座間コミニティー

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◆わたしは彼らの痛みを知っている。

2016年08月14日 17時08分20秒 | 聖書
(出エジプト三・七)
 
子どもが「お父さんなら知っている」と歌う時、子どもは慰められるものである。私たちもまた、私たちの愛する父なる神、私たちの優しいたましいの夫が、自分のことをすべて知っておられることを知るならば、慰められないであろうか。
一、主は医者である。主がすべてを知っておられるなら、患者は何も知らなくてよい。黙れ。愚かな動揺する心よ。おまえは詮索し、のぞき見をし、そして疑う。おまえに今わからないことも後にはわかるようになる。愛する医者である主が、逆境にあるおまえの霊をご存じである。なぜ患者が、薬を分析したり、いろいろな病状を診察したりする必要があるのか。私のなすべきことは信頼することである。私に読めない字で処方箋を書かれても、私は不安を抱かない。主の決して誤ることのない御腕に信頼しよう。たとえ今はわからなくても、結果によって一切が明瞭になるであろう。
二、主は主人である。私たちの知識ではなく、主の知識こそ役に立つものである。私たちは従うべきであり、批判すべきではない。「しもべは主人のすることを知らない。」建築家は、働き人のすべてにその設計を説明するであろうか。建築家がなすことを知っていれば、それで十分ではないだろうか。ろくろにかけられている土のかたまりは、どのような形の器に作られていくか推測できない。しかし、陶器師が知っているならば、よいのではないだろうか。私のような愚かな者が、主に対して詰問してはならない。
三、主はかしらである。一切の理解力はそこに集まる。腕がどのような判断をし、足がどのような理解をするか。それを知るすべての力は頭にある。頭があらゆる精神的役割を果たしている時、手足がそれぞれ脳をもったらどうなるか。信者は病の時にも、自分には先のことはわからないが、イエスがすべてをご存じであるから心を安んずべきである。優しい主よ。永遠に私のために、目となり、たましいとなり、頭となってください。あなたが啓示したいと思われることだけ知って、私たちが満足することができますように。
 
 

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。

2016年08月14日 17時07分25秒 | 聖書


彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って・・・」(マタイ6:5)

偽善者のようであってはいけないと言われた。
「偽善者」とは、「舞台役者、主演俳優」のことだ。偽善者=俳優だ。
俳優とは何をするのか。

俳優の役目は、脚本家が書いた脚本の通りに、その人物を演じることだ。
脚本にそって、監督が指示し、監督の思いを入れて演技指導し、俳優は、そこに描かれた人物を、監督に従って忠実に演技する。

いかに巧く演技するかで評価される。その人物にいかになりきるかが勝負だ。
それは全く素の自分ではない別人物だ。他人だ。

偽善者とは、演技し自分ではない人物になりきることだ。
それは「人に見られたくて」人の賞賛、評価を得るため。
人に認められたいがために。
どうしても人間は、目に見えない神ではなく、目に見える人の愛情を求めてしまう。

誰もがその弱さを持っている。人に受け入れられたいし、愛されたい。
人にほめられたい。人に受け入れられたくて、いつしか良い子を演じてしまう。

それは自分ではない人物だ。嫌われたくないので正直な気持ちは言えない。
気に入られる事しか言えない。これが偽善だ。
それが祈りになると、綺麗事の祈りとなる。演技の祈りであり、天に届いていない。
あるがままの本当の正直な気持ちを受け止めて下さる。
それを待っておられる。それを神に祈って行こう。
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あるがままを知っていて下さり、そのままを愛して下さる神様に、偽らない姿で向かおう。
幼子のような裸の自分で祈り求めよう。


今日の聖人の記念日

2016年08月14日 07時43分16秒 | キリスト教

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者

1894年-1941年

 コルベは、ポーランドの織物職人の家に生まれ、信仰深く育てられた。16歳のときにコンベンツァルのフランシスコ会に入り、1918年に司祭となった。ローマで、6人の同志とともに「無原罪の聖母の騎士会」という信心会を創立して、聖母マリアに対する信心を広めることに尽くした。その後、ポーランドに帰って月刊誌『無原罪の聖母の騎士』を発行。

 1930年ゼノ修道士ら5人とともに来日し、長崎で同信心会と印刷所を開いた。月刊誌『聖母の騎士』を発行するなど宣教活動に励み、多くの人びとに感化を与えた。『聖母の騎士』は現代でも多くの購読者を得ている。

 1937 年、コルベ神父はポーランドのニエポカラノフの修道院長に選任され、日本を去る。その後、第二次世界大戦の勃発により、ナチス・ドイツのゲシュタポに捕えられ、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。そこで、死刑を言い渡された妻子ある士官の身代わりを申し出て、餓死牢で注射を受けて亡くなった。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)というキリストの愛を実践した現代の殉教者である。

 日本におけるコンベンツァル聖フランシスコ会は、東京、瀬戸、春日井、西宮、長崎、湯布院、奄美にある。


◆神の求めたもういけにえ

2016年08月14日 07時41分53秒 | 聖書

正義と公義を行なうことは、
いけにえにまさって主に喜ばれる。(箴言二一3)
 
昔のエルサレムの神殿は、一日中、ささげられるいけにえの煙でもうもうとしていたのではないでしょうか。しかし旧新約聖書を通して、いけにえについて同じことがいわれているのです。
* サムエルは言いました。「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル一五22)。
* ミカは言いました。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ六8)。
* イエス・キリストは言われました。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ九13)。
神は、形式だけのいけにえや祭りや行事や祈りを憎まれます。神が喜ばれるのは、正義と公義を行うことです。そして、人間が行うべき、いいえ行いうる第一の公義・第一の正義とは何でしょう。
姦淫と殺人の罪を神の前ばかりか、人の前にも言い表して悔い改め、深い神の愛と恵みによって、人生をつくりかえられるような祝福を体験したダビデは、こう神の前にうたいました。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一16―17)。
悔い改め、その砕かれた心に、まことに正しく、きよいお方を受け入れる。――このことこそ、神がお喜びになる公義・正義の根本的なものではないでしょうか。そこから、神に喜ばれ神を喜ぶ、祝福された豊かな人生が出発するのです。
 
 

◆主よ。あなたは、

2016年08月14日 07時41分10秒 | 聖書
あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました……。(詩篇九二・四)
 
あなたは自分の罪が赦され、キリストが罪の完全な贖いを成し遂げられたことを信じるか。もしそうなら、喜びにあふれたクリスチャンとなるべきである。日常の試練や苦難から超然として生きるべきである。罪が赦されたからには、どのようなことが起こっても恐れる必要はない。ルターは言った。「主よ。私を打ってください。私の罪は赦されたからです。あなたが赦されたのですから、みこころのままに強く打ってください」と。あなたも同じ思いで、「私に病を、貧しさを、損失を、苦難を、迫害を、あなたの望まれるものを送ってください。あなたは私を赦されたので、私のたましいは喜びます」と言うことができる。
クリスチャンよ。あなたがこのように救われたのであれば、喜ぶとともに感謝し、親愛の情を抱け。あなたの罪を取り去った十字架にすがれ。あなたに仕えられた方に仕えよ。
あなたの熱心は、少しの歌を歌ったぐらいで消えてしまうようなものであってはならない。あなたの愛をはっきりしたしるしで表せ。あなたを愛された主の兄弟を愛せよ。どこかに足の不自由なメフィボシェテがいるなら、ヨナタンのために助けよ。もしあわれな試練に会う信者がいるなら、彼と共に泣き、彼の十字架を担え。――あなたのために泣き、あなたの罪を負われた方のゆえに。
あなたはキリストのゆえに無代価の赦しを受けた。だから出て行って、他の者に罪の赦しの喜ばしい知らせを伝えよ。このことばでは言い尽くせない祝福にひとりで満足しているのではなく、十字架の物語を広く宣べ伝えよ。神聖な喜びと神聖な勇気はあなたを良い説教者とし、この世のすべての場所が説教の講壇となるだろう。喜びにあふれた聖潔は、説教を最も力あるものとする。しかし主が自らそれをあなたに与えられる。この世に出かける前に、今朝それを求めよ。あなたが喜んでなしていることが主のための働きであるなら、喜びすぎていることを恐れる必要はない。
 
 

エステル記5章1-8節

2016年08月14日 07時39分47秒 | 聖書


5:6 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
5:7 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、
5:8 もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」



 覚悟を決めたエステルは、王妃の衣装を着て、王の庭に立ちました。

エステルを見た王は、彼女のことを愛していたので、すぐ金の笏を差し伸べて、彼女が謁見するのを赦しました。

彼女がその笏の先に触った時、王は彼女に、何が望みなのかと聞きました。

何か用があって来たことが、わかっていたからです。

そこでエステルは、自分が準備する宴会に、出来ましたらハマンと一緒にお越し下さいと願いました。

そして彼女は、その宴会を2度も設けたのです。

王と同席するそのハマンに、誇りを持たせるためでした。


ルカの福音書3章9節(イザヤ書3章)

2016年08月14日 07時36分56秒 | 聖書

★  斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

■O:今日のコラム
斧もすでに木の根元に置かれている…ここでヨハネは、最後のさばきが間近であるとを言っています。みなさんは、このヨハネのメッセージを聞いてどう受け止めるでしょうか?もし日々の生活のことで思いがいっぱいになっているなら、「さばきは近いよ」と言われても、あまり危機感を感じないかもしれません。朝起きてご飯を食べ、仕事(学校)に行き、帰ってそして寝る。
また主婦ならば、朝起きてご飯を用意し、子どもの世話をし、家事をし、家族の食事を作り、子どもを寝かし、あっという間に一日が終わる。このような日常の中で、どうやって危機感を覚えることが出来るでしょうか?また、多くの人は、私はイエス様を知っているから天国に行けるしこのままで大丈夫。私はさほど悪くないから、
神のさばきなんてない、とひそかに思っているかもしれません。それならばヨハネが、「それは必ず来る。だれもそのままでは、その怒りからまぬがれることはできない」と伝えているメッセージに一体どれだけの人が心裂いて悔い改め、主に立ち返るのでしょうか。

アテフ先生のセミナーの講義を多くの人が聞かれたと思います。その中で参加された何人かの人から、目が開かれた、今までの歩みを悔い改めた、奮い立った、などの証しを聞きました。
それは、知っていると思ったけど実は知らなかった福音の奥義、みことばの正しい理解と真理を悟ったからではないでしょうか。私自身も、目が開かれる講義でした。映画で例えるなら、ラスト15分、衝撃の真実。と表せるかもしれません。(もう15分も残っていないかもしれませんが…)

終わりの時代に、主がアテフ先生を日本に送って下さり、聖書のみことば、特に救いに関する概念を解き明かして下さったことを心から感謝します。ぜひ、この恵みと好意を無駄にせず、DVDを購入して、しっかりと学んでいきたいと思います。

とにかく、今日のタイトルにあるように、人がどうこうではなく、環境がどうこうでもなく、「自分が」奮い立つことを切に求めます。そのために、日々、腰に真理の帯をしっかりしめましょう。

私たちを真理に導き入れ、やがて起ころうとしていることを示してくださる、真理の御霊である聖霊様を、毎日の生活の中に、働きの中に、子育ての中に絶えず歓迎しようではありませんか。

「あなたの真理のうちに私を導き、私を変えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(詩篇25:5)


■A:考えてみよう
今日の聖書箇所に「斧もすでに木の根元に置かれています。」とありました。そうです、さばきの主は、戸口で立っておられます。

私達が知っておかなければならない事は、もう間近であろうゴール地点に立って待っておられるのは「さばきの主」であるということです。主は、あわれみの主、恵みの主であると同時にさばきの主です。すべての人がそこに立たなければなりません。

「さばき」と聞くとおそろしく思うかもしれませんが、主を慕い求める者たち、真理を悟り、奮い立って主の道を歩んだ者たちにとっては、それは祝福であり救いの完成です。

「おそれおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2:12)と言われた救いがついに完成される時なのです。

みことばを深く知り、真理を悟るために、日々の生活の中で聖霊様を歓迎し、そして、みことばの朗読を続けていきましょう。また、信仰の兄弟姉妹たちと互いに励まし合い、互いに建て上げ合うことを大切にしましょう。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
…ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」(第一テサロニケ5:9~11)


■P:祈り
私の内なる主の宮が建て直されるために、真理なる聖霊様、私の霊を奮い立たせて下さい。日々、心裂いて悔い改め、イエス様の血潮を宣言します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月13日(土)のつぶやき

2016年08月14日 01時33分23秒 | キリスト教