座間コミニティー

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◆もし神が光の中におられるように、

2016年08月31日 16時21分31秒 | 聖書
私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)
 
私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。
 
 

『「わたしは主に対して罪を犯した」ナタンはダビデに言った。

2016年08月31日 16時20分33秒 | 聖書

「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」』(Ⅱサムエル12:13)

ダビデはバテシバと姦淫し、それを隠ぺいするために、夫であるウリヤを殺害した。
自分はトップであり、すべて意のままであり誰一人自分に指図する者はない。

その地位ゆえに、この犯罪を隠しおおした。
しかし、人の目に知らぬ存ぜぬで通せても、神の目には裸であり、神は見ておられた。

罪を隠していた間、激しい苦悶にうめいていた。神の御手だ。
「1日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄はひでりでかわききった」。

心はカラカラにかわいて苦しんだ。主は捨て置かれず、預言者ナタンを送られた。
富者が貧者の大切な唯一の子羊を奪った話をすると、ダビデは「そんな男は死刑だ!」と激しい怒りに燃え叫んだ。

それこそまさに自分だと気づかなかった。ここから見る事ができる。
自分に密かな罪があり、その罪が赦されていない時、他者に対して非常に厳しくなる。

他者を厳しく糾弾する。自分が主からの赦しを受け取っていないと、他者を責めさばく。
なぜさばくのか。無意識の中で、自分の罪に自分が責められているからだ。

それが他者に向かう。ダビデは即、悔い改めた。自由と喜びと平安が戻った。
主は豊かに赦して下さる。
自分自身が溢れる赦しを受け取り、赦されて赦されて歩むからこそ他者を赦す事ができる。
さばく者でなく赦す者へと変えられる。
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隠しておきたい罪を認めなけれな赦されようがない。
良い者にはなれない自分を認め、御前に悔いる時に必ず赦されるとは、なんという感謝か。


今日の聖人の記念日

2016年08月31日 07時52分39秒 | キリスト教

 聖ライムンド・ノンナート

1204年ごろ-1240年

 ライムンドは、スペインのカタロニアで生まれた。
 母が難産のため亡くなったので、ライムンドは帝王切開で取り出され、そのため「ノンナート」(ラテン語で「生まれそこない」)という名前が与えられた。

 生涯に関する記録はほとんど分からないが、ペトロ・ノラスコが創立したメルセス会の修道会に入ったといわれている。

 北アフリカやスペインで、イスラムの捕虜となっているキリスト教徒の解放のために活動した。
 命を落としそうになったことも度々あったが、ライムンドは彼らを救うために命がけで使命を果たした。

 スペインに戻ったライムンドは、教皇グリゴリオ9世によって枢機卿に任命された。教皇は彼をローマに呼んだが、その旅の途中、カルドナで病に倒れて亡くなった。


◆善  意  の  人

2016年08月31日 07時51分36秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)
 
さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。
 
 

◆わたしの腕に拠り頼む。

2016年08月31日 07時50分40秒 | 聖書
(イザヤ五一・五)
 
激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。
 
 

ヨブ記1章1-5節

2016年08月31日 07時49分08秒 | 聖書


1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。



 ヨブは豊かな人でした。

その豊かさは、並外れていました。

「彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。」と言われています。

東の地で一番の大金持ちでした。

こうした豊かな人というのは、他の人から、最も神様に祝福された人と思われたことでしょう。

ところで、彼の豊かさは、物質的な面だけではありませんでした。

彼は霊的なことでも心豊かな人でした。

神を恐れ、自分の息子たちが、神の前で罪を犯して神様をあなどった歩みをすることを、きわめて警戒しました。

彼自身が神を恐れ敬うことを、最も大事なこととしたからです。

彼は霊肉共に、神の前で真実な人であったのです。



8月30日(火)のつぶやき

2016年08月31日 01時34分02秒 | キリスト教