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今日の聖人の記念日

2016年08月21日 08時20分19秒 | キリスト教

聖ピオ10世教皇

在位1903年-1914年

 ピオは、イタリアのヴェネチアの近く、リエーゼの農家に生まれた。村の学校を出た後、1850年にパドバの神学校に入り、58年に司祭となった。その後、マントヴァの司教、枢機卿、ヴェネチアの大司教を務めた。1903年に教皇に選ばれた彼は、「すべてをキリストにおいて新たにすること」をモットーに、20世紀初頭の混乱した社会を、キリストの精神に従って建て直そうと力を尽くした。近代主義を排斥し、伝統的価値を擁護するとともに、典礼の刷新、教会法典の編纂、聖職者の教育の強化に貢献した。彼は強固な意志と知性に恵まれ、その業績と徳の高さから人びとに敬われた。
 しかし第一次世界大戦の勃発にあたっての平和回復のための努力は実を結ぶことなく、その心痛のため病気になって亡くなった。


◆好ましい財宝

2016年08月21日 08時19分20秒 | 聖書

知恵のある者の住まいには、
好ましい財宝と油がある。
しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(箴言二一20)
 
昔の侍的日本人は、「武士は食わねど高ようじ」と、経済的な祝福を軽んじて意に介しない態度をとりましたが、現代の日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれるほど、金・金・金と経済的祝福の追求一点張りになったように見えます。
私たち生身の人間にとって、経済的な祝福が、やはり安定した一生や幸福の大切な要素であることを、しっかり直視する必要があります。聖書は、「知恵のある者の家には経済的祝福もある」と言っています。その知恵とは、いったい何でしょうか。
第一は、「足るを知る心」だと思います。パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ四11)と言いました。いくらあっても、自分のためにもっと欲しいと、満ち足りることも与えることも知らない人は、死海のようです。流れこむばかりで出さない死海は、文字どおり死の海です。
第二は、「生産的な健全で強い心」だと思います。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四13)と言いました。たとえ、一億円あったとしても、東京のたった百坪の土地の値段です。しかし、どんな時にも、愛し祈り働き仕える、力強い心を与えられている。――これこそ、「好ましい財宝と油」、尽きない泉です。
第三の祝福の大もとは、「神を心の真ん中に持つ心」です。パウロは言いました。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)。金や土地や家屋敷を持つことよりも、すべての富や必要を全部所有し、これを必要に応じて与えてくださる与え主を「私の神」としていただいていること。――これほどの祝福があるでしょうか。
 
 

◆人を潤す者は自分も潤される。

2016年08月21日 08時18分26秒 | 聖書
(箴言一一・二五)
 
私たちはここにおいて大きな教訓を与えられる。すなわち、得るためには与えなければならず、蓄えるためには、まず散らさなければならない、ということである。幸福を願うならば、まず他人を幸福にしなければならない。霊的に盛んになるためには、他人の霊的向上を計らなければならない。人を潤すことによって、自分自身も潤される。どのようにしてであろうか。
他人の益になろうとする努力が、私たちを有用にする力を導き出す。私たちは、潜在的な才能と眠っている能力をもっている。それは働かせることによって発揮される。私たちの活動力は、私たち自身にも隠されており、主の戦いを戦い、険しい山をよじ登るまでは、自分にその力があることに気づかない。やもめの涙をぬぐい、両親のない子どもの悲しみを慰める時、初めて自分のうちに優しい同情の心があるのに気づく。
私たちは他の人を教えようとして、しばしば自分自身に対する教訓を得る。ああ、ある人々は病床においてなんという恵みの学課を学んだことであろう。私たちは聖書を教えようとして出て行き、かえって自分の知るところの浅いことを発見し、赤面して帰る。貧しい聖徒と話し合って、私たちに対する神の道をさらに完全に教えられ、神の真理に対するさらに深い洞察力を与えられる。
人を潤すことで私たちは謙遜になる。今まで気づかなかった恵みがいかに多いかを見いだし、貧しい聖徒がいかに知識において私たちにまさるかを発見する。
他の人のために働くことによって、自分自身の慰めもまた大きくなる。私たちは他の人を励ますために力を尽くす。その慰めは私たち自身の心を喜ばす。それはちょうど雪の中に二人の男がいて、一人が、死に瀕しているもう一人の男の手足をこすることで、自分の血液の循環がよくなって助かった物語のようである。
ツァレファテの貧しいやもめは、乏しい食物を分けて預言者を助けたが、それから後、乏しさを経験しなかった。だから、与えよ。そうすれば、あふれるまでにして返されるであろう。
 
 

エステル記8章15-17節

2016年08月21日 08時17分16秒 | 聖書


8:17 王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び、楽しみ、祝宴を張って、祝日とした。この国の民のうちで、自分がユダヤ人であることを宣言する者が大ぜいいた。それは彼らがユダヤ人を恐れるようになったからである。



 ユダヤ人を殺害して絶滅させよとの書簡が各州に届けられた時に、ユダヤ人は自分たちが殺害されるのではないかと恐れて、自ら名乗り出ることはありませんでした。

ところが、ハマンの悪巧みが暴かれて、ユダヤ人の解放が告げられた時には、今度は周りの人々が彼らのことを恐れました。

王が彼らに好意を寄せているということがわかったからです。

その結果、ユダヤ人の中には、自分はユダヤ人であると宣言する者も現れました。

また、このユダヤ人殺害禁止の通知が届いたことを喜んだ彼らは、その日を祝日として祝うようになりました。

不安から解放されたからです。

 どのような民族、どのような種族も、分け隔てなく平和に過ごせることこそ、私たちの願いです。




イザヤ9章2節

2016年08月21日 08時15分01秒 | 聖書


★やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

ルカ9章23節
★イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

■O:今日のコラム
今日のイザヤ書は、マタイ4:16に引用されていて、イエス様が多くのミニストリーを展開した、ガリラヤ地方に対する預言の言葉でした。が、今の時代の多くの場所にも当てはめることができるでしょう。
日本も、自分たちが置かれている都市、町、地域も、職場や学校、家庭も、イエス様の光が輝いていなければ暗闇です。人々は闇の中を歩んでいます。
イエス様こそが「大きな光」です。
私たちが置かれている領域の闇の中に、イエス様の光が輝くこと、これが神様の、また私たちの、切なる願いです。約2000年前のガリラヤ地方では、イエス様御自身を通してこの光-病人をいやし、捕われ人を解放し、罪から救う、福音の光が輝きました。
今、神様の御心は、教会を通して、この光を輝かせることです。教会はキリストのからだ(1コリント、エペソ、コロサイなど)であり、キリストは、私たちの信仰によって、私たちの心のうちに住んでくださる(エペソ3:17)からです。

マタイ6:22-23にこのように書かれています:
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

教会=キリストのからだ全身が明るく輝くためには、目が健全になることが必要です。
「健全」と訳されているギリシャ語は、英語の綴りで書くと、haplousで、シングル、シンプルという意味があります。単純である、一つである、ということです。

このマタイの節の前後には、「宝を地上にたくわえるのはやめなさい。あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。」、「神にも富にも仕えることはできない。ふたりの主人に仕えることはできない。」という教えが書かれています。

教会がイエス様のように、いのちの光を輝かせるためには、クリスチャン一人一人が、シングルな目を持つことが必要です。(キリストの身体の目に当たる、預言者(予見者)が、はっきりと見る、健全になる、ということも、必要です!)
地上と天と、二つの場所に自分の宝を蓄えたり、神とお金、二人の主人に仕えていては、輝けないでしょう。

今日のルカの箇所には、「わたしについて来たいと思うなら」と書かれています。
イエス様の御顔、御臨在、栄光、御声、御心を慕い求めるなら、御国を相続したいなら、日々、自分の十字架を負い、イエス様について行かなければなりません。

自分がどのような評価を得るか、自分がどのような報いを獲得するか、自分がどのように愛されるか、受け入れられるか、認められるか、どんなものを与えられるか、自分のミニストリーが成功するかどうか、…そのような思いに死んで、イエス様について行きましょう。
真理の御言葉、真理の御霊、平安と命の道に、今日、導かれていきましょう。


■A:考えてみよう
わたしの目はシングルでシンプルだろうか?イエス様だけを見つめているだろうか?自分の良い所や悪いところを見つめて、うぬぼれたり、落ち込んだりしていないだろうか?ほかの人やミニストリーを見て、比較していないだろうか?イエス様の麗しさを見つめて、イエス様が今しなさい、と言われていることに従っているだろうか?
自分の宝(お金、時間、エネルギー、考え、心…)はどこに費やされているだろう?
私はだれに仕えているだろう?
今日、捨てるべき自分とは具体的になんだろう?
今日負うべき自分の十字架とは何だろう?
私は、自分の野心や名声、欲に死んで、主の御霊に従っているだろうか?


■P:祈り
全能の神主よ。律法を成就してくださるイエス様。助け主、聖霊様。
↑上の「考えてみよう」に書かれたことは、考えれば考えるほど、自分の力では絶対できませんが、全能の神様にとって、不可能なことは何一つないと信じます。
暗闇の中に、イエス様の光を輝かせるために、シングルな目を持つことができるよう助けてください。
イエス様と最短距離にとどまることができるように、今日、自分を捨てて、自分の十字架を負って、イエス様について行けるように助けてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン


8月20日(土)のつぶやき

2016年08月21日 01時32分41秒 | キリスト教