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「ただ私としては、この最後の人にも、

2016年08月26日 17時18分57秒 | 聖書

あなたと同じだけ上げたいのです」(マタイ20:14)

このぶどう園の主人は、早朝、9時、12時、3時、5時に労務者を雇った。
早朝の者たちとは「1デナリ」の契約をした。9時以降は、金額を約束しないで「相当のものを」と言った。

そして、6時に支払いをするが、最後に来た者順にした。1時間しか働かない者が、意外にも1デナリ、丸1日分を貰った。
1時間で1デナリなら、早朝の者はかなり多く貰えると予測した。が、全員1デナリ。

そこで、早朝の者が不当だと文句を言った。しかし、1デナリの契約であり、主人は何も不当ではない。
皆に同じようにしてやりたいと。
後の者が分不相応の扱いを受け、あとの者が先になり、先の者があとになると。

神は働きに正比例してではなく、分を越えて遙かに良くして下さる「恵み」の世界を現わされた。

実は早朝の者は大きな恵みを受けていた。
早朝から賃金が約束され、夕刻には確実に糧が手に出来る。
家で待つ妻や子供の喜ぶ姿を思い浮かべ、1日心穏やかに平安に働けたのだ。

又、主人のために働ける事は喜びではないか。これにまさる恵みはない。
これを忘れると、多く働く者ほど自分で働いたのであり、自分の力でしたのであり、当然とばかりに要求する。
恵みでなく、報酬=律法の下に入るので、感謝も喜びも無く、不平不満だ。

私たちの奉仕の態度はどうだろう。
3時や5時まで立っていた人々は、家族を思いどんなに大きな不安、恐れ、思い煩いにさいなまれていた事だろう。
そこに思いを至らせられる私たちの主は、何と憐れみ深く気前の良い方だろう。

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自分が何者かを見失うと、すべてが当然になって、感謝も恵みも見えず、不平不満しかない。
恐ろしい高慢に陥ってしまう。
取るに足らない者を選んで下さったこと、救われなければどうなっていたのか、自らは5時の者であり、常にその恵みにいたい。


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