座間コミニティー

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◆もしあなたが心底から信じるならば、

2016年08月25日 16時35分58秒 | 聖書
よいのです。(使徒八・三七欄外注)
 
敬虔な読者よ。このことばは、聖礼典に関するあなたのためらいに答えるであろう。あなたは、あるいは言うかもしれない。「私がバプテスマを受けるとは恐れ多いことだ。私自身がキリストと共に死に、主と共に葬られたと告白することは、私にとってあまりに厳粛なことである。私は主の晩餐に加わる気になれない。私は主のからだをわきまえないで飲み食いするために、自分にさばきを招きはしないかと恐れる」と。
あわれな震えおののく人よ。イエスはあなたに自由を与えておられる。あなたの家に見ず知らずの人が訪ねて来たならば、戸口に立ち、あるいは玄関に入って待つに違いない。自分の家でないからである。しかしあなたの子どもは自由に出入りしている。神の子の場合もこれと同じである。聖霊があなたに、子としての霊を自覚させられる時、あなたは恐れなく、キリストの聖礼典に列することができるのである。
キリスト者の内なる特権に関しても、同じことが言える。あわれな求道者よ。あなたは言い尽くせない喜びと栄光に満たされることが、まだ許されていないと考えている。もしあなたが、キリストの家の中に入ることを許され、主の食卓の末席につくことを許されたとしても、あなたは十分に満足すべきであろう。ああ、しかしあなたの特権は、最大の聖徒のもつ特権にいささかも劣るものではない。神はその子どもたちを愛するのに差別をされない。子はどう言っても子どもである。主は、子どもを雇い人のようには扱われず、子どものために子牛をほふり、音楽と踊りをもって喜ばせ、子どもが一度も家出をしなかったかのように扱われる。
イエスが人の心に来られる時、その人は主にあって喜ぶことを認められる。全き特権を許されるのは少しずつであるかもしれない。しかし、それは確実に来る。おそらくあなたは言うであろう。「私は御約束を喜び、主の戒めの中を自由に歩きたい」と。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」あなたのくちびるの鎖を取り去れ。イエスこそあなたを自由にしてくださる方だからである。
 
 

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

2016年08月25日 16時35分06秒 | 聖書


神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)

何か問題が起こる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上がる。
登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答えを見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。

理由捜しに必死になる。「なぜ?」「どうして?」誰しも無意識に自分は傷つきたくない、だから、自分以外のところに原因を捜し出そうとしてしまう。

そうすると、誰かのせいになってしまう。そして犯人探しをする。
弟子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。
「この人が盲目なのは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。

しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と言われた。
私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で通り、理屈で解明できるのなら、それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の上に立ち、神を動かす人生でしかない。

しかし、全主権は神にあり、人生で、「どうしてこんな事が」「なぜこんな事態に」と思うような、不意の突如の苦しみを経験する。

苦しく辛い、わけのわからない所も通る。
しかし、あれが悪い、これが悪い、誰が、かれがと、犯人探しをし、責め、非難するのでなく、神の素晴らしさを知るためとの信仰に立とう。

どんな苦しみ痛みも、必ず万事益とされ、その事で神ご自身を更に深く知り、神のご愛を知ることになる。
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困難や問題の意味はわからなくても、神様に目が向いている限りそれが神様発だと悟れる。
神様が関与しておられるから自分や人を責めず、神様の栄光の現われを忍耐して待とう。


今日の聖人の記念日

2016年08月25日 07時38分47秒 | キリスト教

聖ルイ

1214年-1270年

 ルイ9世は、12歳でフランス国王に即位した。幼い彼に代わり母ブランシュが王権を代行したが、1236年からは彼が実権を握り、以後35年間国を治めた。彼は、深い信仰をもった憐れみ深い王であり、国内の経済の安定を図るとともに、各地に貧しい人びとや病人のために施設をつくり、教会を建て、またソルボンヌ大学を発足させた。彼は、シトー会、フランシスコ会、ドミニコ会のよき理解者・保護者であった。

 晩年、イスラムに占領されたエルサレムを奪還しようと十字軍を起こしたが、途中チュニスで伝染病にかかり、亡くなった。彼はヨーロッパ中世の理想的君主とされている。

 聖ヨセフ・カラサンス司祭

1557年-1648年

 ヨセフ・カラサンスは、1557年スペインのペラルタ・デ・ラ・サルで、7人兄弟の末っ子として生まれた。 彼は大学で法学と神学を学び、26歳のとき司祭となった。バルセロナ大学で法学と神学の博士号を取得した彼は、ローマに行った。彼は貧しい子どもたちが学校に行くことができず、町に放置されているのを目にして、心を痛めた。彼らへの教育の必要性を感じたヨセフは、何人かの同志たちと無報酬で学校を始めた。子どもたちが増え、大きな建物が必要になったとき、教皇クレメント8世(在位1592-1605)が援助し、その援助は教皇パウロ5世(在位1605-1621) のときまで続いた。しだいにヨセフと同じ志を持つ青年たちが集まり、ヨセフは1600年に「エスコラピオス修道会」を創立し、彼は初代総長となった。

 しかし、貧しい人々への教育に対する人々の無理解や偏見がヨセフを苦しめた。当時、学問は貴族や裕福な人々のものであると考えられていたからである。彼は、「すべての人々が幸福になるためには、それぞれに与えられた才能を伸ばすことが大切であり、そのために教育が必要である」ことを訴えた。また、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイはヨセフの友人で、科学が神の考えと矛盾しないと信じていた彼は、ガリレオの研究を手伝った。教会の中で地動説に反対する人がほとんどだったため、人々は衝撃を受け、修道会も分裂していった。


◆富・名声・愛顧

2016年08月25日 07時37分35秒 | 聖書

名声は多くの富よりも望ましい。
愛顧は銀や金にまさる。       (箴言二二1)
 
ここには、「富・名声・愛顧」の三つの価値が並べて書かれています。
「富」は望ましいものです。しかし、富だけをたよりにすることは、どんなに愚かでむなしいものでしょう。これは、昔スペインで起こったことだそうです。金貨をためこむことにただ執念を燃やしていた男がいました。日に一度、金庫室の中で金貨を数えるのが唯一の楽しみでした。ところが、この男が行方不明になりました。八方手を尽くしたが分かりません。何年もたって、この男の財産がすべて人手に渡った時、秘密の金庫室が発見され、その中で白骨死体となっていた男が発見されました。どうした不注意か、自分で自分を金庫室の中に閉じこめていたのです。どんなにわめいて助けを求めたか、分かりません。しかし、金貨はピカピカ光るだけで助けてくれなかったのです。
「名声」も望ましいものです。ヘブル語で名(シェーム)とは、人格のことです。人の言うことや人の評判ばかりを気にしていたら、人生、わなに陥ります。しかし、長い間に、多くの人々がその人を見る目は、そんなに問違ってはいません。多くの人々に「ああ、あの人は人格者だ」といわれるような人格を持つこと、これは富よりも一段と価値が上でしょう。
しかし聖書は、一番価値のあることは、神の「愛顧」を得ること・神の恵みを受けること・神に喜ばれることだと言います。極端にいうならば、神に目をかけていただく、神にえこひいきしていただくことです。神の一番きらいなことは、偽ること・高ぶること・神などいらないという心です。神の一番好きなことは、素直に罪を悔い、くだかれた魂になって、神の愛の中に飛びこむことです。神の愛の中に飛びこんで、愛し仕えることを学ぶ時、人格も富もぞろぞろ従ってくると、イエス・キリストは言われました。
 
 

◆その実は私の口に甘いのです。

2016年08月25日 07時36分48秒 | 聖書
(雅歌二・三)
 
信仰は、聖書の中で、あらゆる感覚の象徴として語られている。
それは視覚である。「わたしを仰ぎ見て救われよ。」それは聴覚である。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」信仰は嗅覚である。「あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち……。」「あなたの名は注がれる香油のよう。」信仰は霊的な触覚である。この信仰によって、女はキリストの後ろから近寄って主の着物に触った。そしてこれによって私たちもいのちのよきことばに触れるのである。信仰はそれとともにたましいの味覚である。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」キリストは言われた。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」この「味覚」は、信仰の最も高度な働きの一つである。
信仰の最初の働きの一つは聴覚である。私たちは外の耳だけでなく、内の耳をもって神の声を聞く。それを私たちは神のことばとして聞き、かつ神のことばであることを信じる。これが信仰の「聴覚」である。その後、私たちの心は私たちの前にある真理を見る。すなわちそれを理解し、その意味を認める。それが信仰の「視覚」である。次に私たちは、その尊いことを発見し、それを賞賛し始め、それがどれほど良い香りを放つかを見いだす。これが「嗅覚」の信仰である。それから私たちは、キリストにあって備えられているあわれみを自分のものにする。これが「触覚」の信仰である。そして、喜び、平和、楽しみ、交わりなどが続く。これが「味覚」の信仰である。
これらの信仰の働きの一つ一つは、どれも霊的向上に導くものである。まずキリストの声を、たましいに対して語られる確かな神の声として聞くならば救われる。しかし私たちに真の喜びを与えるのは、聖い味覚によりキリストを心のうちに迎え入れ、主の麗しさと尊さとを知って、たましいの糧とする信仰である。
 
 

ヨブ記4章1-11節

2016年08月25日 07時35分28秒 | 聖書


4:7 「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。
4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」



 ヨブを慰めに来た友人達は、あまりにひどいヨブの身体の悲惨な状況を見て、彼に近づくことも、彼に語りかけることも、しばしできませんでした。

 ヨブが自分の苦しみや痛みに耐えがたいことを覚えて、その現実の苦しみを訴え始めた時、彼らは意を決したようにして、ヨブに語りかけ始めました。

 ヨブの友人であるテマン人エリファズが、まずヨブに語りかけました。

あなたは神を恐れることを日ごとに人に語ってきた、そして自分の行いを誇っていた人ではないのですか。

その人が、つぶやくとはなぜなのか、というのです。

神は、善を行っている人に悪いことを行って、報いることがあろうかというのです。

だから神の前に悪をなしたから、ヨブに苦しみが来たのだというのです。



ルカ12章6~7節(イザヤ12章)

2016年08月25日 07時33分11秒 | 聖書


★五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

■O:今日のコラム
みなさんは、自分が期待していたことと違った結果が出た時に、どのようにしてその事実を受け止めますか?
「あーやっぱりな。これは宿命だったんだ。」とか「運命だから仕方ない。」そのように思うことってないですか?
今日のみことばには、「雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」とあります。一羽の雀の一生さえも、心にとめてくださる神様の摂理がそこにあるんです。
不思議なことがたくさん起こる創世記のヨセフを思い出してください。兄弟たちは、なぜヨセフは売ろうと思ったのでしょう。なぜそこにイシュマエル人が来たのでしょう。なぜ彼らはエジプトへ行くところだったのでしょう。なぜヨセフはポティファルの家に売られたのでしょう。
なぜヨセフは監獄に入れられたのでしょう。なぜエジプト王の献酌官と調理官が、ヨセフと同じ監獄に入れられたのでしょう。なぜ彼らは夢を見たのでしょう。ヨセフが解き明かしをして監獄から出られたのに、なぜ彼はヨセフのことを忘れてしまったのでしょう。のちに、パロが夢を見たときに、なぜ彼はヨセフのことを思い出したのでしょう。そして、ヨセフはパロの夢の解き明かしをして、エジプト全土を支配する者となりました。
ここで起きたことは、どれ一つ欠けても成り立たなかったことなんです。宿命や運命などではないんです。私たちを愛してやまない天の父なる神様の摂理なんです。
「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」これは、髪の毛まで登録されているという意味です。神様は、私たちの体の最小の部分さえも知っておられるお方、私たちの心の全てを知っておられるお方ですから、私たちは何の心配や恐れも無く、全てを委ねることができるんです。

■A:考えてみよう
私たちは、期待した結果が得られなくてもネガティブな考えを持つのではなく、一羽の雀さえも導かれる神様の摂理の中に生かされていることを喜び感謝しましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月24日(水)のつぶやき

2016年08月25日 01時32分41秒 | キリスト教