座間コミニティー

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◆その隊の数は非常に多く……。

2016年07月24日 16時41分56秒 | 聖書
(ヨエル二・一一)
 
私のたましいよ。おまえの栄光、また保護者である主の大能を覚えよ。この方は戦いの人であり、その名は主。すべての天の軍勢は主の指揮を待ち、万軍は主の戸口に待機し、ケルビムとセラフィム、見張りの者、聖なる者、支配者、力ある者は、すべて主のみこころに注目する。もし私たちの目が、肉なるもののために見えなくなっていないならば、火の馬と戦車が主の愛される者たちを取り囲んでいるのを見ることができるはずである。
自然界の力はすべて、創造者の絶対的支配の下にある。暴風、あらし、稲妻、雨、雪、あられ、そして静かな露も、暖かい日光も、すべて主が定められるままに来て、また去っていく。地も海も空も、地の下も、主の大いなる軍隊の営舎である。宇宙は主の幕屋、光は主の旗、炎は主の剣である。主が戦いに出て行かれる時、飢きんが国中を荒らし、疫病は民を打ち、大暴風雨は海上に猛威を奮い、大竜巻は山を揺るがせ、地震はこの堅固な世界を揺り動かす。またすべての生物は、主のご支配を認める。預言者をのんだ大魚から、ツォアンの野を悩ませたあぶの群れに至るまで、すべては主のしもべである。そして主の大いなる軍隊の各部隊は毛虫のようであり、いも虫のようであり、しゃくとり虫のようである。なぜなら、主の軍隊は非常に多いからである。
私のたましいよ。心してこの強大な王と和解せよ。そしてさらに、主の旗の下に参集せよ。なぜなら、主に対して戦いを挑むとはばかげたことであり、主に仕えることは栄光だからである。イエス――インマヌエル(神は私たちとともにおられる)――は、主の軍隊に志願する者をいつでも受け入れられる。もし私が、まだ主の軍隊に登録していないならば、今夜眠る前にみもとに行き、主のいさおしにより、受け入れていただくよう願いたい。そして、もし私が、自分の望みのように十字架の兵士になっているならば、勇気を奮い起こそう。なぜなら、敵は強大な主の軍隊に比べて実に小さなものだからである。
 
 

「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。

2016年07月24日 16時40分58秒 | 聖書


そこで、主は彼らにその願うところを与え…痩せ衰えさせた」(詩篇106:14)

イスラエルの民は、自分本位の欲望にかられて、わがままに、自己中心に神に求めた。
彼らは、欲望のままを願い求めたが、神は彼らに彼らの願う物を与えられた。

どうしても欲しかった、願ったものは得たが、しかし、彼らは決して心が満たされることはなかった。

別の訳では「神は欲しがるものをお与えになりましたが、彼らの心を空虚になさいました」とある。
彼らは、欲しい物を得たのに、彼らの心は満たされない。

自分が最も欲しい、絶対に欲しい、どうしても欲しいと、願っていた物を手にした途端、心が虚しく、ポッカリ穴が空き、これは自分が本当に願っていたものではない。

自分が本当に願っていたものは、別のものだと気づく。
私たちの心が本当に欲し、願い、求めているもの、それは、神ご自身だ。

心の空洞は、神を求め、神によってのみ、ピッタリと埋められる。
神との交わりなしでは、何を手に入れたとしても、心には、虚しさしかない。

「激しい欲望」「願うところ」「やせ衰えさせた」激しい欲望にかられ、どうしてもと願うなら、神はそれを与えられる。
しかし、心は逆にやせ衰える。

神が与えて下さるものに満足し、感謝し、「満ち足りた心を伴う敬虔」はどんなに喜びであり幸せだろう。
「大きな利益を受ける道」だ。神は貪欲から心を守り、満足を下さる。
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満ち足りた恵みをすぐに忘れ、次々に来る肉のままの祈りをしているだろうか。
「御心がなりますように」の態度で神様に尋ね求めたい。


今日の聖人の記念日

2016年07月24日 13時14分58秒 | キリスト教

 聖シャーベル・マクループ司祭

1828年-1898年

 シャーベル(幼名ヨセフ)は、1828年5月8日にレバノンに生まれた。
 彼は、3歳のときに父を失い、叔父にあずけられた。幼いころから隠遁(いんとん)生活の召命を感じ、14歳になると村はずれの洞くつに隠遁し、祈りに専念した。今日この場所は「聖なる洞くつ」と呼ばれている。当時は隠修士の生活には23歳にならなければ入ることができなかった。そのため、レバノンのマロニータ修道会の修練院に入ったのは、彼が23歳になった1851年であった。ここで、シャーベルは殉教者サルベルの名をもらい、1859年に司祭に叙階された。

 シャーベルは、1875年には隠遁生活を始める許可が与えられ、祈りと犠牲をもって、人々が神にたちかえるように祈り続けた。

 1898年12月16日、ミサの最中に発作が起こり、8日間の苦しみの後24日に亡くなった。数カ月後、彼の墓が開かれたが、その遺体は腐敗していなかった。さらに1950年と1952年にも、彼の墓は開かれたが、彼の体は、生きているようだった。そしてシャーベルは、短時間に、600の奇跡をおこした。

 1965年12月5日、シャーベルはパウロ6世によって、第二バチカン公会議の教父たち全員の前で列福された。そして、パウロ6世は、彼を1977年10月9日、列聖した。


◆八つ当たりはよくない

2016年07月24日 13時13分59秒 | 聖書

人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。
しかもその心は主に向かって激しく怒る。(箴言一九3)
 
愚かな者は八つ当たりをする。八つ当たりはよくない。八つ当たりは生活を滅ぼすと、聖書は言います。
お母さんが、自分の言うとおりに好きな物を買ってくれないといって、だだをこね、お勝手の冷蔵庫をなぐったりけったりし、しまいには自分の頭までぶつけていた小さな子を見ました。プロレスの頭突きのまねでもしていたのでしょう。自分の思うとおりにならないと、夫や妻や、親や兄弟や、職場の部下や同僚に八つ当たりする人は、人間として成長していない人です。白髪になっても成長がなく、幼児のように八つ当たりをする人があります。
自分のためだけに世界があると思い、何でも自分第一、自分の欲望を第一にする精神的幼児は、思うとおりにならないと怒りいらだち、責任転嫁をします。こんな八つ当たりの生き方を続けると、第一に、友を失います。第二に、恵み(愛とか喜びとか平和)とかけがえのない人生の祝福を失います。第三に、チャンスを失います。忍耐深く冷静に臨めば前よりもっとよいチャンスがつかめるのに、八つ当たりで失敗に終わります。第四に、自分で自分の生活のリズムを失い、生活が乱れます。結局、八つ当たりは、愛に満ち恵みに満ち、いつも変わらず一人一人によくしてくださる神に対する反逆、つまり罪なのです。
考えてみると、罪を犯し神を離れた人間の歴史は、責任転嫁の歴史でした。自分が悪いのに人のせいにし、神のせいにしてきました。エバは、自分の欲心のせいなのに蛇のせいにし、アダムも、自分の責任なのにエバのせいにしました。悪循環です。
神は、いつも同じです。公正で恵みに満ちています。時間をかけて自分を反省し、時間をかけて忍耐強く待ち望む時、必ず祝福が来るのです。
 
 

◆しっかり立って、

2016年07月24日 13時13分20秒 | 聖書
きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。(出エジプト一四・一三)
 
このみことばは、窮境に陥り進退きわまった信者に与えられる神のご命令である。彼は退くことも進むこともできず、左右共に閉ざされている。どうすればよいのか。主は彼に「しっかり立って」と言われる。
このような場合、多くの怪しい忠告者がいろいろな意見をもち込んでくるであろうが、彼はただ主のみことばのみに耳を傾ければよい。失望はささやくであろう。「そこで倒れて死ね。すべてをあきらめよ」と。しかし神は、私たちが勇気を奮い起こし、最悪の事態になってもなお、神の愛と真実とを喜ぶことをお望みになる。臆病は言う。「退け。俗人の行動に戻れ。おまえはクリスチャンとして生きることはできない。あまりにも難しすぎる。おまえの道を捨てよ」と。しかし、どんなにサタンがあなたをそのような邪道に陥れようとしても、あなたが神の子であるならば、それに従うことはできない。神はあなたに向かって、力から力ヘと進むことを命じておられる。ゆえにあなたはまっすぐに前進せよ。そうすれば死も地款も、あなたをその進路からそらせることはできないであろう。
しかし、あなたはしばらく立ち止まることも命じられる。新しく力を得、時が来て、さらに大躍進を遂げるためである。性急は叫ぶ。「何かしろ。奮い立て。じっと立ち止まって待つのは怠惰だ」と。私たちは何かをしなければならないと考える。そして主を見上げることをしない。主は何かをされるというだけでなく、すべてのことをなされるお方である。自負は大言壮語する。「もしあなたの前に海があれば、飛び込んで奇蹟を待て」と。しかし信仰は、自負にも失望にも臆病にも性急にも耳を傾けず、「しっかり立って」との神の御声に耳を傾け、岩のようにゆるぎなく立つ。
「しっかり立って」――まっすぐに立ち、ただちに行動に移れるように準備し、続いて下る命令に備えよ。忍耐強く導きの声を待て。そうすればまもなく神は、モーセがイスラエル人に言ったようにはっきりと、あなたに「進んで行け」と言われるであろう。
 
 

ネヘミヤ記13章4-9節

2016年07月24日 13時11分54秒 | 聖書


13:8 私は大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し、
13:9 命じて、その部屋をきよめさせた。そして、私は、神の宮の器物を、穀物
のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めた。



 ネヘミヤが一時バビロンに行っていた時、祭司エリアシブは、神殿の中にあるレビ人や祭司たちのための奉納物が保管されていた大きな部屋を、トビヤと親しい関係にあったために、彼に明け渡してしまいました。

ネヘミヤは帰国してからその事実を知り、そのトビヤの家族の器具を皆排除し、清めて、改めてレビ人や祭司たちののための部屋としました。

そしてそこに、レビ人や祭司たちにのために献げられたものを入れ、それを保管する部屋としました。

彼らのために用いる部屋としたのです。 
 ネヘミヤは、自分の個人的な関係から、主の働きのために用いられるべきものを、勝手に変更したことを怒りました。

主に献げられたものは、主と主の働きの為に用いられるべきことを、彼は示したのです。



詩篇58篇11節(コリント人への手紙第一14章)

2016年07月24日 13時09分40秒 | 聖書


★こうして人々は言おう。
「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」

■O:今日のコラム
ここの箇所で、正しい者には、報いがあるとあります。また、さばく神を恐れることもありません。

私たちは、神様の前にいつも裸の状態です。何一つとして、隠せるものはありません。どんなに取り繕っても、また、人の前でよく見られたとしても、神様は全てお見通しです。。。
私たちがさばきを恐れるとき、私たちは主のみことばからズレているときです。
日々の歩みの中で、この正しい者のように、さばきを慕い、主の報いに期待する者になりたいと願います。
今の、終わりの時代、

「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録22:11)

終わりの時代、この2つの生き方しかありません。どちらの生き方をして、主と会いたいでしょうか?

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(黙示録22:12)

私たちは、主のさばきから逃れることはできません。そうであるなら、私はイエス様を恐れて待ちたくありません。イエス様のさばきを恋い慕って、期待して待ちたいです。
今一度、日々の歩みを点検していきたいと思います。主のみことばの基準からズレているところ、主に見られたくない私たちの言動。。真実な悔い改めをもって、主のみことばの基準に方向転換していきましょう。
また、熱心に聖霊様、みことば、血潮によって、聖められ続けることを求め、取り組んでいきましょう。
主は必ず、私たちに豊かな報いを携えて迎えに来てくれます!




■A:考えてみよう
主のさばきを恐れてしまう、私たちの言動はあるでしょうか?

「わたしのたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」(詩編119:20)

主の前に正直に出て行き、悔い改め、主の血潮の聖めを受け取っていきましょう。

■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月23日(土)のつぶやき

2016年07月24日 01時36分26秒 | キリスト教