座間コミニティー

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◆御霊の初穂をいただいている私たち自身も……。

2016年08月16日 16時00分56秒 | 聖書
(ローマ八・二三)
 
ここには、今いただいているものが宣言されている。現在私たちは、聖霊の初穂をもつ。私たちは、悔い改めという最も上質の宝石、信仰という無限の価値をもつ真珠、希望という重厚なエメラルド、愛という輝かしいルビーをもつ。私たちは聖霊なる神の有効な働きによって、すでに、「キリストのうちにあって、新しく造られた者」とされている。
これは最初にあることであるため、「初穂」と呼ばれる。揺れる一束が収穫の初めであるように、霊的生活とそれを飾るすべての恵みは、私たちのたましいの中における神の御霊の最初の働きである。
初穂は収穫の保証であった。イスラエル人は、熟した最初の一握りを刈り取るやいなや、喜びに胸を躍らせて、荷車もきしむような大収穫を待ち望んだ。そのように兄弟たちよ。神が聖霊の働きとして、清いこと、愛すべきこと、評判のよいことを与えられる時、それは私たちにとって来るべき栄光のきざしである。
初穂は常に主にとって聖いものであった。私たちの新しい性質、新しいすべての力は聖別されたものである。新しいいのちは、そのすぐれたことを私たちの功績に帰すために、私たちのものとされたのではない。キリストの御姿であり、キリストによって新しく造られたもの、その栄光のために定められたものである。
しかし、初穂は収穫ではなかった。そして、私たちのうちにおける現在の御霊の働きは、完成されたものではない。これからなのである。自分がこれまでに達成したものを誇り、初穂をその年の収穫のすべてであると考えてはならない。私たちは義に飢え渇き、全き贖いの日をあえぎ求めなければならない。
愛する友よ。今夜あなたの口を大きくあけよ。神は、それを満たしてくださる。現在あなたがもっている賜物によって、あなたのうちにさらに恵みを求める聖く熱心な願いを起こせ。より高い献身をうめき求めよ。主はあなたの求めを聞かれるであろう。なぜなら主は、あなたが求めること、いや考えることにさえ、はるかにまさることをなすことができる方だからである。
 
 

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。

2016年08月16日 15時59分53秒 | 聖書


それ以上のことは悪いことです」(マタイ5:37)

「ノー」が言えるだろうか。食事や遊びの誘い、残業の依頼、様々な頼まれ事・・・、したくないのに、無理なのに、「ノー」が言えなくて、嫌々引き受けてしまう。

段々、辛くなり重荷になって来る。断れば良かったと後悔する。
又、そうできない自分に自己嫌悪となる。
はたまた、クリスチャンは喜んでできない自分を責める。

そうなると相手を恨みに思って来る。怒りも湧いて来る。
そしてそう思う自分を又、責める。
「ノー」が言えないのは、相手が嫌な思いをするのではないか、それを自分が受け入れられないからだ。

又、相手に嫌われたくない。又、義務感もある。
クリスチャンは相手に仕えなければならないのではと。
断れば、愛がないのではと。

しかし、それは嫌々、又、嫌々でないにしても、義務からする事になる。
愛から出ておらず、そこに愛はない。

「割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」「偽りのない信仰から出て来る愛を目標としています」「愛がないなら、何の値うちもありません」
まず自分に愛のない事を認める時、神が愛を与えて下さる。

身体的、時間的、労力的には限界があり、無理な事、できない事には、はっきりと「ノー」を言う事が御心であり、そうするなら、真に御心の事柄を充分に行ってゆける。
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「ノー」が言えなくてやっているのに犠牲を払った行為とすりかえる事がよくある。
やりたくないです、とまず素直に祈ってみよう。
「はい」と「いいえ」を混じり気のない思いで言いたい。


今日の聖人の記念日

2016年08月16日 08時15分39秒 | キリスト教

聖ロクス

1350年ごろ-1378年ごろ

 ロクスは、生涯についてははっきりしていないが、言い伝えによると次のとおりである。

 ロクスは、フランスのモンペリエの総督の息子として生まれ、20歳のころ両親を亡くし、その財産をすべて貧しい人びとに与え、ローマに巡礼に出た。このころ、イタリアでは国中にペストが流行し、多くの人びとが治る術もなく苦しんでいた。ロクスは患者の看護に尽くした。彼が、患者の上に十字架の印をすると、多くの人びとが治ったといわれる。しかし、彼自身もペストにかかってしまった。ピアチェンツァの近くの森で死を迎えようとしたところ、犬が食物を持ってきたり、傷をなめたりしてくれたので、病気が治ったと伝えられる。その後故郷に戻ったが、当時フランスは戦争で分裂していたために誰もロクスとは分からず、スパイとして捕えられ獄死したという。

 中世においてロクスは、伝染病よけ聖ステファノ(ハンガリー)

970/975年~1038年

 ステファノは、20代の若さで父の後を継ぎ、その後42年間、王としてハンガリーを治めた。彼は、政治家としても、統率者としても、武将としても申し分のない君主だった。国の基礎を固めると同時に、キリスト者としても信仰が篤く、国内の教会の組織化に力を尽くして教区の設立し、聖堂の建設を進め、教会の発展に貢献した。
 クリュニー修道院の修道士たちの協力を得て建てたこれらの聖堂は、今も国民から親しまれ大切にされている。

の保護の聖人として、最も有名な聖人であった。彼の絵は犬といっしょに描かれている。

 


◆人を人とも思わない悪

2016年08月16日 08時14分39秒 | 聖書

悪者のたましいは悪事にあこがれ、
 隣人をあわれもうとはしない。    (箴言二一10)
 
「悪者のたましいは悪事にあこがれ」というと、A銀行を襲ったギャングが、次にB銀行も襲って、早くももう一山当てようとしている姿を想像してしまいます。しかし、神を恐れず、神を神とも思わず、神のきよさと神の力、そして何よりも神の真実な愛を受けつけず、自分の仕事・成功・名声・出世ばかりを考えて生きる人の姿こそ、「悪者のたましいは悪事にあこがれ」といわれているのではないでしょうか。
イエス・キリストが話されたたとえ話に、「よいサマリヤ人のたとえ」があります。これは、当時「血の街道」といわれたエルサレム=エリコ街道で実際に起こった事件をもとにして話されたようです。
一人の旅人が途中で強盗どもに襲われて、身ぐるみはがれたばかりか、半殺しにされました。次の朝でしょうか。エルサレムの神殿に仕える宗教家の祭司とレビ人が通りかかりましたが、知らん顔で横を通りすぎました。しばらくすると反対側から、商売の品を家畜にいっぱい積んだサマリヤ人が来ました。サマリヤ人は、ユダヤ人からばかにされ、のけ者にされていたのです。旅人を見ると、かけよって、かがみこんで、惜しげもなく商売物のぶどう酒・オリーブ油・布などを使って介抱しました。自分の家畜にその人を乗せて宿屋に行き、元気になるまで、全部の費用を払って助けたのでした(ルカ一〇30―35参照)。
宗教家の祭司もレビ人も、お布施を持って神殿に来る人にはにこにこ顔でサービスしていたでしょう。しかし彼らは、自分の利得と体面だけを気にしていました。人のことなどは、ほんとうはどうでもよかったのです。
私たちは、人を人として扱い、あたたかい心で生きていくために、神を知り、神の愛を知り、神を神とすることから出発しなければなりません。
 
 

◆御名の栄光を、

2016年08月16日 08時13分59秒 | 聖書
主に帰せよ。(詩篇二九・二)
 
神の栄光は、神の性質と行為の結果である。神の品性は栄光に満ちている。およそ聖なるもの、善なるもの、愛すべきものはすべて神の中に蓄えられているからである。神の品性から流れ出る行為もまた栄光に満ちている。神はその行為により、被造物に主の善なること、あわれみ深いこと、義なることを現そうとされる。しかし同時に、それらの行為による栄光がすべてご自身に帰せられるべきであるという点にも関心をもたれる。私たちの中には、誇るべきものは何もない。――私たちを他と異なるように造られたのはだれであるか。また私たちが、恵みに満ちた神によって与えられない何ものをもっているというのか。だから私たちは、主の御前に謙遜に歩むように心すべきである。
この宇宙には、ただ一つの栄光しか入る余地がない。そのため、私たちが自分に栄光を帰すならば、その瞬間に、私たち自身をいと高き方の競争者の地位に置くのである。わずか一時間しか生きられない昆虫が、自分をあたためて生命を得させた太陽に対して誇ることがあろうか。陶器が、自分をろくろにかけて造った陶器師以上に自らを高めることがあろうか。砂漠の砂がつむじ風と争うことがあろうか。あるいは大海の一滴があらしと戦うことがあろうか。栄光を主に帰せよ。
しかしおそらく、クリスチャン生活において最も困難なのは、次のみことばを学ぶことであろう。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく……栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」これは、神が常に私たちに教えようとされる教訓であり、時には苦しい懲らしめによって教えられる学課である。もしクリスチャンが、「私を強くしてくださる方によって」という点を取り除いて、ただ単に「どんなことでもできるのです」と言うならば、まもなく彼は「私は何もすることができない」という悲鳴を上げ、ちりに伏して嘆くであろう。私たちが主のために何かをし、主が私たちのしたことを受け入れてくださったなら、私たちは自分の栄冠を主の足もとに置いて、「私ではなく、私にある神の恵みです」と叫ぼうではないか。
 
 

エステル記6章1-9節

2016年08月16日 08時12分51秒 | 聖書


6:1 その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。
6:2 その中に、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。



 夜眠れないということには、いろいろな理由があります。

王様も人ですから、眠れない時があったようです。

彼はしもべに、国の年代記を持ってくるように命じ、それを読ませました。

多分、自分の政治のことで気になっていることがあって、眠れなかったのでしょう。

 ところが、記録を聞いていた時、王は自分が殺されそうになった時に、モルデカイがその暗殺計画を王に知らせ、王は殺害を免れたと書かれていた記録を見つけました。

そこで王は、その時のことを思い出して、自分の命を救ってくれた者に対して報酬を与えたのかと問いました。

王が眠れないというその時を用いて、神様は主の民へのご自分の計画を、進めていかれたのです。



ルカの福音書4章1~2節(イザヤ書4章)

2016年08月16日 08時10分49秒 | 聖書


★『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。』

■O:今日のコラム
私たちはイエス様の足跡に習う者として召されています。なので、私たちは、皆が御霊に満たされる者として召されています。そして、試みに会う事にも、断食をする事にも。それでも主が、無用な試みから守ってくださいますように。
  断食は、特別な人がやればいいというものではない事が分かります。むしろ特別な人はしないで下さい。お年寄りや成長期の子どもは、特に注意が必要ですし、長期の断食は、信頼できる人からのアドバイスや、覆いとなってくれている人の祈りが必要です。
  しかし、断食は私たちに必要なのです。イエス様は、てんかんの子どもを弟子たちが癒せなかった時に、「何と曲がった今の世だ」と嘆かれました。これは、弟子たちが真っ直ぐな者に回復していない事を意味します。私たちは直ぐな者にならなければなりません。主は「私が直ぐであるように、あなた方も直ぐな者となりなさい」と語っておられます。私たちを真っ直ぐにできるのは、主ご自身です。血潮の宣言をもって私たちの内なる人がイエス様に似た者に回復していきますように。主が直ぐな者であるように、私たちも直ぐな者となるのです。
  弟子たちは、なぜ自分たちにはてんかんの霊を追い出せなかったのかをイエス様に質問しました。そのときにイエス様は、「この種のものは、断食と祈りによらなければ出て行かない」とお答えになったのです。つまり、断食によらなければ回復できない領域というものが存在します。
  肉体的な飢え渇きは、霊的な飢え渇きを引き起こします。食べ物をコントロールするだけでなく(飢え)、飲み物をコントロールする事も断食の重要な要素です。(渇き)
  だから、アテフ師がやっていた断食は興味深いです。朝は水も飲まず、昼は、糖分のある飲み物(脳の活性化のためにも糖分が良いです)、夜に貧しい人が食べる量の食事を取ります。そして、この断食は、定期的に、例えば週一回断食するときなどに良いと思います。ぜひ定期的な断食の習慣を身につけましょう。これが飢え渇きをもって主を求める心に新しい恵み、ブレイクスルーを与えます。そして、血潮の宣言を祈るのです。必ず、イエス様と一つになる事を味わっていける事を信じます。


■A:考えてみよう
定期的に断食して、血潮の宣言を祈る生活を持つ。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月15日(月)のつぶやき

2016年08月16日 01時33分40秒 | キリスト教