座間コミニティー

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◆わたしは……

2016年08月13日 18時51分36秒 | 聖書
わたしの契約を思い出す……。(創世九・一五)
 
約束の型に注意せよ。神は「あなたが虹を見て、わたしの契約を記憶しているならば、わたしは地を滅ぼさない」とは言われなかった。契約は、私たちの気まぐれな弱い記憶には基づかず、無限にして不変な神の記憶に基づいている。「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て……永遠の契約を思い出そう。」おお、私の安全の基礎は、私が神を思い起こすことにはなく、神が私を思い起こされるところにある。私が神の契約をとらえるのではなく、神の契約が私をとらえる。
救いのとりでの全体は、神の力によって守られている。とりでの中の小さな塔すら、全能の御力によって守られている。契約を覚えることすら、私たちの記憶に任せられていない。私たちは忘れるかもしれないからである。しかし、私たちの主は、ご自分の手のひらに刻まれた聖徒たちを決してお忘れにならない。
私たちは、エジプトにおけるイスラエル人のようである。家の入口の二つの門柱とかもいに血が塗られていた。しかし主は「あなたがたが血を見る時、わたしはあなたがたの所を通り越そう」と言われたのではない。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」と言われたのである。私が主を仰ぎ見れば、喜びと平安が与えられる。しかし、私の救いと、すべての選ばれた者の救いが確かなのは、神がイエスを見られることによる。私たちの神は、血を流された私たちの保証人であるキリストを見、すでに主にあって処罰されている罪のゆえに、なお私たちに怒りを発することはおできにならないからだ。
救いは、私たちが契約を思い起こすことによるのではない。それは、人から来たものではなく、人によるのでもない。ただ、主のみによる。私たちは契約を覚えるべきであり、神の恵みによってそうしようとする。しかし私たちの安全のかなめはそこにはない。すなわち神が私たちを記憶してくださることにあるのであって、私たちが神を記憶することにあるのではない。それゆえに、その契約は永遠の契約なのである。
 
 

「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、

2016年08月13日 18時50分38秒 | 聖書

着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝してから」(Ⅱサムエル 12:20)

ダビデは姦淫と殺人の二重の罪を犯した。
神が遣わされたナタンからの罪の指摘により、罪を認めて告白した。
「私は主に対して罪を犯した」。その罪は赦された。

「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」。
罪は赦されるが、しかし、罪には刈り取りがある。
蒔いたものは刈り取る。「あなたに生まれた子は必ず死ぬ」。

バテシバが産んだ子供が病気になった。ダビデは祈り、断食し、一晩中、地に伏した。
ひたすらその子の癒しを祈った。

心からの切なる祈りも叶わず、その子供は死んでしまった。
ダビデはその死を聞いた時、怒ったり、わめいたり、呪ったり、嘆いたりしなかった。

起き上がり、からだを洗って、身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮へ入り礼拝した。
主の御名を崇めた。
ダビデは心からの切なる願いに対して、神の答えが「ノー」であった時、それを受け入れたのだ。

私たちも、どんなに願っても、「ノー」が神からの答えである時、それを受け入れる事を教えられる。
時に、「ノー」の答えがある。

パウロが肉体のとげを取って欲しいと懇願した時、神からの答えは「ノー」だった。
とげがあった方が、より神の栄光と力が現わされ、神の臨在をもって弱さを覆うと。
私たちも「ノー」の答えが来た時、受け入れられるよう祈ろう。
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どのような答えも神様の御心だ。
ノーの答えに神様を認め受け入れよう。
祈りが変えられ、また砕かれ、次の道へと導かれる。



今日の聖人の記念日

2016年08月13日 07時18分18秒 | キリスト教

聖ポンチアノ教皇 聖ヒッポリト司祭殉教者

230~235在位/170年ごろ-236年

 ポンチアノが230年に教皇の座についたとき、教会は分裂していた。その発端は、聖書についての深い知識と思想の持ち主、3世紀で最も有名なローマの神学者、ヒッポリトだった。彼は、旧約聖書のダニエル書や雅歌の注解書、また3世紀のローマ教会の生活と典礼について述べた『聖ヒッポリトの使徒伝承』を書いた。

 ヒッポリトは3世紀の最も有名なローマの神学者であるが、最初の「対立教皇」でもあった。ヒッポリトは教皇ゼフィリーノの教えを拒否し、その後継者の教皇カリストにも反対して、自分に追従する者たちから対立教皇として推挙された。

 しかし、ローマ皇帝マクシミアヌスの迫害を受け、教皇ポンチアノはヒッポリトとともに逮捕されサルデェニア島に流されて、重労働の刑を受けた。そこでヒッポリトは再び信仰を取り戻して教会に立ち返り、教皇ポンチアノと同じ信仰に結ばれて親交を深めたという。ポンチアノは、解放への希望がないことを悟り教皇職を退いたが、劣悪な環境の中で捕らわれの身のまま死亡した。ヒッポリトが亡くなった後、迫害が終わってから、2人の遺体はローマにもち帰られた。8月 13日は、この移転を記念している。

 その後、ヒッポリトの殉教を伝える物語が多く広まったと言われる。


◆人の心の値打ち

2016年08月13日 07時17分12秒 | 聖書

人は自分の道はみな正しいと思う。
しかし主は人の心の値うちをはかられる。(箴言二一2)
 
「人は自分の道は正しいと思う。」それには人によって個人差がありましょう。でも、ほんとうにそうだと思います。今の場合、自分の意見とやり方は正しい、するべきことはこれだけだと思い、人に聞こうとしないで押し通そうとすることがよくあります。
私たちの意見・アイデア・やり方・方策。――これも大切です。しかし、そんなものを生かすといいますか、そんなものに力と永遠の価値を与えるものは、人の心の動機なのです。人はうわべを見て判断しますが、神は、心・その中味・動機を見て測られます。
イエス・キリストの愛によって、寂しい劣等感が吹き飛ばされ、人生のどうにもならない挫折感から立ち直ったマリヤは、新しい人となりました。そして、感謝と敬愛の念にかられてマリヤは、ナルドの香油のつぼを割って、時価二百万円もする油全部をイエス・キリストにふりかけました。すると、同席していたイスカリオテ・ユダが言うのです。「ばかなことをする女だ。この香油を売って貧しい人に施しをしたら、何十人、何百人が助けられるのに。」しかし、イエス・キリストは言われました。「どうして女を責めるのですか。この人は、私に美しいことをしてくれました。精いっぱい、できるかぎりのことを、私の葬りの準備をしてくれたのです。」イエス・キリストは、ちゃんと女の心とユダの心の値打ちを測られ、知っておられたのです(ヨハネ一二3―8参照)。
ユダはイエスのそばに三年半いても、イエス・キリストを心の中に迎えていませんでした。いいアイデアや意見はありましたが、最後はアケルダマの畑で首をつって滅びました。一方、イエスに心を変えていただいたマリヤは、現在に至るまで、私たち一人一人の心に語っているではありませんか。
 
 

◆主の植えたレバノンの杉の木……。

2016年08月13日 07時16分18秒 | 聖書
(詩篇一〇四・一六)
 
レバノンの杉の木は、主によって植えられたという点においてクリスチャンを象徴する。これはすべての神の子どもにとって真実である。彼らは人によって植えられず、自ら生えず、ただ神によって植えられたのである。ご自身で準備された心の畑に、聖霊が見えない手をもって生きた種を蒔かれた。天国の真の相続者はすべて、偉大な農夫である神によって植えられたのである。
さらにレバノンの杉の木は、人の手によって水を注がれなくてもよい。それらは高い岩の上に立ち、人の手で灌漑されることはない。私たちの天の父がそれを潤してくださるのである。信仰によって生きることを知ったクリスチャンも同様である。彼はこの世のことについても人に頼らない。彼は生きるための養いを主なる神に、ただ神のみに求めるのである。天の露は彼の糧であり、天の神は彼の泉である。
またレバノンの杉の木は、人の力によって保護されない。それらがあらしから守られるのは、人の力によるのではない。それらは神の木であり、神によって守られる。しかり。ただ神によってのみ守られている。クリスチャンも全く同様である。彼は誘惑から隠されている温室の草木ではない。彼は風雪にさらされている。彼には、永遠の神がご自身の植えられた杉の木をその大きな御翼によって常におおわれる以外に、何の避け所も保護もない。杉の木のように、信者は活力に満ち、厳冬の雪の中でも縁のままであるだけの生命力をもつ。
最後に、杉の木の繁茂している堂々たる威容は、神のみを賛美するためにある。杉の木にとっては、主のみがすべてである。そのためにダビデは詩篇の一つで、「主をほめたたえよ。……実のなる木よ。すべての杉よ」と歌った。クリスチャンの中には、人をほめたたえるものは何もない。彼は主ご自身の御手によって植えられ、育てられ、かつ保護された。それゆえ、すべての栄光を主にお返しするのである。
 
 

エステル記4章10-17節

2016年08月13日 07時14分57秒 | 聖書


4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。
4:14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」



 モルデカイは、エステルから王の前に出て、ユダヤ人のために嘆願するようにと伝えました。

しかしエステルは、王の許可なくして王の前に出れば、殺害されるかも知れないと言って、躊躇する返事を送りました。

するとモルデカイは、もしあなたが今の豊かな生活に甘んじて、苦しみの内にある民のために何もしないのであれば、主があなたとあなたの家族を裁かれるであろうと語り、あなたが王妃に選ばれたのは、このような難関の事態に備えるために、主があなたを起こされたのかも知れないと告げました。

彼女は心に決めました。

そして、断食して祈って下さいと告げたのです。

主の民のために、命をかける覚悟をしたのです


ルカの福音書1章 37節

2016年08月13日 07時12分38秒 | 聖書


★神にとって不可能なことは一つもありません。

■O:今日のコラム
現在、私は週に1度、四福音書を継続して朗読していますが、そこから莫大な恵みを受けています。福音書を言葉に出して朗読する時、イエス様御自身と御言葉を通して会話をし、イエス様の声を聞き、主との人格的な交わりを味わいます。また主イエスの誕生から十字架の死と復活に至るまで、イエス様ご自身が歩まれた足跡を日々、自分もたどり主に従いついて行く事が出来ます。福音書を朗読する時に、主イエスの言葉が私達の内に住まい、生きるようになるのです。

マリヤが御霊によって主イエスをみごもった時、御使いガブリエルは「神にとって不可能なことは一つもありません。」と言いました。これは原文のギリシャ語を見ると、「神のレーマには不可能な事はない。」と書かれています。つまり「神が語った生ける御言葉に不可能な事は一つもない。」という意味なのです。

旧約聖書から新約聖書に至るまで、神の計画をみごもり産み出す「女」を主は探しておられます。その女とはイスラエルでありまた教会「主の民」を意味します。マリヤが主の御言葉を受けてその約束をみごもった様に、今も主の御言葉を受けて主の民が神の計画をみごもり、それをこの地に見える形として産み出すのです。

その為に私達は主の御言葉を朗読し、今も命に満ち溢れて働く神の生ける言葉「レーマ」を受け取る必要があるのです。また御言葉を聞いたなら、その言葉を守り行なって行く時に、確かに主の御言葉が私達の内に実を結ぶのです。マリヤが言った様に「ほんとうに、私は主のはしため(しもべ)です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)という信仰の姿勢を持ち、主の御言葉に従順する事が出来ますように。

■A:考えてみよう
主のレーマを受ける為に、日々御言葉の朗読を続けて行きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月12日(金)のつぶやき

2016年08月13日 01時33分22秒 | キリスト教