座間コミニティー

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◆彼はいたんだ葦を折ることもなく、

2016年07月19日 15時52分27秒 | 聖書
くすぶる燈心を消すこともない……。(マタイ一二・二〇)
 
いたんだ葦やくすぶる燈心より弱いものがあるだろうか。沼地や湿地に生えている一本の葦は、野がもがその上におりただけで折れてしまう。人の足がそれを踏んだだけでつぶれてしまう。その一本の葦は、風に大きく揺れる。およそ、いたんだ葦ほどもろいものはなく、その存在ほど危険にさらされているものはない。次にくすぶる燈心を見よ。それは何であろうか。その中に火種がある。しかし、それは今にも消えそうである。幼児の息でさえそれを吹き消すことができるだろう。その炎ほど不安定なものはない。ここに記されているのは、どちらも弱いものである。しかし、イエスはそれについて言われた。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と。
神の子たちのうちのある者は、神のために大きな働きをなすために強く造られている。神はガザの門を引き抜いて山の頂まで運ぶことのできるサムソンのような人を、所々に備えておられる。神は少数の獅子のような力強い民をもっておられる。しかし神の民のほとんどは、小心で気の弱い人々である。彼らはむく鳥のようで、人が通るたびにおびえる。誘惑が来れば、彼らは小鳥のようにわなに捕えられる。試練に脅かされると、彼らはたちまち落胆する。彼らはあたかも波にもてあそばれる小舟のようであり、波に浮かぶかもめのように押し流される。力も知恵も先見もなく、弱い。しかし、この上もない弱さのゆえに、彼らには特にこの約束が与えられている。
ここに恵みがある。そしてあわれみがある! ここに愛といつくしみがある! イエスの柔和な、優しい、思慮深い同情が私たちに開かれている。私たちは、主に触れられるのを避ける必要はいささかもない。また、主の激しいおことばを恐れる必要もない。なぜなら、主は私たちの弱さを大いに励まされることがあっても、決して責められることはないからである。いたんだ葦は決して主によって折られることはなく、くすぶる燈心は決して主から遠ざけられることはないのである。
 
 

「ねたみや敵対心のあるところには、

2016年07月19日 15時51分31秒 | 聖書

秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」(ヤコブ3:16)

あるベテラン社員が、いつも周囲に仕事を教えていた。
多忙な中の事であり、負担であった。そこへ専門知識を持つ新人が入って来た。

周囲の人々が段々、よく知っている彼に聞くようになった。
最初は、荷が軽くなって喜んだ。ところがいつしか自分の心に妬みが生じている事に気づかされた。

皆が彼のところへ行き、彼に注目が集まる事を妬んでいた。
自分の方がベテランなのになぜ?なぜ突然彼が自分より優位に立つのか?
嫉妬と憎しみが湧き、苦々しい思いに苦しんだ。

妬みや敵対心は、神からのものでなく、肉であり、悪霊からのものだ。
この思いを祈りにより神のもとへ持って行った。

御前で心を静めて、祈りの中で、心を探って行った。
なぜ妬むのか?敵対心を持つのか?
心の奥の奥を探って行くと、人が皆、彼の方へ行き、自分から離れて行ってしまう事を「恐れている」自分がいた。

もう自分は全く誰からも、必要とされなくなるのではないか。
彼がそれを奪ってしまった。それが憎しみになっていた。恐れに飲み込まれていた。

主の御前に自らの罪を悔い改めて、主に委ねた。
彼と良い関係が持てるように祈った。
あなたも心の奥に妬みや憎しみが潜んでいるだろうか。恐れがあるだろうか。
主に打ち明け、委ねて行こう。解き放って下さる。
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自己中心の肉により感情がアップダウンする。
起きるたびに、気持ちにふたをせず一つ一つ御前に持っていこう。
妬みや嫉妬が自分にはあると気づける時、そこに神様が臨まれる。


◆小さな贈り物

2016年07月19日 06時41分35秒 | 聖書

人の贈り物はその人のために道を開き、
高貴な人の前にも彼を導く。    (箴言一八16)
 
この贈り物(ヘブル語でマッターン)は、他の箇所に出てくる贈り物と違ってわいろではありません。よい意味の贈り物です。確かに、心のこもった小さな贈り物が、不思議な働きをすることは事実です。
一九七九年の十月に、私は、新潟市民クルセードの集まりに講師として招かれました。二晩目のことでした。一人の中学生の女の子が私に会いに来ました。「先生、お話ありがとう。私、これあげるわ」とさし出したものは、四センチ角ぐらいの手づくりの紙の箱で、かわいらしく色が塗ってあったのです。「私、あすの晩、お母さんもこのクルセードに連れてくるわ」とその女の子は話しました。その夜、何だろうかと興味をもって、その箱を開けてみると、キャンデーが三粒入っていました。
次の晩、私のほうからその女子中学生を捜し出してお礼を言いました。お母さんを連れていたその子は、「先生、お母さんも神さまを信じて幸せになってもらいたいわ」と言います。私は座りこんで、そのお母さんに話をしました。今はそのお母さんも神を信じて、喜んで教会に通い、聖書を読み、いっしょにお祈りをしているそうです。
私は長い間、その小さな贈り物を机の上に飾っておきました。その小さな贈り物ほど、私は心をひかれたものはありません。
私は、それにつけても思うのです。くだけきった魂、信じるという口のことば、ありがとうという感謝のことば、――こんな小さな贈り物を持って私たちが神の前に出る時、神の愛の真ん中へ通される道が開かれるのではないでしょうか。そこでは、神を「お父さま」と呼ぶことができます。
神の求めたもうものは、小さな、悔いたくだけた心、信じる心、感謝する心なのです。
 
 

◆私たちの神、主は、

2016年07月19日 06時40分49秒 | 聖書
今、ご自身の栄光……を私たちに示されました。(申命五・二四)
 
神のすべてのみわざの中にある大目的は、ご自身の栄光が現されることである。それ以下の目的はどんなものであっても、ご自身にふさわしくない。しかしどのようにして神の栄光を私たち落伍者に対して現されるのだろう。人の目は澄んでいない。常に自分の名誉に目を走らせ、自分の力を過大評価しがちなため、主の栄光を仰ぐ資格がない。したがって、神が高められる余地を作るためには、自我が退けられなければならない。これは自明のことである。
神がその民を、しばしば窮迫と困難の中に置かれるのは、彼らの愚かさあるいは弱さを知らせ、神が来て彼らを救われる時の栄光を拝するにふさわしくするためである。その生涯が平たんな道である者が主の栄光を見ることはほとんどない。彼は自分をむなしくすることがないため、神の啓示によって満たされるにふさわしくないのである。小川を小舟で旅する者は、暴風雨の際の神についてはほとんど知らない。しかし「大海であきないする者」は「深い海でその奇しいわざを見た」のである。死別、貧困、誘惑、叱責などが大西洋の大波のように寄せてくる時、私たちは自らの弱さを痛感し、主なる神の御力の偉大さを学ぶ。
それゆえ、あなたがもし険しい道に導かれたならば、神に感謝せよ。これがあるために、あなたは神の偉大さといつくしみとを経験することができるのである。あなたの困難は、他の手段では得ることのできない知識の富をあなたに与えてきた。あなたの試練は岩の裂け目であり、主なる神はしもべモーセにされたように、あなたをもその中に立たせ、過ぎていく神の栄光をかいま見ることを得させてくださるのである。
常に繁栄の中にあったならば、あなたは暗黒と無知の中にとどまったことだろう。しかしあなたが困難と戦ったゆえに、あなたに対する神の驚くべき摂理の中にも神の栄光の輝きを拝し得たことを覚えて、神を賛美せよ。
 
 

ネヘミヤ記12章27-30節

2016年07月19日 06時39分35秒 | 聖書


12:27 彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行おうとした。



 ここでは、エルサレムの城壁の奉献式のことが語られています。

奉献式は、それを神様に献げて、神様のご用のために用いられるようにと願う儀式です。

神殿の奉献式もありますが、城壁の奉献式もありました。

この城壁とその内にあるすべてのものが、神様に守られると共に、神様のために用いられますようにという思いを込めてなされた儀式です。

ですから、町の中にはすでにレビ人が住んでいましたが、この式を盛大に行おうために、さらに多くのレビ人を集めました。

それは、彼らにシンバルと十弦の琴と立琴を用いて、感謝の賛美をさせるためでした。

 讃美をするのは、主の御名を褒め称えるためです。

主こそが、誠に讃美を受けるにふさわしい方であられるからです。

世界には沢山の歌があり、また音楽があります。

しかし、主を讃えるための讃美は、特別です。

清さと正しさと愛に満ちた歌です。

その歌を持って、主を褒め称えるのです。


詩篇54篇3,4,6節

2016年07月19日 06時37分32秒 | 聖書


★見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ
★まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。
★私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。

コリント人への手紙第一 10章2~7,16~17,24節

★そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中にある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。

★私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

★だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!7月19日の朝です。今日一日も、主を絶えず目の前に置き、主を見上げていきましょう。僕らは、すぐに悪をむさぼる性質をもつ者だからです。

イエス様の十字架の上で裂かれたからだと血潮によって、僕らは、天のお父さんの子供として買い戻されました。
この世の王パロに対して、モーセさんは、何度も何度も主の言葉を語りました。そして、過越では、子羊の血を鴨居と門柱に塗ることによっていのちを守られました。
エジプトを出る時、紅海の真ん中を通り救われました。僕らは、水によるバプテスマでさらに救いの確信へと導かれました。
御霊の食べ物である御言葉を食べ、御霊の飲み物であるイエス様のいのち溢れる水で心を満たされました。
しかし、僕らの内側にある罪は、常に、主に向かう目に対して、違う方向を向くようにと導こうとしていきます。主を中心としていこうとしているのに、いつの間にか主よりも大切なものをもってしまいます。それが、偶像となります。主の御声を聞くための金の耳飾りからアロンたちは金の子牛を作りました。そこで、「民はすわっては飲み食いし、立っては踊った」のです。(出エジプト記32章6節)

僕らは、イエス様によって救われた者です。イエス様の愛を受け取った者です。だから、イエス様の救いの喜びを味わっていきたいです。イエス様の愛に応えていきたいです。イエス様が先に僕らのためにご自身の全てをかけて大切にしてくださったからです。

にもかかわらず、ということが起きないようにしていきたいです。だから、イエス様の血潮とからだを象徴する聖餐を大切にしていきたいです。聖餐式によって、常にイエス様を目の前に置くことを意識していきたいです。

だから、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝し、聖霊様を求めていきましょう。天のお父さんの御名をあがめていきましょう。神様の御国とその義とを第一に求めていきましょう。

そうするならば、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけることができるのだと思います。主を中心として見ていくならば、自分に与えられているすべての祝福を受け取っていけるので、その祝福を流し出していくことができるのです。

今日一日も、主の御名を賛美し、目の前に主を置いていきましょう。


■A:考えてみよう
主を賛美していきましょう。
詩篇を朗読していきましょう。
自分の宣言としていきましょう。
主の御声を聞く耳を求めていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月18日(月)のつぶやき

2016年07月19日 01時32分58秒 | キリスト教