回心した人格が何年かかっても消せない炎を燃やしつけるという、ひどい場合もある。他人の食糧を燃やすことはたしかに悪い。しかしたましいを滅ぼすことは、それに比べてさらに極悪である。私たちが過去の邪悪な罪を回想し、現在においても、私たちのうちに身内、友人、隣人のたましいに損害を与える邪悪さがないかを反省することは有益である。
争いの火は、それがキリスト教会の中に起こる時、恐るべき悪をなす。回心者が増加し、神の栄光がたたえられる時、ねたみが最も効果的な悪魔のわざをする。大農夫の労作の結果として黄金の穀物が蓄えられる時、敵意の火が入り、煙と焦土のほかはほとんど何も残さない。そのような罪をもたらす者にわざわいあれ。どうか、それが私たち自身でないように。なぜなら、私たちは償うことはできないが、もし私たちが主な加害者であれば、私たちはたしかに主な苦難者となるからである。火に燃料を投げ込む者は非難に値する。しかし、最初に火を放つ者が最も責められるべきである。不和は、通常いばらに火をつける。そして教会の偽善者や世俗的な信仰告白者たちの間であおられ、地獄の風に吹きまくられて正しい信者に燃えつき、それはとどまるところを知らない。
平和を与えられる主よ。私たちを、平和をつくる者としてください。争う者を助けたり扇動したり、たとえ無意識にでも、あなたの民の中にごく些細な分裂でも生じさせたりすることのないようにしてください。