座間コミニティー

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◆神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

2016年07月27日 17時46分13秒 | 聖書
(ローマ八・三三)
 
これは最も尊い挑戦である。これに答えることはできない。選ばれた者のすべての罪は、彼らの救いの偉大な擁護者の上に置かれ、贖いのわざによって取り去られた。そしてもはや神の記録の書には、神の民の罪は一つも記されていない。神はヤコブに罪を見ず、イスラエルに悪を見られない。彼らは、キリストにあって永遠に義とされている。
罪が取り去られる時、罪の罰も除かれる。クリスチャンに対して、神の怒りの御手から打撃が加えられることはもはやない。信者は、父なる神によって懲らしめられるかもしれない。しかし審判者である神はクリスチャンに対して、「わたしはあなたを赦した。あなたは無罪放免だ」としか言われない。クリスチャンにとって、罪の罰としてのこの世における死も第二の死も存在しない。
彼は罪から解放されるとともに、罪の罰からも完全に自由にされる。そして、罪の力もまた取り除かれる。罪は私たちの前に立ちふさがり、絶えず戦いを挑んで私たちを動揺させるかもしれない。しかし罪は、イエスと結合されたすべてのたましいにとっては征服された敵である。クリスチャンがもし神により頼むならば、打ち勝つことのできない罪は一つもない。天において白い衣をまとっている人たちは、小羊の血によって打ち勝ったのであり、私たちも同様に勝つことができるのである。どのような肉欲も強すぎることはなく、どれほどつきまとう罪も振り落とせないものはない。私たちはキリストの御力によって打ち勝つことができる。
クリスチャンよ。これを信ぜよ。あなたの罪の判決は終わった。もがくことがあるかもしれないが、罪の死は定まっている。神はその額にすでに罪の宣告を書き記された。キリストは、それを十字架につけられた。「十字架につけてしまったのです」と記されている。行け。そして罪を克服せよ。主があなたを助け、主を賛美するために生きさせてくださるように。なぜなら、罪はそのすべての咎と恥と恐れとともに去ってしまったからである。
 
 

「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、

2016年07月27日 17時45分20秒 | 聖書

その人は高慢になっており…そこから、ねたみ、争いが生じ」(Ⅰテモテ6:3)

高慢とは、御言葉によると、神のことばに同意しないことだ。
御言葉を自分の思いで水増ししたり、差し引いたりする。
自分に都合が良い箇所は同意するが、都合が悪いと同意しない。

それらをすべて自分が決める。それは御言葉の上に、自分を置くことだ。
自分が御言葉を判断することになる。
神第一、神中心でなく、自分第一、自分中心の状態だ。

ある人が、神を知る以前は、自分の価値を、人に認めてもらうために、自分で高めなければならないと必死だったと証しした。

自分の価値を高める事により、何とか人に認めてもらおうと、いつも平安が無かった。
自分は価値が無いから、価値を何か出来る事でつけなければならなかった。

救われた後、神の愛を知り、このままで愛されている事を知り、自分には全く価値が無いけれど、今、幸せだと。

しかし、クリスチャンであっても、神第一でなく、自分第一なら、自分の価値を自分で高めなければならなくなる。
神に愛され価値を認められている、御言葉を信じないからだ。

だから、そこから妬みや争いが生じる。御言葉の通りだ。
へりくだりとは、御言葉の下に自分を置いて、御言葉に真剣に聞き、自分を御言葉に従わせる人の事だ。
御声を聞いて、自分を砕いて従うことがへりくだりだ。
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御言葉を聞きつつも、自分の価値観を選んでしまう時、やはり心に苦い思いが生じる。
心から御言葉に同意しない、自分のうちにある高慢を認め、悔い改めて行きたい。


今日の聖人の記念日

2016年07月27日 07時51分49秒 | キリスト教

聖パンタレオン

?-305年ごろ

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人々からも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人々や病人、孤児などに与えた。

 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人々を信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。


ネヘミヤ記13章19-22節

2016年07月27日 07時49分56秒 | 聖書


13:22 私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。



 ネヘミヤは、人々が安息日を守るために、配慮をしました。

それは、異邦人たちが商売のために安息日に町に入ってくることを、防ぐためでした。

このために入ることができなかった異邦人たちは、安息日に城壁の前で夜を過ごすということもありました。

ネヘミヤはそうした行為をも責めて、なぜ安息日を無為にしようとするのかと問いただして、安息日を守ることを妨害するような在り方から、彼らを排除するようにしました。

 こうしてネヘミヤは、民が主を覚え、またその結果、安息日を心おきなく主を礼拝する日として守ることができるように、整えたのです。

ネヘミヤは、仕事や商売の大事さを無視したわけではありません。

しかし、そうした日常の歩みも、主を第一にすることから始まることを示したのです。


◆妻をめとらば

2016年07月27日 07時47分46秒 | 聖書

家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は主からのもの。    (箴言一九14)
 
日本人に生まれるのも、男や女に生まれるのも、貧乏人や財産家に生まれるのも、頭がよく生まれるのも、ハンサムに生まれるのも、人間にはすべて選択がききません。神のおぼしめしのままです。ところが結婚は、人間にできる大きな選択のチャンスです。ですから、大いに心して結婚相手を選び、結婚がなされなければなりません。
箴言にも、けんかと争いの絶えない妻といっしょに暮らすのは、雨もりの家に住むようだと言っています(一九13)。立っていても座っていても、仕事をしていても眠っていても、その不運から逃れられないのです。また聖書は、そんな妻といっしょに住むより、屋根の片すみに住み、荒野にひとり住むほうがましだとも言っています(箴言二一9、19)。逆にいえば、思慮深い妻を得た者の人生は祝福です。
ところで聖書は、この自由選択できると考えられる妻についても、「思慮深い妻は主からのもの」と語ります。この「主からのもの」ということばは、もとの文では非常に強調されています。人間は、容貌とか、財産・門地・学歴などで配偶者を選んでいるかもしれません。しかし、やはり神が、最もよい適当な配偶者を与えてくださるのです。アブラハムは息子の妻を捜した時、ひたすら神に祈り、財産や門地や容貌ではなく、神の導く人を求めました。そして息子のイサクも、この問題を自分の判断や欲求に任せたのでなく、ひたすら神から待ち望んだのです。配偶者について、そのように神に伺い、神の目にかなった人を神に従ってめとるという態度をとるべきことを知りましょう。
もうおそすぎると言わないでください。ご自分の息子娘たちのために、ほんとうに虚心坦懐に神の前に出て、よりたのむべきではないでしょうか。
 
 

◆尊い、

2016年07月27日 07時47分00秒 | 聖書
すばらしい約束が私たちに与えられました。(Ⅱペテロ一・四)
 
もしあなたが実際に神の御約束の尊さを知り、心にそれを楽しみたいと願うならば、神の御約束を熟考せよ。御約束は酒ぶねの中のぶどうのようだ。それを踏めば果汁が流れ出る。聖なるみことばをくり返し熟考することは、しばしばその成就への序曲となる。御約束を思い巡らすうちに、あなたの求める恵みが、知らぬうちにあなたを訪れる。多くのクリスチャンが御約束を探して聖書を熟読しているうちに、御約束を保証する恵みがいつしかたましいの内部に浸透してくるのを経験した。そして彼らは御約束を心の近くに置くように導かれたのを喜んだ。
しかし、御約束を静思するだけでなく、それを神のみことばとしてたましいに受け入れなければならない。そしてたましいにこのように言え。「もし私が人と約束するならば、相手の能力、品性を注意深く考える。神の御約束についても同様である。私は恵みの偉大さに目を見張ってはならない――その結果よろめくかもしれない。むしろ約束した方の偉大さに目を留めなければならない。そうすれば勇気が与えられるであろう。私のたましいよ。おまえに語りかけておられるのは神であり、おまえ自身の神、偽りを言うことのできない神なのだ。おまえが今考えている神のみことばは、神の存在が真実であるように真実なのだ。神は変わることのない方である。一度言われたことを取り消されたことはなく、慰めのみことばのただ一つでも撤回されたことはない。また力において欠けているところはない。おまえにこのように語っておられるのは、天地を造られた神である。神はまた知恵において欠けておられない。恵みを与える時期を誤ることもなさらない。神は恵みを与えるべき時と、保留すべき時とを知っておられる。したがって、御約束が真実不変な全知全能の神のみことばであるのを見る時、私は御約束を信じるのであり、また信じなければならないのだ」と。
私たちがこのように御約束を黙想し、御約束の与え主に思いをいたすならば、その御約束の美しさを経験し、その成就を得るであろう。
 
 

1テサロニケ1章5~6節

2016年07月27日 07時45分01秒 | 聖書


★なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。


■O:今日のコラム
この箇所には私達が心に覚えるべき重要な霊的歩みが記されています。まず第一に福音宣教は聖霊の力によりなされるという事です。もちろんまだ主を知らない人々がわかり易い様に福音を伝え、説明するのは大切です。しかし、どれだけ頭で理解し、納得したからといって人が救われるわけではありません。聖書に

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(1コリント12:3b)

と記されているように、人が救われるのは聖霊の業によるのです。パウロがテサロニケに福音が宣べ伝えられたのは「ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」と言っているように、私達も日々聖霊の力を新たに受けて、置かれた場所で福音の証人となろうではありませんか。

現在、聖霊の力の顕れによる福音宣教は全世界で行なわれ、病人が癒され、死人が蘇り、あらゆる奇跡としるしと不思議によって人々が主イエスのもとに導かれています。しかし、それと同時に、ある意味この様な力の働きは華やかで目立つ働きとなる場合があり、時には大きな働きをしている器達の内に、数々の不正や問題、罪の行いが浮き彫りになり、人々の内に混乱をもたらし、力ある働きに対しても不信感を与え、さらに人々が主イエスのもとに来るつまずきの石となってしまう場合もあります。

それなので、聖霊の力ある働きには、もう一つの側面が重要となります。それは「御霊の実による振る舞い」別の言葉で言うなら「御霊の実に基づく生き方」を持つ事です。パウロはテサロニケで聖霊の力ある働きがなされたと同時に、その後に「また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」と述べています。

御霊の賜物と、御霊の実が共に働く時、私達は力強く真実なキリストの証人として生きる事が出来ます。全ての目標とすべき模範はイエス様ご自身です。イエス様がどの様な力ある業を行い、またどの様に大きな愛を持って人々と関わっていたか、その歩みを知り、私達もその足跡を従って行く事が出来る様に、日々、福音書を朗読し、イエス様に目を留め続けましょう。


■A:考えてみよう
4つの福音書を継続的に朗読するプランを立てて、日々それを続けて行きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月26日(火)のつぶやき

2016年07月27日 01時35分40秒 | キリスト教