多くの人々が臨終の時に赦しを求めたいと考える。おお、死の時になって罪を赦されるというそれだけの望みに頼るより、今きよめられているほうがどんなによいことか。ある人々は、罪が赦されたという自覚は、クリスチャンの長い経験の後に初めて与えられるものだと考える。しかし罪の赦しは現在なされることである。今日の特権であり、今この時の喜びである。罪人がイエスにゆだねる瞬間に、彼は全き赦しを受ける。冒頭の聖句は現在形で書かれているが、それには継続の意味もある。昨日きよめられていたのであり、今日きよめられており、明日きよめられるのである。クリスチャンよ。あなたは死の川を渡る時まで、常にきよめられる。あなたは毎時、この泉に来てよい。なぜなら、泉はあなたをきよめるからである。
そしてこのきよめが完全であることに注意せよ。単に罪というのでなく、「すべての罪から」である。このみことばのこの上なくすばらしい意味を、私たちはことばをもって表現できない。しかし私は、聖霊なる神があなたにそれを味わわせてくださるように祈る。
神に対する私たちの罪はさまぎまである。請求書の金額の多少にかかわらず、支払うなら債務はなくなるのである。イエス・キリストの血は、ペテロの冒の罪にも、愛の深いヨハネの欠点に対しても、同様に尊い神の支払いである。私たちの罪はなくなった。すべての罪がただちに取り去られた。永遠に! 幸いな完成よ! 眠りにつく前に考えるのに、これほどすばらしい主題があろうか。
聖なる神に対する罪
神の正しい律法に対する罪
神の愛と御血に対する罪
神の御名とみこころに対する罪
大海のように果てしない罪
主はこれらのすべての罪から私をきよめられる