座間コミニティー

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◆私をいやしてください。

2016年08月30日 16時56分56秒 | 聖書
主よ。そうすれば、私はいえましょう。(エレミヤ一七・一四)
 
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。
 
 

「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。

2016年08月30日 16時56分02秒 | 聖書


私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します」(詩篇30:12)

与えられているもの、今あるものを感謝して行くこと、これは恵みに恵みが増し加えられてゆく秘訣だ。

母親を失い、人生の虚しさに、鉄道自殺を図った田原米子さんは、何とか一命を取りとめ、両足と片腕を失い、片手の指3本だけが残った。

その身体を見て、今度こそ絶対に死のうと決心した。
しかし、病室を訪ねた宣教師によって救いに導かれた。神に出会った時、3本しかない指が、3本もある!に見方が変わった。

「ない」から「ある」へ。
「3本しか」と「3本も」の違いで、人生が180度変わってしまった。

結婚し、子供も出産した。子供を育てるために、主はこの3本の指を残して下さった、何と有難いことかと。

祈りにより、天からの知恵を与えられ、日々チャレンジ精神で、何もかもを3本の指で成し遂げる。
主の恵みは十分であり、主の力は、弱さの中に完全に現われる。

私たちの日常はどうだろう。「ない」「ない」と嘆いているだろうか。
あれがない、これがない~。不平と不満と愚痴で一杯だろうか。

恵みを数えてみよう。あれもある、これもある~、何と豊かに与えられている事だろう。

「しか」無いを、「~も」あるに、視点を変えよう。感謝する人に、主は更に感謝すべき事を増し加えられる。
感謝して行くと、ますます感謝が見えて来る。
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ああして欲しい、これが欲しいの祈りばかりではないだろうか。神様に感謝し、ほめ讃えながら歩もう。
恵みの中に置かれているはずだ。感謝をしよう。


今日の聖人の記念日

2016年08月30日 09時02分50秒 | キリスト教

聖フェリクス司祭 聖アダウクト殉教者

3-4世紀

 4世紀、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が始まったころ、司祭であったフェリクスは信仰を守りとおし、死刑の宣告を受けた。死刑場に連れて行かれる彼の態度は、信仰深く落ち着いており、その姿は傍観していたある男性の心を打った。この男性は「わたしも、この人が信じている神に従っている者です。信仰のためなら命をささげます」と大声で叫び、すぐにローマ兵士から捕えられた。だれもこの人の名を知らず、彼は「アダウクト」(追加された者の意)と呼ばれた。

 2人の殉教者は、オスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作成された殉教者のリストには、「フェリクスとアダウクト」とだけ記録されていたといわれる。のちに、彼らの墓は作り直された。


◆種まきの人生

2016年08月30日 09時01分43秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)
 
ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。
 
 

◆待ち望め。

2016年08月30日 09時01分01秒 | 聖書
主を。(詩篇二七・一四)
 
待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。
 
 

エステル記10章1-3節

2016年08月30日 08時59分32秒 | 聖書


10:2 彼の権威と勇気によるすべての功績と、王に重んじられたモルデカイの偉大さについての詳細とは、メディヤとペルシヤの王の年代記の書にしるされているではないか。
10:3 それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。



 ユダヤ人がハマンの策略によって根絶やしにされそうになった時、彼らがそこから救いへと導びかれたきっかけになったのは、眠れなかった王が昔の記録を家来に読ませた、その記録にありました。

書かれた記録が再度読まれることによって、歴史の流れが変えられたのです。

多くの国で王は、自分の業績を記録に残させました。

彼の業績を後世に記憶させるためです。

この大国ペルシャ王の記録に、ユダヤ人のモルデカイのことが残されました。

ユダヤ人でありながらも、この国で高位について、良き政策を行ったからでした。

彼は、世俗的な政治的でも覚えられた人であったのです。


ルカの福音書18章13節

2016年08月30日 08時57分22秒 | 聖書


★『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』


■O:今日のコラム
このたとえは、パリサイ人と収税人、どちらが義と認められたか?を教えるたとえです。この事を通してイエス様は自分の罪を認めて、悔い改める者が義と認められる事を教えておられます。つまりこのたとえは悔い改めについて教えているのです。
  シャローム教会の金曜の夜のシャバットの祈りは、特に悔い改めの祈りを大切にしています。ある意味では、悔い改めとは、内にイエス様が形作られるまでを指していますから、信仰者の根底にあるものと言っても良いものです。シャバットの悔い改めの祈りの中では、多くの者が胸を打ち叩いて悔い改めをしています。私には、シャバットの祈りに来た時、初めこの事に悟りがなかったのですが、ひざまずくと3秒後に私に語りかける声が聞こえました。「あなたも胸を打ちたたきなさい」と。
  同時に主によって私に御言葉が開かれました。

『私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。』(1コリント9:27)

ルカ18:13の収税人も胸を打ち叩いて悔い改めています。これは、偶然なのでしょうか?

『打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。 腹の底まで打ちたたけ。』(箴言20:30)

この御言葉は、同じ事を教えていないでしょうか?
聖書は、神によって悲しむ = 悔い改め、と教えています。

『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(2コリント7:10)

その主は、こう語っておられます。

『こう言うのです。  「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。  弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」』(マタイ11:17)

  この悲しむという語には、聖書ではアスタリスク(*)が付いていて、直訳では『胸を打たなかった』なのです。
  私たちは毎日の悔い改めの中で、神によって悲しみ、胸を打ちたたき、深い悔い改めに入っていきましょう!

■A:考えてみよう
御言葉の基準と違う自分に、主がどれほど悲しまれたかを受け取り、主と共に悲しむ時を持ちましょう。胸を打ち叩きながら。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月29日(月)のつぶやき

2016年08月30日 01時33分10秒 | キリスト教