座間コミニティー

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摩天楼

2016年08月12日 17時55分02秒 | 小説・詩

疲れた体を

背負いながら

ホテルにチェクイン

部屋に倒れこむと

前方に

港が見えて

癒しの漆黒の闇にの中で

1杯時間を飲みほす。

https://youtu.be/UG5mqp0Q0wk


◆虹が雲の中に現われる。

2016年08月12日 16時29分17秒 | 聖書
(創世九・一四)
 
虹はノアとの契約のしるしであり、また人々に対する主の証人であるイエスの型である。いつ私たちは、契約のしるしを見ることができるだろうか。
虹は雲の上に彩られた時にのみ見ることができる。罪人の良心が雲におおわれ、過去の罪を思い出して神の前に嘆き悲しむ時、イエス・キリストは約束の虹として現れてくださる。そして神のご人格の輝かしい色を表し、やがて来る平和を示される。信者が、試練と誘惑に囲まれる時、主イエス・キリスト――私たちのために血を流し、私たちのために生き、よみがえり、嘆願されるイエス・キリスト――を見ることはすばらしい。神の虹は、私たちの罪、悲しみ、わざわいの雲の上にかかり、救いを預言している。
また、雲だけでは虹は現れない。太陽の光を反射する水滴がなければならない。悲しみは私たちを脅かすだけでなく、実際に私たちの上にふりかからなければならない。もし神の怒りが、単に私たちを脅かす雲にすぎないとすれば、キリストは与えられなかったであろう。罪の罰は恐ろしいしずくとなって、私たちの保証人の上に下らなければならない。罪人の良心に現実に苦しみがあるまでは、キリストはみわざをなされない。神の懲らしめが身にしみるまでは、イエスを見ることはできない。
しかしそこにはまた、太陽がなければならない。雲と水滴があっても、太陽が輝かなければ虹はできない。愛する友よ。私たちの太陽である神は、常に輝いておられる。私たちは、いつも神を見るわけではない。なぜなら、雲が神の御顔を隠しているからである。しかし、いかに雨が降り、雲が脅かそうと、もし神が輝いてくださるならば、ただちに虹が現れる。
虹が現れるなら夕立は終わるという。キリストがおいでになる時、私たちの患難が除かれることは確かである。私たちがイエスを見上げる時、私たちの罪は消え、疑いと恐れは去る。イエスが海上を歩かれる時、なんと静かななぎが来ることであろう。
 
 

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。

2016年08月12日 16時28分23秒 | 聖書

産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」(イザヤ 54:1)

ある人が、当初牧会していた教会で、人々が定着し始めたかと思うと、去って行く。
そんな事が度重なった。自分のいたらなさが原因ではと、自分を責めた。

そんな中、信頼していた人物が去り、精神的に大きな打撃を受けた。落ち込みの日々であった。
丁度同時に、信用して多額の用立てをした人物に裏切られた。

お金は持ち去られ、精神的にも経済的にもボロボロで、もう四方八方から追い詰められ、まさに窮地であった。
なすすべなく、意気消沈し、立ち上がる力も無かった。
何もどうする事もできず、何をどうしてよいかもわからなかった。
ぼうっ~と日を過ごしていた中、それでも、パラパラと御言葉を見ていた。

そんな時、心に語りかけて来る主の御声を聞いた。
「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。喜びの歌声をあげて叫べ」
紛れもなく神からの語りかけだった。

「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし・・・あなたは右と左にふえ拡がり」
神からの語りかけの声を聞く時、霊が新たにされる。新しい力が注がれる。
沈んだ心に、無気力な心に、神を見上げる力が与えられる。

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」
神の語りかける言葉には霊がありいのちがある。
私たちがどんな状態であれ、立ち上がらせることができる。
神の御声に耳を傾けよう。神の言葉によって新たにされ、力が湧く。
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燃え尽きて、又、八方塞がりになって、気力も失せた中で、御言葉を見ていて、命となって語りかける御声に、再び立ち上がらせられた経験を耳にする。
主に絶望は無い。なすすべ無い中で、主は平安と将来と希望を与えるご計画をお持ちだ。



今日の聖人の記念日

2016年08月12日 09時24分20秒 | キリスト教

聖タルチジオ助祭殉教者

3世紀

 タルチジオは、ローマ皇帝ヴァレリアヌスの迫害時に、ローマ貴族の家に生まれた。彼は、キリスト教の信徒が、迫害にあっても信仰を守り抜く姿に心を打たれ、洗礼を受けた。そして、助祭となって司祭を手伝い、教会に奉仕し、捕えられている信者たちのもとに聖体(ミサによってキリストの体に変えられたパン)をたびたび運んだ。そのため、彼も捕えられて殺された。彼は、聖体の殉教者と呼ばれる。

聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタル修道女

1572年-1641年

 ヨハンナは、フランス、ディジョンの貴族の家に生まれた。
 1593年にシャンタル男爵と結婚し、4人の子どもに恵まれ、幸福で信仰深い家庭生活を送っていた。28歳で夫に先立たれ、その後は祈りと病人や貧しい人びとへの奉仕に専念した。

 1604年のフランシスコ・サレジオとの出会いを機に、彼の霊的指導のもとで修道生活への望みを抱くようになった。

 フランシスコは、若い女性や未亡人が入会することができる修道会を創立したいと思っていたので、ヨハンナと他の同志を誘って修道生活を始めさせ、「聖母訪問修女会」を創立した。
 ヨハンナは同会の総長に選ばれ、観想生活と慈善活動を統合するよう会員を導き、83の支部修道院を設立した。


◆神のサーチライト

2016年08月12日 09時23分15秒 | 聖書

人間の息は主のともしび、
腹の底まで探り出す。       (箴言二〇27)
 
人間の良心は、神が人間の中に備えつけられたサーチライトです。神が人間を造られた時、「いのちの息」(創世二7)を吹き入れられました。ほかのすべての動物と違って、人間には良心があり、善と悪を判別します。神を離れて罪の道を長く歩いてきた人間の良心は、曇ったりなまったりしているので、エレミヤは、「人の心はすべてのものより偽るもので、はなはだ悪い」(エレミヤ一七9参照)とさえ言いました。確かにそうです。しかし、すべての人の心の中に、この神の声・神のともしび・神のサーチライトがあることも事実でしょう。
姦淫の現場を押さえられた女を、パリサイ人たちはイエス・キリストのところへ連れてきました。「律法によると石で打ち殺せとあるが、先生、あなたならどうします」と言って、人のみじめで不幸な姿を、イエスを試す材料にしようとしました。イエスはしばらくだまっておられましたが、やがて言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げなさい。」すると、どうでしょう。人々は、一人去り二人去り、みなこそこそと姿を消してしまいました。パリサイ人たちにも良心があったのです(ヨハネ八3―11)。
良心に責められる時、弱りはててはなりません。がっかりしてぺしゃんこになってはなりません。自分でこそこそと「もうしません」などと決心してみたり、償いだといって自分をいじめたり痛めつけたりしてもいけません。神の前に正直に告白し、キリストの血潮の中に、神の愛の中に、洗いざらい全部を投げ出しなさい。光の中に投げ出したものは、みな光となるとさえ聖書は言うのです。イエス・キリストの愛と十字架の血潮は、すべての人の良心のけがれを完全に洗いきよめます。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一7)。
 
 

◆主は、王だ。

2016年08月12日 09時22分33秒 | 聖書
地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇九七・一)
 
この幸いな聖句が真実である限り、不安の原因は何もないはずである。
地上にあっては、主の力は大波を支配するように、悪人の怒りをも支配している。主の愛は、雨が地を潤すように、あわれみをもって貧しい者を力づける。神の主権は恐ろしいあらしの中の閃光のように輝き、主の栄光は国々の滅亡と王座の転覆のうちにその荘厳さを現す。私たちはすべての戦いと苦悩のうちに、王である神の御手を見る。
 神は神である
 私たちのすべての苦悩と涙を見られ
 また聞いてくださる
 たましいよ。苦痛の中にいても忘れるな
 神がすべてを永遠に治められることを
地獄において悪霊どもは、疑うことのできない神の支配下に苦しんでいる。彼らは外へ出て歩き回ることを許されたとしても、その足には鎖がついている。河馬の口にはくつわがかけられ、レビヤタンのあごには鉤がつけられている。死の夜は主の鎖につながれ、神の力が墓場の牢獄の番をしている。全地の審判者の恐ろしい報復には、悪魔も、むちを恐れる飼い犬のように立ちすくんで震えるのである。
 死を恐れるな。サタンの攻撃に驚くな
 神はご自身を信頼する者を守られる
 たましいよ。苦痛の中にいても忘れるな
 神がすべてを永遠に治められることを
天上にあっては、永遠の王の主権を疑う者はなく、すべての者はひれ伏して、臣下としての礼を尽くす。天使は神の廷臣であり、贖われた者は神の寵臣であり、すべての者は日夜喜びに満たされつつ神に仕える。私たちにも速やかに偉大な王の都に行かせてください。
 人生の悲しく長い夜にも
 神は平安と喜びを与えられる
 たましいよ。苦痛のなかにいても忘れるな
 神がすべてを永遠に治められることを
 
 

エステル記4章4-9節

2016年08月12日 09時21分22秒 | 聖書


4:7 モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。
4:8 モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。



 モルデカイの異様な行動と、その姿を伝え聞いたエステルは、彼に服を送って、着替えるように伝えました。

しかし、モルデカイは拒否しました。

そこで今度は、何が起こったのかを聞くために、彼の元に使者を送りました。

 その使者がモルデカイの所に来た時、彼はハマンがしようとしていること、また彼が出したユダヤ人撲滅に関する法令の文書の写しを、その使者に渡しました。

また同時に、王の所に行って、王がユダヤ人の上に憐れみを持って下さるように告げてくれと、エステルに伝えました


ヨシュア記23章11節

2016年08月12日 09時18分58秒 | 聖書


あなたがたは、 十分に気をつけて、 あなたがたの神、 【主】を愛しなさい。

■O:今日のコラム
ヨシュアが晩年になって、イスラエルの民に告げた言葉です。この箇所、英語のある訳では「十分に注意をして、あなたがたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。
「十分に注意して、神を愛する」とは、とても不思議な表現のように思われます。

私は自分の家族を愛しています。けれども、時折、自分の愛はきちんと行動となって子どもたちに、また夫に表されているだろうか。自分の愛は家族に伝わっているだろうか、と振り返る時があります。
忙しくしていると、心の余裕を失い、会話がないがしろになってしまったり、ついつい放っておいてしまう時があります。それに気付く時にはつとめて、子どもと目線を合わせて話を聞く時間をもったり、夫に日頃の感謝を敢えて言葉にして表したりします。神の家族も同様です。愛しているつもりでも、それが十分に行動に表されておらず、自分の愛の足りなさを反省することが、自分はよくあります。

主に対する愛も同じではないかと感じます。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること、それは何気なく出来ることではありません。ヨシュアが言うように、自分自身の心を探り、思いを探り、日々の行動を振り返り、自分が主を愛しているのだろうかと、十分に注意をしなくてはなりません。

イエス様はヨハネの福音書の中でこう言われています。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、 あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)


私たちがイエス様を愛しているというのなら、みことばを愛するはずです。そのことが重荷とはならないはずです。もし、イエス様を愛することが思いのほか負担に感じるのならば、まず初めに私たちを愛してくださったその愛をもっと体験し、その愛の深さを体験することが必要かも知れません。

結婚の最初の誓約の時に「健やかなる時も病める時も、富める時も貧しい時にも」という表現があります。イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちに次のような言葉を語りました。
「けれども、 あなたがたこそ、 わたしのさまざまの試練の時にも、 わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちも、どのような時にも主を愛することを選び、主にこのような言葉をかけていただきたいと願います。
私たちはイエス様を愛し、イエス様の足あとにならいたいです。自分にとって犠牲が伴う時であっても、いかなる場合でも、みことばを愛することを選び、礼拝することを選び、主に仕えることを選ぶ時に、豊かな神の恵みを体験することと信じます。


■A:考えてみよう
自分の心の王座は誰のものだろうか?


■P:祈り
主イエス様、私は主を愛しているでしょうか?あなたにその愛が伝わっているでしょうか?その愛に行いが伴っているでしょうか?
どうぞ、私の心を探り、みことばによって光を照らし、聖霊様によって気づかせて下さい。
今日も主の御前にひれ伏し、こう告白します。私の主はイエス様です!私の救い主はイエス様です!私の王はイエス様です!あなたが私の心の王座に座して下さい。


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月11日(木)のつぶやき

2016年08月12日 01時34分45秒 | キリスト教