内容を理解することは簡単なことではありません。
しかし、イエス様が行われる御業や、その口から語られる言葉を聞き、イエス様を受け入れる事が出来る人は本当に幸いな事です。
24節に、救われる為には努力して狭い門から入りなさいとイエス様が語っています。
イエス様の御業を悟り、その御口の言葉を悟り、彼が唯一の生ける神、キリストと悟ることが出来る者は、2000年前も今の現代も聖霊様の働きによらずしてはありえないのです。
2000年前の当時、イスラエルの国において、肉の目でイエス様を見ることは可能でした。
しかし、目で見ていても悟ることが出来たのは限られた僅かな人です。

私たちは御言葉からイエス様を個人的な救い主として受け入れています。
それはまさに聖霊様の働きなのです。
現代において信じる私たちの心の内側にイエスキリストが形造られていきます。
私たちの生き様を通して、私たちの内側に生きているイエス様を現して行きましょう。
人々が私たちの姿を見て、今もイエスキリストは生きて働かれ、聖書の御言葉は力強いものであることを知るようになるでしょう。


■A:考えてみよう
私たちが受け取った救いはどのようなものでしょうか?今一度吟味してみましょう。


■P:祈り



愛する主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン


8月25日(木)のつぶやき

2016年08月26日 01時31分32秒 | キリスト教