座間コミニティー

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◆彼のナジル人としての聖別の期間には、

2016年08月29日 17時26分01秒 | 聖書
ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。(民数六・四)
 
ナジル人には数々の誓いがあるが、その一つに、ぶどう酒を飲まないことがある。この義務に違反しないために、彼らはぶどう酒の酢になったもの、濃い酒を飲むことを禁じられていた。そしてこの規則をさらに明確にするために、未発酵のぶどう液にも触れてはならず、なまのものでも干したものでも、ぶどうを食べることさえならなかった。その誓いを完全に守るために、ぶどうにかかわるすべてのものを食べることが禁じられた。それは外見的な悪をも避けるためであった。
たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。
 
 

「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。

2016年08月29日 17時25分11秒 | 聖書

エルサレム中の人も王と同様であった」(マタイ2:3) 

星に導かれた東方の博士たちが、エルサレムに到着した。
そしてユダヤ人の王はどこで生まれたかと聞いた時に、ヘロデ王は恐れ惑った。

新しい王が誕生するなら、ヘロデは自らの地位が危うくなる事であり、恐れ惑うのはわかる。
が、「エルサレム中の人も王と同様であった」。なぜエルサレム中の人々も恐れ惑うのか。

彼らは別にヘロデなど、どうという事なく、真の王として認めているわけではない。
逆らえば、身に危険が及ぶから、うわべだけ言うことを聞いている。
脅威でも何でも無かった。

ところが、新しい王の誕生は脅威であった。恐れと不安を抱いた。
神から遣わされた王なら、ヘロデごときでない真の王であり、自分たちは真実に従わなくてはならない。
脅威と不安を覚えた。

私たちは、エデンの園でアダムが罪を選んで以来、古い罪の性質が宿っている。
それは本質的に自分が王であり、主人でありたい。
自分の上に「主」を置くのが嫌なのだ。従いたくない。

ヘロデになら真に従っているわけではない。形だけであり、心では自分が王であ
り主人だ。王でおれる。しかし真の王は違う。

私たちはどうだろう。命を捨てられた主を前に、自分が王であり続けるか、御前にひれ伏して、主に王座に来て頂くかだ。
明け渡す時喜びが満ちて、大海のような平安を経験して行く。

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真に主に向き合っているだろうか。
ヘロデに対するのと同様に、形だけであり、ごまかしたり、あいまいにして、避けて逃げているだろうか。
あいまにして、見たくない自分の内側を、光で照らすために来て下さった。
光に向いて行こう。


今日の聖人の記念日

2016年08月29日 10時20分19秒 | キリスト教

 洗礼者ヨハネの殉教

 

 祭司ザカリヤとエリザベトの間に生まれたヨハネは、ユダの荒れ野で預言者として活躍し、人びとに神の国の到来と悔い改めを説いた。ヨルダン川で、人びととともにイエスにも洗礼を授けた。

 当時、ヘロデ・アンティパスがこの地方を治めていたが、彼は弟の妻ヘロディアを自分の妻とするなど、非難されるべき生活をし、ヨハネから戒められていた。あるとき、ヘロデの誕生日の宴席で、踊りを披露したヘロディアの娘サロメに、ヘロデはほうびとして望むものは何でも与えることを約束した。ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘にヨハネの首を望ませた。ヘロデは、人びとが信頼しているヨハネを殺すことに心を痛めたが、公の場で誓った約束であったため、ヨハネの首を斬らせた。

 ヨハネは、キリストに先立つ預言者としての使命を、生涯果たしたのであった。


◆借金人生のいましめ

2016年08月29日 10時18分43秒 | 聖書

富む者は貧しい者を支配する。
借りる者は貸す者のしもべとなる。  (箴言二二7)
 
人生の成功者とは、このような人だと定義した人がありました。
・ 金を支配できる人。金に使われず、金を支配できる。
・ 人を支配できる人。人の奴隷とならず、人を指導できる。
・ 自分を支配できる人。自分のきたない、みにくい欲望にふりまわされないで、自分をコントロールできる。
確かに、うなずける一つ一つだと思います。
借金の経験のある人は多いと思います。借金を返す当てのない人が借金すると、借金の奴隷となり、破たんを招く例も、非常に多いと思います。高利貸しから百万円を借りて競馬でもうけようとしたが大損し、ついに、親や兄弟の身代まですってしまった人のことを聞きました。
自分のできること以上に借りてやっていこうとするのは、しょせん無理ではないでしょうか。自分自身の心の中に、エネルギーというか、わきあがる力を持たない者が、他人のものをたよりにして生きる人生は、借金で身を破滅に追いこむ生き方に似ています。
イエス・キリストは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四13―14)と言われました。ヤコブも、こう語りました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコブ一5)。
神から与えられたいのちの水を飲んで、それに従って生きる時、ほんとうの人生の成功者となるのではないでしょうか。
 
 

◆神よ。御恵みによって、

2016年08月29日 10時17分44秒 | 聖書
私に情けをかけ……。(詩篇五一・一)
 
ケアリ博士が重病の床にあった時、「もしこの病が致命的なものならば、あなたの葬式の時の説教にはどの箇所を読みましょう」という質問がなされた。博士は、「私のような罪深い者は、話してもらう値打ちもありませんが、どうしても葬式の説教をしなければならないのでしたら、『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください』の所をお願いします」と答えた。さらに博士は、これと同じ謙遜な心をもって、自分の墓石に次のように書くように遺言し、これ以外のことは記してはならないと言った。
 ウィリアム・ケアリ
 一七六一年八月十七日 生
 ………………………… 没
「みじめにして貧しく、力のない虫のような私
は、あなたの優しい御手によって眠る。」
最も経験の深い、最も尊敬に値する聖徒は、ただ無代価の恵みという足場によってのみ神に近づく。人間の中で最高の部類に属する人たちは、自分たちが単なる人間にすぎないことを知っている。積荷のない船は、水上に高く浮き上がるが、多くの荷を積んだ船は、水中に船体を沈めている。口先のみの信者は大言壮語するが、真の神の子は自分がふつつかなしもべであることを認め、神の恵みを求めて叫ぶ。
私たち自身の良き働き、祈り、説教、施し、そして最も神聖な物事の上にも主のあわれみを求めなければならない。血はイスラエル人の家の入口の柱だけではなく、聖所にも、恵みの御座にも、祭壇にも注がれていた。罪は私たちの最も神聖視するものの中にも侵入するからである。そこにも汚れをきよめるためにイエスの血潮を必要とするのである。もし私たちの義務にも恵みを求めなければならないとしたら、まして罪に対してはどれほどであろう。
尽きることのないあわれみが、私たちを祝福し、信仰の後退を回復させ、私たちの砕かれた骨を喜ばせようとして待機しているとは、なんと快いことだろう。
 
 

エステル記9章29-32節

2016年08月29日 10時14分36秒 | 聖書


9:30 この手紙は、平和と誠実のことばをもって、アハシュエロスの王国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に送られ、
9:31 ユダヤ人モルデカイと王妃エステルがユダヤ人に命じたとおり、また、ユダヤ人が自分たちとその子孫のために断食と哀悼に関して定めたとおり、このプリムの両日を定まった時期に守るようにした。



 このプリムの祭りは、今も当時のことを記憶して守られています。

神の守りと導きとその御手を覚えて、感謝して祝っているのです。

ここでは「子孫のために」と語られています。

子孫の人々がこの祭りを守ることによって、この日のことを覚えて、主に感謝を捧げるためでした。

 ここにはまた、「断食と哀悼に関しての定め」と語られています。

断食と哀悼は悲しみの時ですので、祝いの日の前日の13日にもたれました。そして14日と15日は喜びの日として、皆、会堂に集まりました。

そこで、このエステル記が読まれました。

主の恵みのみ業を覚え、記念して守られることによって、皆が主を賛美し、主の御名を褒め称えたのです。



ルカ17:20~21

2016年08月29日 10時11分23秒 | 聖書


★さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

■O:今日のコラム
パリサイ人がイエス様に神の国はいつ来るのか?と質問しました。イエス様は「神の国は、あなたのただ中にあるのです。」と答えられました。新約聖書の中で、私たちが神の神殿、神の御霊、聖霊が宿られることを語っています。例を挙げると、

1コリント3:16
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
1コリント6:19
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
2コリント6:16
「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
エペソ2:22
「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

とたくさんの聖書箇所に記されています。つまり神様が私たちの中に住まわれる、宿られるので、私たちが行く所、私たちクリスチャンがいる場所に神様の臨在、神様の国を現すことができるのです。益々私たちを通して神の臨在が、神の国が現されていくことを求めて行きましょう。
「イエス様の血潮の宣言をする祈り」の中でも、「我が新しい人のたましいの都市エルサレムは、偉大な王の都となります。」、「これからここは御霊によって神の住まいとなり、三位一体なる主のための住まいとなり、聖なる方の住まいとなります。そして、私の心はいと高き方の王座なります。」という宣言があります。私たちの内の古き人が益々打ち壊され、神様の似姿が私たちの内に建てあげられて行きますように。その事により、私たちを通して周りの人々がイエス・キリストと出会い、その人生が変えられて行きますように。


■A:考えてみよう
日々悔い改め、血潮の宣言を続けて行こう!
「我が新しい人のたましいの都市エルサレムは、偉大な王の都となります。」

「これからここは御霊によって神の住まいとなり、三位一体なる主のための住まいとなり、聖なる方の住まいとなります。そして、私の心はいと高き方の王座なります。」


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月28日(日)のつぶやき

2016年08月29日 01時33分21秒 | キリスト教