座間コミニティー

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◆御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

2016年07月23日 20時06分38秒 | 聖書
(Ⅰヨハネ一・七)
 
この聖句には「きよめます」と記され、「きよめるでしょう」とは記されていない。
多くの人々が臨終の時に赦しを求めたいと考える。おお、死の時になって罪を赦されるというそれだけの望みに頼るより、今きよめられているほうがどんなによいことか。ある人々は、罪が赦されたという自覚は、クリスチャンの長い経験の後に初めて与えられるものだと考える。しかし罪の赦しは現在なされることである。今日の特権であり、今この時の喜びである。罪人がイエスにゆだねる瞬間に、彼は全き赦しを受ける。冒頭の聖句は現在形で書かれているが、それには継続の意味もある。昨日きよめられていたのであり、今日きよめられており、明日きよめられるのである。クリスチャンよ。あなたは死の川を渡る時まで、常にきよめられる。あなたは毎時、この泉に来てよい。なぜなら、泉はあなたをきよめるからである。
そしてこのきよめが完全であることに注意せよ。単に罪というのでなく、「すべての罪から」である。このみことばのこの上なくすばらしい意味を、私たちはことばをもって表現できない。しかし私は、聖霊なる神があなたにそれを味わわせてくださるように祈る。
神に対する私たちの罪はさまぎまである。請求書の金額の多少にかかわらず、支払うなら債務はなくなるのである。イエス・キリストの血は、ペテロの冒の罪にも、愛の深いヨハネの欠点に対しても、同様に尊い神の支払いである。私たちの罪はなくなった。すべての罪がただちに取り去られた。永遠に! 幸いな完成よ! 眠りにつく前に考えるのに、これほどすばらしい主題があろうか。
 聖なる神に対する罪
 神の正しい律法に対する罪
 神の愛と御血に対する罪
 神の御名とみこころに対する罪
 大海のように果てしない罪
主はこれらのすべての罪から私をきよめられる
 
 

「『船の右側に網をおろしなさい。

2016年07月23日 20時05分47秒 | 聖書

そうすれば、とれます』そこで、彼らは網を
おろした」(ヨハネ21:6)

信仰生活で大切な事は、主の言葉に「従う」ことだ。
御言葉をどれほど聞いても、知識が増えても、「従う」ことをしなければ、何の成長もない。

プロのベテラン漁師ペテロたちが、舟に乗り込み、一晩中漁をして全くの、何の収穫も無かった。
その日は、潮の流れの加減によるのか、何かはわからないが、引き揚げるしかなかった。

その時、誰かが岸辺で「舟の右に網を降ろせ」と言っている。
それに従って、右に網を降ろすと、おびただしい魚がとれた。以前に全く同じ光景に出会った事を思い出し、それが重なり、主だと気づいた。

主の言葉に一歩従った時、素晴らしいみわざを見た。
以前も一晩中働いて全く魚がとれなかった時、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとれ」との言葉に従った時に、大漁の奇跡を見た。

舟の右に網を下ろす事も、深みに漕ぎ出す事も同じだ。
「到底、魚がいるなどと思えない」「無駄だ」「徒労だ」「とれるはずがない」「あり得ない」様々な人間的思い、判断、今までの経験、知識が邪魔をするだろう。

見えるところと、神の言葉が正反対だ。
自分の思い、判断と、神の言葉は相容れない。真逆だ。
「でも、おことばどおり」網をおろした。無条件に御言葉に従った。
すると、奇跡を見た。

今、もし同じ状況にいたなら、見えるところでなく御言葉に従おう。

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「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なる」と言われるからには、神のみ思いと人間の思いは、相当に、大幅に違う。
人間の思いでは、神の御心が愚かに見えてしまう。だから捨ててしまう。
自分の思いの方を捨てて、御言葉に従う時に大きなみわざを見る。



今日の聖人の記念日

2016年07月23日 07時52分03秒 | キリスト教

聖ビルジッタ修道女

1303年ごろ-1373年

 ビルジッタは、スウェーデンの名門貴族の家に生まれ、敬虔に育てられた。結婚して、8人の子供を育て、その後国王マグヌス2世の皇后の女官になり、国王夫妻に良い影響を与えた。宮廷を去った後、シトー会の修道院に入り厳しい生活を送った。彼女は、幼いときから啓示を受けていたが、ますますはっきりしたものとなり、その体験を書いた著書「啓示」は、のちに多大なる影響を与えた。1346年に国王より土地を与えられ、ヴァズテナに修道会を創立した。1360年にローマに移り、不幸な人々を助け、施設を設けたり、また教会の堕落を指摘するなど改革にも力を尽くした。スウェーデンの保護の聖人とされている。


◆急ぎ足はつまずく

2016年07月23日 07時50分59秒 | 聖書

熱心だけで知識のないのはよくない。
急ぎ足の者はつまずく。       (箴言一九2)
 
人間らしい「ふさわしい生き方」を考える時、一生懸命にまっしぐらに熱心に生きるのも、そんな生き方の一つの姿ではないかと思います。ところが聖書は、「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく」と言います。「よくない」どころか、この箇所は「罪深いこと」とも訳せるのです。
私が長いこと入院していた病院に、病人のシーツ交換を専門にしていた女の方がいました。どんなことがあってもきちんと、病人たちのシーツを真っ白な新しいのと替えないではすまさないという熱心さはすぐ分かりました。しかし、病人がどんなに苦しんでいようが眠っていようがかまわずに、自分の仕事だけはやりたいといった雰囲気もよく伝わってくるのです。熱心だけではよくない、――と思いました。熱心でよくない、もう一つの例は、教育ママゴンでしょう。ほかのことは甘やかし放しで、ただ「勉強しなさい。勉強しなさい」です。
熱心だけで知識がない人は、急いで自分だけのペースで事を運ぼうとします。知識がないというのは、第一に、愛とか喜びとか、平和とか、いやしとか、人生のほんとうの目標とかが分かっていないこと、つきつめていえば、永遠の価値が分かっていないことです。第二に、ほんとうの目標を達成するためには、時間がかかる、プロセスを踏んでいく、忍耐や沈黙や休みがいるということが分からないことです。第三には、ほんとうの目標を達成するためには、親切とか、同情とか寛容とか、つまり愛が一番大切だということが分からないことです。まとめていえば、神の知識と神の知恵がないので、的はずれだということではないでしょうか。
神を知り神の愛をいただくことは、何という人生の奥義でしょうか。
 
 

◆あなたもまた彼らのうちのひとりのように……。

2016年07月23日 07時49分45秒 | 聖書
(オバデヤ一一節)
 
エドム人は、イスラエルの困苦の際に兄弟愛をもって助けるべきであった。しかし実際は、このエサウの子孫はイスラエルの敵となった。今朝のこの聖句で重要な点は、「あなたもまた」ということばである。
悪い行為はそれを犯す人によってさらに悪い行為になる。神に特別に愛されている私たちが罪を犯す時、その罪はいっそう大きなものとなる。私たちは特別の恩恵を受けているから、もし罪を犯すなら大声で責められなければならない。もし天使が、私たちが悪事をしているのを発見するようなことがあれば、天使は面倒な理屈を言わなくても、ただ「あなたが? あなたはここで何をしていたか?」と言えば十分である。私たちは多く赦され、多く救われ、多く教えられ、多く富ませられ、多く祝福されている者であるのに、あえて悪事に手を出すようなことができようか。
善良な友よ。今朝しばらくの間罪の告白をすることは、あなたにとって有益なことであろう。あなたはこれまで悪事をしたことはないか。仮に会合の席で、ある人々が下品なことを言って笑ったとする。その冗談があなたの耳に不快に響かなかったとすれば、あなたも彼らの一人のようであったのだ。神についてひどいことが語られた時、あなたは恥じて黙っていた。そばにいる人から見れば、あなたも彼らの一人のようであったのだ。市場でさかんに世俗的な取り引きがなされるが、あなたも彼らの一人のようではなかったのか。彼らは猟師のように虚栄を追い求めているが、あなたも彼らのように利益に対して貪欲ではなかったか。彼らとあなたとは、はっきり区別されているか。ここが重要な点である。
自分のたましいについて正直であれ。あなたがキリスト・イエスにあって新しく造られた者であることを確かめよ。そしてそれが確かめられたならば、だれにも、「あなたもまた彼らのうちのひとりのようであった」と言われないように心して歩め。彼らの秘密に参加するな。彼らとともに滅びないためである。苦しむ神の民に味方し、この世にくみするな。
 
 

ネヘミヤ記13章1-3節

2016年07月23日 07時48分16秒 | 聖書


13:1 その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。
13:2 それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。



 城壁の奉献式の日に、モーセの書が朗読されました。

その中に、アモン人とモアブ人のことが書かれています。

申命記の23章の3-6節です。

アモン人もモアブ人も、アブラハムの甥のロトから出た近親の部族です。

しかし彼らは、イスラエルの民がエジプトを出てカナンの地に入ろうとした時に、妨害しました。

食料も水も、民に与えようとしませんでした。

ですから、もう彼らのことは近親の者とせず、外国人とせよと言うのです。

 民はこの主の命令を新たに知って、今まで共にいたアンモン人とモアブ人を排除しました。

彼らはただ、主の言葉に従ったのです。

それが、主の民の印なのです。


1コリ13章8節

2016年07月23日 07時46分06秒 | 聖書

 
★愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。


■O:今日のコラム
主の愛は決して絶える事が無く、途切れる事も、終わる事もありません。一つの波が押し寄せるとまた新たな波が押し寄せる様に、主の愛は日々、そして瞬間瞬間新たに私達に押し寄せ続けるのです。

それなので私達は人生の全ての時間をかけたとしても主の愛を味わい尽くす事も、賛美し尽くす事も出来ません。私達の人生と言う限られた時間には納め切る事の出来ないので主は私達の為に永遠の御国を用意して下さいました。私達は永遠と言う時間をかけて終わる事のない主の愛を味わい、またその偉大な愛の故に主を褒め称え、賛美し続けるのです。

賛美や礼拝の中で臨在に触れる時、聖霊様に満たされる時、また人々の親切を通して、その他にもあらゆる方法で私達は、主の愛を味わう事が出来ますが、御言葉を朗読する時、主の愛の実体に触れる事が出来ます。

1コリント13章は愛とは何であるかが具体的に記されている書簡です。愛について記されている御言葉を何度も何度も繰り返し、口に出して朗読する時、私達は主の愛の性質に触れ、また主の愛の人格が私達の内に型造られて行くのです。


■A:考えてみよう
以下の愛の御言葉を繰り返し朗読しましょう。

「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(1コリント13:4~8)


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月22日(金)のつぶやき

2016年07月23日 01時34分46秒 | キリスト教