座間コミニティー

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◆サタンが私たちを妨げました。

2016年08月07日 16時15分50秒 | 聖書
(Ⅰテサロニケ二・一八)
 
善と悪とが衝突を始めた最初の時から、霊的な経験において、サタンは常に私たちの前に妨げを置く。あらゆる所で、戦場のあらゆる地点で、前衛にも後衛にも、明け方真夜中を問わず、サタンは私たちを妨げる。私たちが畑を耕していると、サタンはすきを折ろうとする。私たちが石をもって塀を築くと、サタンはその石を崩そうとする。私たちが、苦しみや戦いの最中にあって神に仕えようとするならば、サタンは至る所で妨害する。サタンは、私たちが初めてイエス・キリストに行こうとする時、私たちを妨害する。私たちが初めて十字架を見上げ、そして生きた時、サタンとの激しい戦いを経験した。今私たちは救われているが、サタンは私たちの品性がみがかれるのを妨げようとする。
あなたは得意になって言うかもしれない。「私の今までの歩みは完全である。だれひとり、私の歩みについてとやかく言えない」と。あなたの、その慢心に注意せよ。あなたの徳はまだこれから試みられるからである。サタンは攻撃の火矢を、あなたを有名にしている、まさにその徳に向けて集中させる。もしあなたが堅い信仰の持ち主であるならば、あなたの信仰は遠からず攻撃を受けることになろう。もしこれまでモーセのように謙遜であったとすれば、軽率なことばを出すように誘惑されることを覚悟せよ。鳥は、最も熟したあなたの実をついばむ。いのししは、あなたの最良のぶどうを荒らしに来る。私たちが熱心に祈っている時、サタンは必ず妨げる。私たちの切なる願いを妨害し、できれば私たちに祝福を失わせようとして、私たちの信仰を弱める。またサタンは、クリスチャンの努力を妨げようとして気を配る。これまでリバイバルの起こった時には、必ずサタンの反対も活発であった。エズラとネヘミヤが活動を始めると同時に、サヌバラテとトビヤが立ち上がって妨害しようとした。
ではどうなのか。私たちは、サタンが私たちを妨げるからといって驚かない。それは、私たちが主の側におり、主のみわざをなしている証拠だからである。そして主の御力によって私たちは勝利を得る。
 
 

「イスラエルよ。ギブアの日々よりこのかた、あなたは罪を犯してきた。

2016年08月07日 16時15分00秒 | 聖書


彼らはそこで同じことを行なっている」(ホセア9:10) 

ギブアの罪とは士師記19~にある。
レビ人のそばめが、ベニヤミン族のギブアで暴行を受け死んだ。
彼はその死体を12に切り分け、イスラエル12部族に送りつけた。

彼はまた、ギブアに住むよこしまな者たちの引き渡しを、ベニヤミン族に求めたが、拒否された。
その結果、部族間戦争となり、600人を残し、ベニヤミン族は皆殺しになった。

ギブアの罪は取り除かれたのか。
ギブアの町は焼かれ、男色や姦淫は取り除かれたかに見えたが、その罪の根は残っていた。

道徳的腐敗、同性愛、不品行、姦淫はホセアの時代に、ギブアで行われていた。
「ギブアの日々より罪を犯してきて、彼らはそこで同じことを行なっている」。

罪とは、時間さえ経てば無くなるというものではない。
むしろ、ますます大きくなる。
心の中の罪は見たくないので、ふたをして見ない、触れないようにする。

放っておくと、罪は勝手に無くなるのではなく、そのままそこにあり続け、ますます熟して、やっかいなものになって来る。

罪は忘れてしまいたいが決して消えない。
唯一罪が消し去られる道が、悔い改めだ。
罪はただ一つ、悔い改めだけが解決の方法だ。それ以外に方法は無い。

今、悶々としていたら、へりくだって、罪を認め、告白しよう。
赦され、二度と思い出さないと神が言われる。
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私達は同じ失敗を繰り返す弱い者だけれど、主が私達の罪のために十字架にかかって下さった。
私達の背後にある主の十字架を思う時、本当の悔い改めへと導かれるのではないだろうか。


今日の聖人の記念日

2016年08月07日 08時27分42秒 | キリスト教

聖シスト2世教皇と同志殉教者

3世紀

 シスト2世教皇(在位257~258)は、前教皇ステファヌス1世(在位254~257)とカルタゴ(アフリカ)の司教チプリアヌス(在職 249~258)との間に生じた洗礼に関する論争によって、ローマと他の教会との分裂を修復しようと努力した。しかし、彼が教皇になったのは、バレリアヌス皇帝によるキリスト教迫害の時代だった。8月6日、カリストのカタコンベ(地下墓地)で典礼儀式の説教中に、助祭のヤヌワリオ、マニュス、ビンセンシオ、ステファノと共に捕らえられ、斬首された。他の2人も捕らえられ、隣の墓地で処刑され、ラウレンシオ助祭は拷問を受け、4日後に殺された。

 そのすぐ後、9月14日に斬首された聖チプリアノは、彼らの殉教に力を得て、アフリカのキリスト教徒を励まして、こう語っている。「死よりも不滅の生命のことを考えよう。信仰と勇気をもって神に身を捧げたのだから。証しをたてるときは、恐れるよりも喜ぶように。私たちは殺されるのではなく、栄光の冠を受けると知っているのだから」と。

聖カエタノ司祭

1480年-1547年

 カエタノは、イタリアのヴィチェンツァに生まれ、信仰深い家庭で育った。法律を学んだ後、36歳のときに司祭となった。オラトリオ神愛会の一員として教会の内部改革に貢献し、福祉活動に励み、またヴェネチアに病院を設立した。1523年にローマに行ったカエタノは、キエティの司祭カラッファ(のちの教皇パウロ4世)とともに、貧しい人びとへの奉仕と救いを目的とする修道会を創立した。この会は土地の名前から「テアティノ会」と呼ばれた。しかし、カエタノは 1527年にローマから追われ、ヴェネチアとナポリで活動した。


◆罪 の き よ め

2016年08月07日 08時26分32秒 | 聖書

だれが、「私は自分の心をきよめた。
私は罪からきよめられた。」
と言うことができよう。       (箴言二〇9)
 
この短いことばは、実に根本的な人間の悲惨さを表現しています。
第一に、ここにはすべての人が神の前に罪人であるという、人間が道徳的破産者である宣言がなされています。ヨブ記には、「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか」(四17)と記され、パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けられなくなっている」(ローマ三23参照)と言い、ダビデは、「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇五一5)と告白しました。
第二に、すべての人は、自分の力で罪をきよめたり、罪から自分を救い出したりすることはできないと、人間が道徳的に無能力者であることを、宣言しています。このことに反対する人は、偽り者だとヨハネは言いました。「罪がないという者は自分を偽り、罪を犯したことがないという者は神を偽り者にしている」(Ⅰヨハネ一810参照)と述べています。
それなら人間は、このどうにもならない罪の中に、なるようになれ、なるようにしかならないと、人生を投げ出すべきなのでしょうか。違います。神は、こんな罪人の罪をゆるし、罪をきよめ、義と認め、神の子としてくださるのです。罪を罪として、どうにもならない自分の罪として認め、イエス・キリストの血潮の中に投げ出す時、罪はゆるされきよめられるばかりか、光となって輝くと聖書は言うのです。パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ五20)と言いました。
罪をゆるしきよめてくださる神の愛と力の中に、人類のほんとうの希望はあるのです。
 
 

◆私たちは……

2016年08月07日 08時25分50秒 | 聖書
真心からあなたを愛しています。(雅歌一・四)
 
クリスチャンは、他の何者にもまさる深い愛をもってイエスを愛する。キリストと別れるよりはむしろ、父や母を失うことを望む。この世のすべての慰めには全く執着しない。しかしイエスを、彼らはしっかりと胸に抱きしめる。キリストのため、進んで自己を否定する。しかしどんなことがあっても、イエスを否定することはない。迫害の炎によってひからびてしまうような愛は、本当の愛ではない。真の信者の愛は、深い深い流れである。人は忠実な信者を主から引き離そうと努めてきた。しかしこのような試みは、あらゆる時代を通して実を結ばなかった。名誉の冠も怒りの渋面も、主と信者との結びつきを解くことはできなかった。これは、世の力がいつかは引き離してしまう日常の結びつきとは違う。人も悪魔も、この結合の錠を開くかぎを見いだしてはいないのである。サタンが奸計をもって、この聖く結ばれた心の結合を破壊しようとした時ほど、大失敗をしたことはなかった。
「真心からあなたを愛しています」と記されているが、何びともこの聖句を抹消することはできない。しかし、真心からの愛の激しさは、その現れよりはむしろ、その心が何を望むかによってはかられる。私たちは日々愛の足りないことを嘆いている。私たちは自らの心がさらに多くの愛をもち、神との関係をさらに密接なものとしたいと願う。サミュエル・ラザフォードのように、私たちは嘆息して叫ぶ。「ああ、地を駆けめぐり、天にも上るような――そうだ。諸天を駆けめぐり、千万の世界をたずねるような愛をもちたい。そしてそのすべての愛を、麗しい、何ものにもまさる美しいキリストのみに注ぎ出したい」と。ああ、私たちの愛がどこまで届こうと、それはとうてい取るに足りない。キリストのみわざに比べれば、私たちの愛情は一滴の水にすぎない。しかし私たちの愛を願いの強さによってはかるならば、きわめて高い。主が私たちの愛をさばかれるのも、そのようにしてであろう。
ああ、私たちが心の中のすべての愛を一つに集めて、いと麗しい主の御前に注ぎ出すことができますように。
 
 

エステル記2章19-25節

2016年08月07日 08時24分20秒 | 聖書


2:21 そのころ、モルデカイが王の門のところにすわっていると、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタンとテレシュが怒って、アハシュエロス王を殺そうとしていた。
2:22 このことがモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。



 現代は情報戦であると言われます。

しかし、昔も手段は違いますが、情報はとても大事でした。

モルデカイが王の門の所に座っていた時、門を守っている二人の宮使いが、王を殺害しようとしていた計画を、偶然聞きました。

彼は王の命の危険を感じて、エステルに伝えました。

エステルは、モルデカイの名をもって、その情報を王に伝えました。

しかし、いくら情報でありましても、その真意がわかりませんと、行動には出れません。

そこで、彼らは捕らえられて、調べられました。

その結果、この情報が真実であることが判明して、彼らは処刑され、王の命は守られました。

記録が報告者の名と共に、詳細に記入されました。

事を記録することが、歴史につながったからです。


ヨシュア記13章1節、14章12節

2016年08月07日 08時21分56秒 | 聖書


★ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。

★どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。

■O:今日のコラム
私たちの肉眼では見ることができませが、聖書は、霊の世界で戦争が起こっていること、格闘が行われていることを教えています。(エペソ6章、2コリント10章など)
戦争や争いは、国と国の間、人と人との間で、領土や資源、権力や地位を巡り、だれが、その所有権、支配権をつかむか、ということが争われます。
霊の領域で起こっている戦争も同じです。
初めに、神様が、天と地を創られ、すべては神様の統治の下にありました。
「天」は今も、神様の支配の元にあります。
しかし、神様が「地」を治めさせようとした人間が罪を犯して、悪魔に支配権を奪われてしまったので、本当は人間が受け取って治めるはずだった「この地」は、悪魔の支配の下に置かれてしまいました。

悪魔が支配している地域、領域、また人々を、取り返し、神様の支配の元に置くことが、神の子どもたちに与えられた使命であり、神の子と、悪魔との間で、この地の支配権をめぐって戦われているのが、霊的戦いです。

年を重ね老人になったヨシュアに、主は、「まだ占領すべき地がたくさん残っている」と言われましたが、誕生してから2000年以上たった教会にも、「まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と主は言っておられると信じます。

私たちが占領すべき地、たくさん残っているそれらの地とはどんなものでしょう。
病気や貧困、壊れた人間関係などもそうですし、自分自身の中の高ぶりや欲、我の強さ、意思の弱さ、などもそうかもしれません。救われていない人々の魂も、もちろん勝ち取らなければならない約束の地です。
それら、一つ一つに、神様の支配が及ぶこと、癒し、健康、豊かさ、和解、回復、謙遜、柔和さ、感謝、従順、救い、など、天にあるものが地にもたらされることが、約束の地を占領していくということだと信じます。

この使命を果たして行く時に、私たちが持たければならない、大事な性質があります。
カレブが持っていた、「主に従い通す信仰」です。

カレブは85歳の時に、こう言いました。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
そして、このカレブは、45年前に、主からこう言われたのです。

「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。」(民数記14:24)

彼の信仰には本当に励まされます。「そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があった」から、「あった」けど、「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう」という信仰です。
敵がどうであろうと、状況がどうであろうと、「主が共にいてくださるなら」「主が約束された通り」「私は、追い払うことができる!」
ハレルヤ!

今こそ、私たちは、心を奮い立たせて、カレブのように言いましょう。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
(民数記13:30)

■A:考えてみよう
私の中の、占領すべき地、まだ神様の支配が完全に及んでいない領域はなんだろう。神様が王座に座っておられない部屋はどれだろう。
家族、教会、地域、職場、友人関係などの中で、占領すべき地はなんだろう。

たくさんある占領すべき地の中で、今、私が攻め取るべき町はどこだろう。
この町を攻め落とすためにも、十字架に架かってくださったキリストの肉体の垂れ幕を通して、祈りの香と小羊の血潮をもって、大胆にまことの聖所に入り、恵みの御座に近づき、主の戦略と知恵、力、恵みを受け取り、主の栄光のために、この地を勝ち取ろう。


■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン


8月6日(土)のつぶやき

2016年08月07日 01時35分21秒 | キリスト教