座間コミニティー

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◆子を産まない不妊の女よ。

2016年08月28日 16時43分37秒 | 聖書
喜び歌え。(イザヤ五四・一)
 
私たちは、キリストに向かって進みながら、わずかながら実を結んできた。また、自分が主の「右の手が植えた苗」であるという喜ばしい希望を抱いている。しかし、時には自分が全く実を結ばないように感じる。祈りにいのちがなく、愛は冷ややかであり、信仰は弱く、自分の心の園にある一つ一つの徳は衰え、またうなだれている。私たちは炎天下の花のように、すがすがしい夕立を必要としている。
このような時どうすればよいのか。冒頭の聖句は、このような私たちに向かって語りかける。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。」しかし、私たちは何について歌うことができよう。現在にも過去にも、少しの実も結んでいない。私はイエス・キリストについて歌うことができる。以前に、贖い主が私を訪れてくださったことを語ることができる。そうでなければ、主がその民を愛し、民の贖いのために、天の高い所から下られた大いなる愛をあがめることができる。
私は再び十字架のもとに行こう。たましいよ。おまえはかつて重荷を負っていた。そして十字架のもとで重荷を除かれた。おまえにいのちを与えたその同じ十字架が、おまえに実を結ぶことを得させるであろう。
私の不妊は何か。それは神の結実の御力が働く舞台である。私の荒地は何か。それは主の永遠の愛のサファイアをはめ込む黒い台である。私は乏しいままで行こう。無力なまま、恥と不信仰のままで。主にまだ子どもであることを告げ、主の忠実なみこころに信頼し、実を結ばない私ではあるが、声高らかに歌い叫ぼう。
信者よ。喜び歌え。それによってあなたの心も、実を結ばない他の人の心も励まされるからである。歌い続けよ。あなたはまもなく実を結ぶようになる。今、あなたに実を結ばないことを嘆かせておられる神は、すぐに果実の房をもってあなたをおおわれる。私たちの実のない経験は苦しいが、主の訪れは喜ばしい。私たちの無力さの自覚が私たちをキリストへと駆り立てる。そここそ、私たちの行くべき所である。主のうちにこそ、私たちの実が見いだされるからである。
 
 

ルカの福音書16章24節・27節~28節(イザヤ書16章)

2016年08月28日 16時41分53秒 | 聖書


★彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

■O:今日のコラム
ここの箇所で、ハデスからの切なる願いが書かれています。
私の舌を冷やしてほしい!!そして、それが無理でも、兄弟がこんな苦しみの場所に来ないように、言い聞かせてほしい!!
この2つの、切なる願いが書かれています。ハデスとは、どれほどの苦しみ痛み絶望の場所なのか、私には分かりません。。。ですが、この究極の状況で出た願いに、重みがあり、切実で緊急性があることは分かります。

この金持ちの最初の願いは、自分自身のものでした。でも、それが無理なら次に出てきたのは、「私には兄弟が五人あります」と、家族のことです。
友人や知人ではなく、家族のことです。


家族の中で、救われていない人はいるでしょうか?


このハデスからの切なる願い、「家族の救い。」これは、私自身にとっても重要で緊急性のあることだと再確認しました。
完璧な絶望のまっただ中にいる金持ちが、願った願いは「家族の救い。」です。
私たちは家族の救いを、この金持ちほど切に願い求めれているでしょうか?
あきらめたり、投げやりになっていないでしょうか?

今一度、家族の救いに対して切に願い求め、みことばと信仰を持って祈っていきたいと思います。

【ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。】(使徒16:31)

【何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願った事は、すでにかなえられたと知るのです。】(1ヨハネ5:14‐15)


また、私たち自身がイエス様の似姿に日々造り変えられ、生きた証になることができるように。悔い改め、血潮を受け、みことばに従順していきましょう。

私は、家族と天の御国で会いたいです。共に喜び、驚き、感謝し、救いの喜びに満ちた顔で会いたいです。

■A:考えてみよう。
私たちが任された領域、家族の救いを信仰持って、祈っているでしょうか?
自分は家族に対して証になっているでしょうか?



■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


今日の聖人の記念日

2016年08月28日 09時07分48秒 | キリスト教

聖アウグスチヌス司教教会博士

354年-430年

 アウグスチヌスは、北アフリカのダガステで、ローマ官吏の父と敬虔なカトリック信者である母モニカの間に生まれた。アウグスチヌスは成績が優秀で、カルタゴの大学に留学し、真理探求に情熱を燃やした。しかし、マニ教に傾倒し、ある女性との間に子どもをもうけ、父となったのだが、結婚は許されず、彼の内面に葛藤を生んだ。

 そして383年にイタリアに行き、ミラノの司教アンブロジオと出会い、キリスト教の洗礼を受けた。
 彼の回心には、母モニカの祈りと支えがあったといわれる。

 母の死後、彼は修道生活をしようと故郷に帰り、祈りと研究の生活を始めた。
 391年に司祭に、396年にはヒッポの司教になり、以来、説教や著作活動でキリスト教の真理を広め、異端と戦った。彼のキリスト教への魂の遍歴を記した『告白録』と『神の国』は、不朽の名著として知られ現在も読まれている。

 アウグスチヌスは、キリスト教内外の思想界に偉大な影響を与えた、西洋古代最大の教父である。

 「愛しなさい。そして、あなたが望むことをしなさい」(聖アウグスチヌスの言葉)


◆親  と  教  育

2016年08月28日 09時06分44秒 | 聖書

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。
そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言二二6)
 
子どもが問題を起こして悩んでいる親が、世の中にどんなに多いことでしょう。全部が全部、親の責任ではありません。子ども自身の責任も、環境や友達からの影響もあるでしょう。あきらめたり、がっかりしたり、自分を責めすぎたり、子どもに責任の全部をなすりつけたりしてはいけないと思います。神の恵みにたより、祈り続け、模範となって教えていくべきでしょう。
しかし、ドイツのことわざに「子どもの時していたとおりを、大人になってもする」、イギリスのことわざに「芽生えの時に曲がった木は、大木になっても曲がっている」とあるとおり、子どもの時の教育の大切さは、何回言っても言いすぎではありません。その子どもの教育で一番大切なことは何でしょうか。
第一に、「教育せよ」を考えましょう。これは原語で「ハノーク」ささげよという意味です。子どもを自分の私有物とする考えを捨て、神から預けられたその子の真の幸福のために、神の任命を受けた親として、子を神にささげる、これが、正しい教育の第一のポイントです。
第二に、「その行く道にふさわしく」です。人間は神に造られ、神に愛され、神によってその行く道を定められています。ですから、まず神を恐れるように教育することです。救世軍の母ブース夫人は、「私は悪魔の先を越して、子どもを神に従うよう信仰に導きました」と言っています。信仰があればどこへ放り出したとしても、大丈夫ではないでしょうか。次に、一人一人にはふさわしい行く道があるということです。一流大学を出たお父さんの子は一流大学へ行かなければ困るとは、考えてはならないことでしょう。
しかし、教育に大切な、教訓・模範・規律・祈りの四つがすべて、やはり親に、神を恐れ、神を知ることを要求しているとお思いになりませんか。
 
 

◆燈油……。

2016年08月28日 09時05分38秒 | 聖書
(出エジプト二五・六)
 
私のたましいよ。どんなにかおまえはこの燈油を必要としていることであろう。なぜなら、これがなくては、おまえのともしびが長く燃え続けることは不可能だからである。もし光が失われたり、油が切れたりすれば、おまえのともしびの芯はくすぶり、わざわいとなるであろう。おまえは自分の中にはわき上がる油の源泉をもっていない。だから、行って油を求めなければならない。そうでなければ、おまえは愚かな娘たちのように「私たちのともしびは消えそうです」と叫ばなければならないであろう。どれほどきよめられたともしびであろうと、油がなければ輝くことはできない。幕屋の中のともしびにも油が必要であり、たとえ風が吹かなくても芯を切っておく必要がある。たましいよ。おまえの場合も同様である。どれほど幸福であろうとも、新しい恵みの油の供給を受けていなければ、長く燃え続けることはできない。
すべての油が主の用に立つわけではない。地中から豊富にわき出る石油、魚から取った魚油、くるみ類から取った油などは適さない。ただ一種類の油だけが主の用に立つことができる。それは最上のオリーブ油である。生来の徳性から来る偽りの恵み、宗教家の手より授けられた想像上の恵み、外見上の儀式から来る仮想の恵み、これらは決して真の神の聖徒の力とはならない。彼は主がこのような油を喜ばれないことを知っている。ゲツセマネのオリーブ油をしぼる場所に行き、そこで押しつぶされた主からの油の供給を受ける。
福音の恵みの油は純粋であり、にごりがない。したがってその光は鮮明である。私たちの教会は救い主の金の燭台である。それらがこの暗黒の世を照らす光になろうとすれば、多量の聖い油を受けなければならない。私たち自身のために、私たちの牧師のために、そして教会のために、光の油が不足しないように祈ろうではないか。真理、聖潔、知識、愛、これらはすべて聖なるともしびから生ずる光である。しかし、私たちが個人的に神から油を受けていないならば、それらの光を輝かすことはできない。
 
 

エステル記9章23-28節

2016年08月28日 09時04分17秒 | 聖書


9:26 こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。こうして、この書簡のすべてのことばにより、また、このことについて彼らが見たこと、また彼らに起こったことにより、
9:27 ユダヤ人は、彼らと、その子孫、および彼らにつく者たちがその文書のとおり、毎年定まった時期に、この両日を守って、これを廃止してはならないと定め、これを実行することにした。



 ユダヤの人々は、この両日をプリムの日として祝うことにしました。

つまり、初めは14日の1日でしたが、もう一日加えられたことにより、15日も祝うこととなったのです。

この日の決定は、プリムになぞらえたと言われています。

プリムというのはプルの複数形です。

2日行われるので、複数にしたのです。

ではプルとは何かというと、ハマンがユダヤ人殺害の日をくじで決めたので、そのくじという言葉、つまり「くじ」から来ている言葉です。

 その日を忘れないように、祝いの日の名称についても、その内容をはっきりと記憶できるようにされたのです。



ルカの福音書15章7節

2016年08月28日 09時02分12秒 | 聖書


★あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


■O:今日のコラム
悔い改めは神の国へと入る道です。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:1)と宣べ伝え、イエス様も【この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」】(マタイ4:17)。と語られました。そして使徒達の最初のメッセージも【そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。】(使徒2:38)と言うものでした。

神の御国と福音を宣べ伝える時「悔い改め」とはとても重要なメッセージなのです。

しかし現代は「悔い改め」を抜いた福音が多く語られ、「悔い改め」と言うテーマは人々に好まれない内容の一つです。私達は「自分は既に完全だ。」と思いたい、プライドや肉の性質を持っています。それ故に悔い改めが必要でも、霊的な目が閉ざされて悔い改める事が出来ないのです。

ルカの福音書15:7でイエス様は「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」と言われています。これは別の訳では「悔い改める事の出来ない九十九人の正しい人。」と書かれています。

預言者イザヤはこの悔い改める事が出来ない私達の性質についてこの様に述べています。『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』(マルコ4:12)。

イエス様が言われている様に、私達が自分の罪を認め、ひとりの罪人として悔い改めるなら、自分を正しく義とみなし、悔い改める事の出来ない者達にまさる喜びが天に満ちるのです。

自分の罪を認識し、悔い改める事が出来る様に「聖霊様、日々私の目を開いて真理の光を照らし、罪を示しそれを取り除いて下さい。」と祈ります。そして、自分の罪の深さを知れば知る程、その罪の束縛から救って下さった主イエスの十字架の素晴らしさ、そして全ての罪から私を聖め続ける主イエスの血潮の偉大さを味わう事となるのです。


■A:考えてみよう
今日、自分の口で告白して悔い改めの祈りをしましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月27日(土)のつぶやき

2016年08月28日 01時34分00秒 | キリスト教