たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。