座間コミニティー

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さよならするは

2016年08月17日 20時28分24秒 | 小説・詩

振りく向く

白いスカーフが風になびく

昨日への愛い

あなたを忘れるための旅たち

あなたのまなざしが

まぶしい

許されもない恋に

さよならするは

誘惑の暑い砂

若い日の幻

 


◆この病気は死で終わるだけのものではなく……。

2016年08月17日 16時46分30秒 | 聖書
(ヨハネ一一・四)
 
主のみことばによって、病気には限度のあることがわかる。「死で終わるだけのものではない」とは、終局の限度が抑えられており、その限度を越えて進むことはできないという意味である。ラザロは死を通り抜けたであろう。しかし、死は彼の病気の終点ではなかった。すべての病気において、主は押し寄せる苦しみの波に対してこう言われる。「ここまで行ってもよい。しかし、これから先はいけない」と。主が定められた目的は、破壊ではなく、その民を教え導くことである。知恵は炉の口に温度計を備えて、温度を調節する。
一、制限は私たちの励ましとなるほどに、多くのことを含む。摂理の神は、私たちのすべての病気の期間、容態、強さ、反復、影響を制限しておられる。私たちの心臓の一つ一つの鼓動、眠れない時の時間は、あらかじめ定められており、私たちの病気の一進一退、力の衰えることもあらかじめ知られ、その結果としてもたらされる聖別も、永遠の昔から計画されている。どんなものでも、大小を問わず、私たちの頭の毛さえも数える神の御計画の御手からもれることはない。
二、この制限は、私たちの力、その目的、与えられる恵みを考慮して、思慮深く調整されている。患難は偶然にふりかかるのではない。一つ一つのむちの強さは、正確にはかられている。雲の重さをはかり、天の高さをはかるのに決して誤ることのないお方が、たましいに与える薬の調合を誤ることはない。私たちが必要以上に苦しみすぎたり、救い出される時機が遅れすぎることは決してない。
三、この制限は優しく定められている。天の外科医のメスは決して必要以上に切開しない。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」母の心は叫ぶ。「私の子どもを助けてください」と。しかし、私たちの恵み深い神ほど愛に富む母親はいない。私たち自身がいかに強情であるかを考える時、追放されていないのがむしろ不思議である。
私たちの住まいの境界を定めた方が、患難の限界をも定められたことを思う時、慰めに満たされる。
 
 

「しかし、人が主に向くなら、

2016年08月17日 16時45分22秒 | 聖書

そのおおいは取り除かれるのです」(Ⅱコリント3:16)

当時のユダヤ人たちは、律法に救いを求めていた。
律法を懸命に守り、戒めを行ない、形式上守っている事で自らを誇り、自己満足していた。

又、御言葉によらない、人間による多くの言い伝えを作り、それを守る事にきゅうきゅうとしていた。
人にも強いていた。

律法が主キリストによって成就されるという事が全く見えず、盲目であったため、主を拒み、否定し、主を追い詰めて行った。

律法は罪を明らかにし、私たちをキリストへ導くための養育係だ。
律法自体は聖なるものであり、正しい良いものだ。
律法ではなく、彼らの頑なな心が問題であった。

頑なな心が真理に対して「おおい」となってしまう。
私たちも様々な外的状況があり、環境に拘束されるし、身動き取れない対人関係に縛られたりする。

働かなければ食べて行けないし、仕事に拘束される。
しかし、これは実は、心が問題だ。
心が、その外的なものを「おおい」にし、自らの自由を奪い、縛り拘束してしまう。

外的状況ではく、自らの内の自己中心、高慢、プライド、虚栄、貪欲、思い煩い、恐れ・・自我が問題だ。

その証拠に、その状況で自らを全く主に明け渡すなら、全く同じ状況で、「人のすべての考えにまさる神の平安」を経験する。
全き平安におおわれる。

自分を捨てて、自らを明け渡し、まっすぐに主に向く時、自分の内のおおいが取り除かれる。
不安と思い煩いも失せ、心が自由になる。
外的なものでなく、心の問題だ。
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肉が働きその報酬を手にする事も感謝だが、すでに全てに勝る価値ある恵みを、主から受けている者だということを感謝しよう。
今日も主に向いて頑ななおおいを取り除こう。


今日の聖人の記念日

2016年08月17日 06時53分35秒 | キリスト教

 聖ヒアキントゥス

1185年ごろ-1257年

 ヒアキントゥスは、ポーランドに生まれ、クラクフ、プラハで学問を修めた。

 彼の叔父であるクラクフ司教イヴォとともにローマを訪れたとき、聖ドミニコと出会い、感銘を受けて、1218年にドミニコ会に入った。その後、宣教師としてクラクフに派遣され、説教をしてこの地の人々を回心させた。彼は、リトアニア、ボヘミア、さらに北のノルウェー、デンマーク、スウェーデン、またイギリスにまで行き、各地に修道院を創立して、宣教活動に励んだ。

 ヒアキントゥスは「北方の使徒」と呼ばれている。彼は、ポーランドの守護の聖人として聖ヤッコとか聖ヤチェクとも呼ばれ親しまれている。


◆三  つ  の  心

2016年08月17日 06時52分35秒 | 聖書

あざける者が罰を受けるとき、
わきまえのない者が知恵を得る。
知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。(箴言二一11)
 
ここには、「あざける者」「わきまえのない者」「知恵のある者」の三つの心の状態が比較されています。箴言一九章にも、同じようなことばが出てきました(25節)。
ヘブル語の原語で調べると、面白いことが分かります。
* レーツ(あざける者)=心が閉ざされた者。
* ペシー(わきまえのない者)=心がからっぽの者。
* ハーハーム(知恵のある者)=心が神に向かって大きく開かれた者。
ですから、これらの表現は知能指数が高いとか低いとか、ばかとか利口とかいうことではありません。
第一に、あざける者は、心が閉ざされています。自分は正しいと思いこんで、ほかの人の言うことに耳を開かず、人をばかにします。服装や身分や履歴や外見で人を判断し、人を人として受け入れません。こういう人は、こらしめてもよくならない人です。
第二に、わきまえのない者、これは心のからっぽの人で、善にも悪にもすぐ染まりやすい人です。しかし、この人は、人が罰を受けているのを見て、これはいけないと分かる人です(箴言一九25参照)。
さて第三に、知恵のある者・悟りのある者は、神に向かって、心が大きく開かれた者です。すべての真理とすべての知恵が神から来ることを知っています。飢え渇いた求める心で神に聞き、学ぶので、生きた、人を生かすいのちの知恵を与えられるのです。イエス・キリストは、こう言って招いておられます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七37―38)。
 
 

◆神の恵み……。

2016年08月17日 06時51分36秒 | 聖書
(詩篇五二・八)
 
神の恵みについてしばらく静かに考えよう。
それはあわれみ深い恵みである。優しく愛のこもった手で触れて、神は悲嘆に沈む心をいやし、その傷の手当てをなさる。神の恵みの内容と同じく、実際の扱いもまた情け深い。
それは大いなる恵みである。神のうちに小さなものは何もない。神の恵みはご自身のように無限である。たぐいなく大きいので、大罪人の大きな罪を赦し、大きな恩恵と特権を与え、引き上げて、偉大な神の大いなる天での大きな喜びにあずからせてくださる。
それは無条件で与えられる恵みである。真の恵みはすべてそうでなければならない。条件つきの恵みはさばきの別名だからである。神に反逆した罪人がただちに永遠の炎に投ぜられたとしても、それは当然である。万一怒りを解かれたとすれば、それは神の一方的な愛のゆえである。なぜなら、罪人の側にはそれを要求する根拠は何もないからである。
それは豊かな恵みである。この恵みは、あなたのうなだれたたましいの強壮剤であり、血の流れる傷口につける高価な薬、折れた骨に対しての天来のほうたい、疲れた足を助ける王の車、また震えおののく心に対する愛の思いやりである。
それは幾重もの恵みである。あなたは、ただの一つの恵みしか受けていないと思うかもしれない。しかし少し考えれば、それが恵みの房であることがわかるであろう。
それは満ちあふれる恵みである。多くの人がその恵みを受けたが、それは枯れることなく依然として新鮮であり、充満しており、無代価で提供されている。
それは信頼するに足る恵みである。決してあなたを離れない。恵みがあなたの友であるなら、それは誘惑の時にも共にあって、敗北から守り、苦難の時にも共にいて、意気消沈から守る。あなたが生きている時にはあなたの顔の光、またいのちとなり、あなたが死の谷間にあって、この世の慰めがにわかに去っていく時にも、あなたのたましいの喜びとなるであろう。
 
 

エステル記6章10-14節

2016年08月17日 06時49分55秒 | 聖書


6:10 すると、王はハマンに言った。「あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえてはならない。」



 モルデカイを柱につけるために、王に願いを申し上げようとして、ハマンが来ました。

王は、自分のために労を執ってくれた者には何を持って報いたら良いか、とハマンに聞きました。

彼は自分が褒美に預かるのかと思って、それには王が着ている服を持ってこさせ、馬には王冠をつけ、町の広場に導いてその人のことを褒め称えさせることが良いです、と答えました。

それを聞いた王は、その通りにモルデカイにするようにと、ハマンに命じました。

彼には思いがけないことでしたが、王の命令です。

ですから、そのまま実行しなければなりませんでした。

思い違いによって彼は、自分が受けるべき最上級の扱いを、モルデカイに与える羽目になってしまいました。

怒り心頭、大きな悔いの残ることでした。

よく見定めずにことを行った、彼の愚かさです。

神は、それを用いられたのです。


★ルカ5章5-6節

2016年08月17日 06時47分39秒 | 聖書

「するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」
★ルカ5章8-9節 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。」

■O:今日のコラム
今日の箇所は、私たちがよく知っている奇跡の一つでもあり、漁師であったペテロたちが人間をとる漁師として召し出される場面です。マタイやマルコの福音書にも彼らが召し出された場面が書かれていますが、その前に起きたこの奇跡については、ルカの福音書にだけ書かれています。
夜通し働いても何一つ魚がとれず、人間的には難しいと思える状況の中で、ペテロがイエス様のことばに従ったとき、大漁の奇跡を見ました。これを見たペテロがすぐにとった行動は、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」という告白です。
「ひれ伏す」という行為は、あなたが私の主です、私の神です、私の王です、その支配と主権を認めます、という象徴であり、それは同時に、私はあなたのしもべです、あなたに従います、ということを意味すると、私達はアテフ先生のセミナーで学びました。ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏さずにはいられませんでした。彼は、イエス様が聖なるお方、神であり、救い主であるということを悟ったのです。

イエス様のもとにひれ伏すということは、御言葉にひれ伏すことでもあります。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1章1節)
私たちは、日々の生活の中で、御言葉をどのくらい重んじて朗読し、祈り、宣言しているでしょうか。御言葉であられるお方の前に、ひれ伏しているでしょうか。自分の言葉、思い、心が神様より、御言葉の基準より高くなっていないでしょうか。私も最近、御言葉を朗読し、ひれ伏す礼拝を継続する中で、私の内にまだ隠れていた罪や従えなかった部分が明らかにされ、悔い改め、御言葉と血潮によりきよめられ続ける経験をしています。

私たちの状況や環境、成果がどのようであっても、私たちがイエス様のことばに従い、この御言葉に権威と力があることを認めるならば、ことばであるお方、イエス様ご自身がその主権を持って私たちを導いて下さると信じます。この主権は私たちにあるのではなく、神のもの、神のことばにあります。唯一の主権者、王の王、主の主はただおひとりです。
ペテロが「何もかも捨てて、イエスに従った」とあるように、私たちもそのようにイエス様に従って歩みたいと願うなら、本当にシンプルで重要なことだと思います。日々、自分の肉の力に死に、御言葉であられるお方のもとにひれ伏し、私達の人生の支配と主権をイエス様の御手の中に明け渡し、信頼し続けていきたいと願います。


■A:考えてみよう
・毎日、御言葉を朗読し、ひれ伏し、礼拝を捧げる時間を持っていきましょう。私たちの状況、環境ではなく、御言葉が何と言っているか、御言葉の力、権威に同意して、従うことを選びとっていけるように、聖霊様の助けを受け、祈りましょう。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月16日(火)のつぶやき

2016年08月17日 01時34分19秒 | キリスト教