座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆天の御国……。

2016年07月12日 16時54分24秒 | 聖書
(Ⅱテモテ四・一八)
 
かしこにある偉大な王の都は、積極的な奉仕の場所である。贖われたたましいたちは昼も夜も神殿で王に仕え、彼らは王の喜びを満たし続けるのである。心労がなく、彼らは常に「安息」を得ている。しかし、怠惰、不活動などの面では決して安息していない。
黄金のエルサレムは、すべての神の民との交わりの場所である。私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブとともに座して、永遠の交わりをもつ。選ばれた高貴な人々の群れに加わって、歓談が尽きない。彼らは、主の愛と力強い御腕により、安全に天の家に連れ帰られた人々であり、主とともに統治する。私たちは独唱ではなく、合唱によって主を賛美するであろう。
御国は、勝利が実現された場所である。信者よ。あなたが自分の肉欲に勝利を得た時――激しい戦いの後、誘惑を自分の足下に殺した時――あなたは、あなたを愛してくださる主によって圧倒的な勝利者となる時に与えられる喜びを、すでにいくぶんか味わったのである。
天国は、安全な場所である。あなたが信仰の十分な確信に喜ぶ時、天のエルサレムで完全な市民となる時にあなたのものとなる輝かしい安全の保証を、あなたはもつのである。
私の故郷、エルサレムよ。私の幸いな港よ! そこを慕うことを愛によって教えてくださった神に、今から感謝しなければならない。しかし、そこを私が所有する時、さらに高らかに永遠の感謝をささげる。
 愛する私の主が守っておられ
 あらゆる房が実る所に
 行きたいと思う
 真の生けるぶどうに
 私の飢えたたましいは満ち足り
 神のくだものの宴にあずかって
 とこしえの客である私は
 喜びに満たされる
 
 

「しかしふたりの目はさえぎられていて、

2016年07月12日 16時53分24秒 | 聖書

イエスだとはわからなかった」(ルカ24:16)

失望落胆に捕らわれている時、主が見えなくなる。
経験するところだ。エマオ途上の弟子たちは、失望、絶望、落胆の中にいた。

ローマ帝国をくつがえして、地上に王国を建て、主が支配されるはずだったのに、一番残酷で惨めで、無残、辱めの十字架刑で死んでしまわれた。

自分たちの思いの対極だ。自分たちの希望、期待、喜びが見事に砕け散ってしまった。
失望と空虚しかなかった。

信仰の目がふさがれ、さえぎられ、不信仰に陥っていた。
私たちも思い通りにならない時、自分の思いと全く異なる現実を突き付けられる時、受け入れる事ができない。
主と自分の間が遮断されてしまう。

目の前の問題だらけの状況が苦しくて、別の職場を求めている時に「忍耐しなさい、今の場でなければ得られない学びがある」と言われるなら、嬉しくない。

非常なる経済的困窮の中で、「わたしに頼ることを学ばせるため」と言われても辛いものがある。

目がさえぎられ失望落胆の不信仰にいた弟子たちが、心が燃やされ、喜びに溢れ、もと来た道を大至急引き返して行った。

どう変えられたのか。
主の語られる御言葉に耳を傾けて行った時に、「信仰」がよみがえった。私たちも現実が全く思い通りでなく厳しくとも、目に見えるところでなく「信仰によって」歩める。

その信仰は、今の状況がどうであれ、最善をして下さると堅く信じさせてくれる。
---------------------------
心をふさぎ 目をさえぎっているものから、目覚めさせてくれるものは勝利の御言葉だ。
朝ごとに御言葉から出発し、事あるごとに御言葉に帰ろう。


今日の聖人の記念日

2016年07月12日 06時59分19秒 | キリスト教

聖ヨハネ・グアルベルト

995年ごろ-1073年

 ヨハネは、イタリアのフィレンツェの貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。ある日、貴族同士のいざこざで兄が殺され、ヨハネは復讐を決意してその機会を狙っていた。とうとうチャンスが訪れたが、相手の懇願に胸を打たれ、赦したのであった。
 そして、彼は生涯を神にささげようと、サンミニアートの修道院に入り、修行に専心した。より簡素な生活を求め、聖ロムアルドが創立したカマルドリ会でしばらく生活したのち、ヴァンブローサの山奥にこもって修行した。彼の徳を慕って集まって来る人びとのために、1038年に修道院を創立。聖ベネディクトの会則に基づいた生活を送り、貧しい人々や病人の世話をし、また訪れる客を快くもてなした。

 彼の生涯は、言い伝えによるものであり、正確な年代はわかっていない。


◆わいて流れる知恵の泉

2016年07月12日 06時58分05秒 | 聖書

人の口のことばは深い水のようだ。
知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(箴言一八4)
 
地下深く流れる地下水が、わき出る泉となって人の渇きをいやすように、知恵のある人の語ることばは、人の心をいやし、力づけます。
学生時代に私は、毎夏、親友と野山を歩きまわりました。がけの下にわく小さな泉や谷底を流れる清らかなせせらぎで、のどをうるおした時、生き返るような思いがしました。パレスチナ地方を旅行した時も、石がごろごろした荒涼たる荒地の真ん中に井戸があって、ベドウィンの女たちが、羊の群れに水を飲ませている姿を見ました。
私たちの語ることばが、そんな深い水のように、わいて流れる川のように、人の心をうるおし、生かし、いやすことができたら、何と幸いでしょう。しかしそれとは反対に、私たちの語ったことばが愛する家族や親しい友人を傷つけたり、職場やご近所や学校で、争いや憎しみのもととなったりすることが、あまりにも多いのです。
一つの泉から、苦い水が出たり甘い水が出たりはしないと聖書に書いてあります(ヤコブ三11参照)。心そのものが、きよい、いのちの水の泉とならなければ、ただ、ことばを飾ってみてもむだでしょう。
イエス・キリストの言われたことばをお聞きください。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(七37―38)。キリストのまことのことばを、心を開いて、心の奥底に受け入れてごらんなさい。それが泉となるのです。
 
 

◆父なる神にあってきよめられ……。(ユダ一節英訳)

2016年07月12日 06時57分16秒 | 聖書
 
 
◆キリスト・イエスにあって聖なるものとされた……。(Ⅰコリント一・二)
 
◆御霊の聖めによって……。(Ⅰペテロ一・二)
 
すべての恵みのわざにおいて、三位一体の神が共に働かれることに注意せよ。三位一体の人格に甲乙をつけ、イエスは愛と恵みの化身であり、父なる神は厳しい義なる方であるが親切さに欠けているなどと考えるのは、なんと思慮のないことであろう。また父なる神のみこころと子なる神の贖いのみを見て、聖霊の働きを軽んずるのも、同様に誤った考え方である。
恵みを施すのに、三位一体の位格のいずれも、他の二つの位格と離れて働くことはない。三位格はその本質において一つであるが、同様にその行いにおいても結合している。また三位格は選ばれた者への愛においても一つである。そして愛という大いなる本源より流れ出る活動において、三位は不可分である。これが特に聖めの働きにおいてそうであることに留意せよ。
聖めは聖霊の働きである。しかし、父と子がそれに関与されないと考えないよう注意せよ。聖めは御父の働きであり、御子の働きであり、聖霊の働きであるというのが正しい。主なる神は今も「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と言われる。だから「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」のである。
真の聖めを神がどれほど重視されるかを見よ。三位一体の三位格は「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」教会を作り出すために、協力をされるのである。そして信徒であるあなたも、キリストに従う者として聖めを尊び、純潔な生活を営み、敬虔なことばを語るように注意しなければならない。キリストの血をあなたの希望の基礎として尊重せよ。そして光の中にある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とされた御霊の働きを、決して軽んじてはならない。
私たちは三位一体の神の働きを身をもって現そう。
 
 

ネヘミヤ書11章10-14節

2016年07月12日 06時55分59秒 | 聖書


11:10 祭司のうちでは、エホヤリブの子エダヤと、ヤキン、
11:11 神の宮のつかさセラヤであった。このセラヤはヒルキヤの子、順次さかのぼって、メシュラムの子、ツァドクの子、メラヨテの子、アヒトブの子である。



 部族的にはユダ族とベニヤミン族が、エルサレムの町に住み込んだ人の内で多い部族でした。

その他では、祭司の集団とレビ人の集団が多く住みました。

これは、この町に神の宮である神殿があり、そこで奉仕をする人々がたくさん必要であったからです。

彼らも当初は、自分たちのために定められた地や町に住んでいました。

しかし、この町の働きを考えて、それぞれ心のある人々が、エルサレムの町に移り住んできたようです。

この方が、主への働きに対して、よく備えができるからでした。

 またここには、彼らのために頭たちがいたということが語られています。

つまり、そこに住んで生活をするためには規則が必要ですので、それを作ってそこに責任者を置き、日常の生活を平穏に過ごして、互いに良き歩みができるようにしたのです。


詩篇47篇1~10節

2016年07月12日 06時48分38秒 | 聖書


★指揮者のために。コラの子たちの賛歌
すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ
神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。
まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。


コリント人への手紙第一3章11,16,23節
★というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
★あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
★そして、あなたがだはキリストのものであり、キリストは神のものです。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!7月12日の朝です。今日一日も、主を賛美していきましょう。詩篇を朗読していきましょう。そして、イエス様の土台の上に、聖霊様に神殿を建てていただきましょう。僕らは、主のもの、天のお父さんの子どもだからです。

すべての国々の民は、主を賛美していきましょう。すべての国々の民は、主の恵みによって、異邦人でも主の救いにあずかり、神様の民となるからです。「国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。」アブラハムの祝福を受け継ぐ者となることができるのです。

「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」(創世記15章1節)

「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者たちの父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」(ローマ人への手紙4章11~12節)

まだまだたくさんありますが、アブラハムの祝福をぜひ御言葉から受け取っていきましょう。自分に与えられている約束として受け取っていきましょう。

イエス様は、僕らを、この地に来られて買い戻してくださいました。僕らが、天のお父さんのものとなるために、この地で過ごされ、十字架で血潮を流し、復活され、今は天のお父さんの横でとりなしてくださっています。

僕らは、イエス様に土台を据えていきましょう。自分の力ではなく、イエス様の御言葉に力があることを宣言していきましょう。


「いつも喜びにあふれていなさい。  いつも祈りに励みなさい。  どんなことがあっても、感謝を忘れないように。 これこそ、神様が、キリスト・イエスに属するあなたがたに、望んでおられることだからです。  聖霊様の恵みを無にしてはいけません。」(テサロニケ人への第一の手紙 5:16?-?19 JLBhttp://bible.com/83/1th.5.16-19.JLB

僕らは、聖霊様の宮です。聖霊様の力を押し止めてしまってはならないのです。だから、今日、手をたたき、主にほめ歌を歌っていきましょう。地上の盾さえも主のものです。信仰の大盾さえも主から受け取ることができるものです。だから、信仰の大楯をとり、サタンの放つ火矢を消していきましょう。


■A:考えてみよう
主を賛美していきましょう。
詩篇を朗読していきましょう。
御言葉を自分の宣言としていきましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月11日(月)のつぶやき

2016年07月12日 01時35分45秒 | キリスト教