救いのとりでの全体は、神の力によって守られている。とりでの中の小さな塔すら、全能の御力によって守られている。契約を覚えることすら、私たちの記憶に任せられていない。私たちは忘れるかもしれないからである。しかし、私たちの主は、ご自分の手のひらに刻まれた聖徒たちを決してお忘れにならない。
私たちは、エジプトにおけるイスラエル人のようである。家の入口の二つの門柱とかもいに血が塗られていた。しかし主は「あなたがたが血を見る時、わたしはあなたがたの所を通り越そう」と言われたのではない。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」と言われたのである。私が主を仰ぎ見れば、喜びと平安が与えられる。しかし、私の救いと、すべての選ばれた者の救いが確かなのは、神がイエスを見られることによる。私たちの神は、血を流された私たちの保証人であるキリストを見、すでに主にあって処罰されている罪のゆえに、なお私たちに怒りを発することはおできにならないからだ。
救いは、私たちが契約を思い起こすことによるのではない。それは、人から来たものではなく、人によるのでもない。ただ、主のみによる。私たちは契約を覚えるべきであり、神の恵みによってそうしようとする。しかし私たちの安全のかなめはそこにはない。すなわち神が私たちを記憶してくださることにあるのであって、私たちが神を記憶することにあるのではない。それゆえに、その契約は永遠の契約なのである。