座間コミニティー

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◆イエスがお出かけになると……。

2016年08月03日 16時38分13秒 | 聖書
(ルカ八・四二)
 
主は、会堂管理者ヤイロの死んだ娘をよみがえらせるために、群衆の中を通ってその家に行こうとしておられた。しかし、よいことをするのにこの上なく熱心であられたので、途中でもう一つの奇蹟を行われた。
私たちの場合、何か一つの目的をもち、それに向かって直進して、それを成し遂げるならば、それで十分である。私たちの力を途中で分散させるのは、無謀である。私たちはⅥれる友の助けに向かう時、途中で同じような危険にある者のために力を傾けることはできない。木はただ一種類の実を結べば十分であり、人はその人自身の天職を果たせば十分である。
しかし私たちの主は、その力や使命の限界というものをご存じなかった。この上なく恵みに富んでおられるため、太陽がその軌道を運行しつつ光をも放つように、主の行かれる道はいつくしみで輝いている。主は愛の矢であられる。それは的に命中するばかりか、その飛んで行く空中によい香りを漂わせる。花が芳香を放つように、イエスからは常に徳がほとばしり出ている。そして水が泉から絶えずわき出るように、それは尽きることがない。
主がいつでも病める者をいやし、貧しい者に祝福を与えようとして待たれるのならば、私のたましいよ、ためらうことなく主の前に出よ。主はおまえにほほえまれるであろう。主が豊かに与えようとしておられるのに、求める側がいいかげんであってはならない。今、主のみことばに熱心な注意を払い、また常にそのようにせよ。イエスはみことばを通しておまえの心に語りかけられる。主がおられる所をおまえの行くべき場所とせよ。おまえは主の祝福を得ることができる。主がいやすために来ておられるのに、おまえをいやされないことがあろうか。たしかに、主は今も臨在される。いつでも主を求める心においでになるからである。おまえは主を必要としないのか。どれだけ主を必要としていることか、主は知っていてくださる。
ダビデの子よ。今あなたの御前にいる悩める者をご覧になり、あなたに訴える者をいやしてください。
 
 

「なぜなら、それが信仰から出ていないからです。

2016年08月03日 16時37分23秒 | 聖書

信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ書14:23)

信仰から出ていないとは「わたしはある」という方、神ご自身を信じないことであり、「わたしはある」という方を否むことだ。

信仰から出ていなことは罪だと言われる。
罪と聞けば、一つ一つの悪しき行為を連想するが、悪い行ないよりも、神を信じないこと、不信仰が最たる罪だ。

それは神ご自身を否定することになるからだ。
一つ一つの悪い行為は、不信仰から出た結果という事になる。
神を「信じないこと」が罪で、神を「信じること」が神の喜ばれることであり、義しいことだ。

行為にばかり目が行くと、道をそれる事になってしまう。神を信頼することなく、表面的に正しい行ないは可能だ。
自分の力で、どんどん進んで行ってしまう。

おおもとから離れ、迷い出てしまう。それこそがサタンの望むところであり、策略だ。
神を信頼する事から離し、自分へ、自分へと引き込ませる。

神を信じるのではなく、何とかしようと、自分で一生懸命になる。
自分の力、自分の方策、自分の知恵に拠り頼んで行く。それでサタンは成功だ。

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る」「イエスから目を離さないで」いよう。
神を「信じること」「信頼すること」に目を向けよう。視点はどこにあるか点検しよう。
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神様を認め、信じることが土台であり基礎だ。
自分の内を覗きこんで試行錯誤しても、そこには、何もないことを認め信仰によって歩もう。


今日の聖人の記念日

2016年08月03日 07時03分01秒 | キリスト教

聖ニコデモ

1世紀ごろ

 ニコデモは、イエスの時代に生き、ユダヤ人議会の議員、ファリサイ人の指導者であった。

 彼は、エルサレムでイエスを訪問し、神の国を見るとは何を意味するかを尋ね、イエスから「霊によって新しく生まれなければならないこと」を教えられた(ヨハネ3.1-10)。ニコデモは、すべてを捨ててまでイエスに従うことはしなかったが、イエスが逮捕されたときには、逮捕の不当を衆議会で訴えた唯一の人物であった。また彼は、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体埋葬を手伝った。


◆若い獅子のようだが

2016年08月03日 07時02分02秒 | 聖書

王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。
彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。(箴言二〇2)
 
切り捨てご免の東洋の王のことを述べているようです。けれども、箴言中の同じようなことばと比べてみると、これは、理想的な王である救世主メシヤのことを述べていると分かります(箴言一九12)。箴言の作者といわれるソロモンは「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」(一九23)、「王の憤りは死の使者」(一六14)、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者一二13)と言いました。王の王なる神に逆らって、人間に何の勝ち目もありません。しかし、この神を恐れ、神に従い、露のようにおりる神の愛と恵みに生きる時、いのちと満足と安全とがあるのです。
預言者ホセアは、「神の恵みは露のよう。ごらん、露のおかげで、ゆりの花は咲き、ポプラはすくすくと若枝を伸ばし、オリーブの木は美しくレバノンの森はかぐわしい」(ホセア一四5―6参照)と、美しいことばで表現しました。この神を恐ろしい死の宣告者、最後の審判官としてではなく、朝、草の上にしっとりおりる露のように恵んでくださり、こんな自分を愛してくださるお方として知っている多くの人々がいます。その人々は、病気をしたり試練に会いながらも、ユリのように花咲いているのです。目をつぶると、私の知っているそんな一人一人の姿が浮かんでくるようです。
パウロは、「神を味方にするなら、だれも私に敵対できない。そのひとり子イエス・キリストのいのちまで、惜しげもなく与えてくださった神は、すべてのよいものを与えてくださる。私は、私を愛してくださるお方によって、勝ち得て余りある者となった」(ローマ八31―32参照)と言いました。露のように恵みを与えてくださる神を、あなたも試してみていただきたいのです。
 
 

◆小羊が都のあかりだからである。

2016年08月03日 07時01分16秒 | 聖書
(黙示録二一・二三)
 
小羊が天のあかりであることを静かに考えよ。
聖書の中で、あかりは喜びの象徴である。天上にある聖徒たちの喜びはここにある。イエスは私たちを選び、愛し、贖い、きよめ、私たちに衣を着せ、私たちを守り、私たちに栄光を賜ったのである。私たちがこのような状態にあるのは、全く主イエスによる。救われた者たちにとって、これらの一つ一つを思うことはエシュコルの谷のぶどうのふさのように甘美だ。
あかりはまた美の源である。あかりがなくなると、美は失われる。サファイアのきらめく輝きもなく、真珠の穏やかな光もない。同様に、天上におけるすべての聖徒の美はイエスから来る。惑星のように、彼らは義の太陽の光を反射する。中央の宝玉から出る光によって生きる。もしイエスが隠れられるならば、彼らは死ななければならない。もしイエスの栄光がおおわれるならば、彼らの栄光も消滅しなければならない。
あかりはまた知識の象徴である。天国において私たちの知識は完成される。しかし、主ご自身がその源泉であられる。かつて不可解であった隠された摂理が明らかにわかるようになり、今私たちを惑わしているすべてのものが小羊のあかりに照らされて明白になる時が来る。ああ、そこにはなんという光景が展開され、どれほど愛なる神の栄光があがめられることであろう。
あかりはまた、明らかになることを意味する。あかりはものをはっきりさせる。この世にあって私たちがどうなってゆくか、まだ明らかではない。神の民は隠れた民である。しかし、キリストがその民を天に迎えられる時、愛の御手を彼らに触れて、ご自身の栄光の姿に変えてくださる。彼らは貧しく、みじめな者であったのに、これはまたなんたる変化であろうか。彼らは罪に汚れていた。しかし主の指に触れられて、彼らは太陽のように輝き、水晶のように透き通る。これらのことはみな、高められた小羊から来るのである。輝きのすべての中心、根源は主イエスである。
おお、王の王、主の主であられる方の御前に出て、その御光により御顔を仰ぐ時よ!
 
 

エステル記2章5-7節

2016年08月03日 07時00分02秒 | 聖書


2:7 モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。



 王がいたシュシャンの城に、一人のユダヤ人がいました。

その人の名前は、モルデカイと言いました。

この人は、かつてバビロンの王ネブカデネザルによって、捕囚としてこの地に連れて来られてきた人の子孫で、3代目の人でした。

彼はこの王宮で、王に仕える働きをしていたのです。

 そのモルデカイの元に、一人の若い女性がいました。

エステルと言いましたが、彼女は両親をすでに失っていました。

そこで、モルデカイは彼女の面倒を見るために、自分の娘として彼女を引き取り、一緒に暮らしていたのです。

その女性は、容姿が優れて、顔立ちもよく、大変美しい人でした。

モルデカイにとっても自慢の娘であり、また喜びの子であったと思われます。



ヨシュア記5章14節~6章5節

2016年08月03日 06時57分11秒 | 聖書


★すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこでヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。
「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」

■O:今日のコラム
しゃろーむ!8月2日の朝です。今日一日も、主のもとに伏し拝み、主の御言葉を受け取っていきましょう。僕らは、主が勝利を取られる勝ち戦に、主と共に戦うからです。僕らがやるべきことを知っていきましよう。

僕らの主は、天のお父さん、御子イエス様、聖霊様です。自分自身ではありません。主の御言葉を受け取るときに、自分のはきものを履いていてはいけません。自分のはきものを脱ぎましょう。権威を明け渡しましょう。僕らが、履くべきはきものは、福音の備えです。

福音の備えは、御子イエス様の十字架と復活の勝利です。主がすでに、僕らの道を整えてくださいました。僕らが、古い性質に日々死に、イエス様の新しい命に生きる者としてくださいました。僕らが立つ場所は聖なる所です。聖なる場所で、戦いの準備をすることができるのです。

そして、主は、現状ではなく、勝利を宣言されました。すでに、戦う前に勝利が確定しているのです。その戦い方は、僕ら人間には思いつけない方法です。
六日、町のまわりを一周します。
七日目には、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らします。
そして、祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その角笛の音を聞いたなら、民はみなで、大声でときの声をあげるのです。
そしたら、町の城壁がくずれ落ちるのです。
そうしたなら、民はおのおのまっすぐ上って行けるのです。

僕らには思いつけない方法です。色々と学ぶべきことが多い箇所ですので、皆様、啓示を求めて受け取っていきましょう。

大切なことは僕らが、その御言葉に聞き従うならば、僕らは、勝利を味わうことができます。圧倒的な勝利者となるのです。

主の軍の将と戦うことは、主に完全な信頼をおき、自分の権威を明け渡すことです。時にかなった叫びをあげていくことです。城壁がくずれ落ちたなら、まっすぐに上って行くことです。ボーッとしていてはできません。意識して、見ていかなければ進むことはできません。だから、日々、主の御言葉を受け取っていきましょう。日々、主に目を向けていきましょう。主の圧倒的な勝利を賛美していきましょう。


■A:考えてみよう
主の御言葉を受け取るためにあなたがするべきことは何ですか?
主に目を向けるために必要なことは何ですか?
今、そのことができるように、時間をもっていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月2日(火)のつぶやき

2016年08月03日 01時38分10秒 | キリスト教