座間コミニティー

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◆あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。

2016年07月16日 18時05分48秒 | 聖書
今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。(詩篇一〇二・一三、一四)
 
苦難にある利己主義者を慰めることは、非常に難しい。彼の慰めの泉はすべて彼のうちにあるため、彼が悲しむ時、その泉のすべてがかれてしまうからである。しかし、人を広く愛する心の大きなクリスチャンは、自己のうちにある泉のほかに、自らに慰めをもたらす他の泉をもつ。したがって、彼はまず神に行くことができる。そしてそこで豊かな慰めを見いだす。彼は、この世界に関して、彼自身の国に対して、ことに教会に関して慰めとなる論証を見いだすことができる。
ダビデはこの詩を書いた時、大きな悲しみの中に沈んでいた。彼は言う。「私は……廃墟のふくろうのようになっています。私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました」と。彼が自らを慰め得た唯一の道は、神が立ってシオンをあわれまれるという思いであった。彼は悲しんでいた。しかしシオンは栄える。彼は打ち倒されていた。しかしシオンは立ち上がる。
クリスチャンよ。あなたの主がこの上なく愛されたものを、あなたもすべてにまさって愛すべきではないか。たとえあなたの道が暗くても、主の十字架の勝利と主の真理を伝えることによって、あなたの心を喜ばせることができないだろうか。私たちは、神がシオンのためにこれまでなされたこと、現在しておられることだけでなく、これから主の教会のためになされる輝かしい事を眺める時、個人的悩みを打ち忘れる。
信者よ。これを試みよ。あなたが悲しみのうちにあり、心が重い時は、いつでもあなた自身を忘れ、あなたの小さな心配事を忘れよ。そしてシオンの繁栄を求めるがよい。あなたが祈る時、あなたの訴えを自分の生活の狭い範囲に制限せず、困難ではあるが、教会の隆盛のために切なる祈りをささげよ。「エルサレムの平和のために祈れ。」そうすれば、あなた自身のたましいは力づけられるであろう。
 
 

『サムエルは…何も隠さなかった。エリは言った。

2016年07月16日 18時03分51秒 | 聖書


「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」』(Ⅰサムエル3:18)

祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、誰かが献げるいけにえを、肉刺しで取り上げ、自分のものとしていた。

人々が脂肪を焼いて煙にして、取るようにと言うと、今渡さなければ、力づくで取ると、献げ物を侮り、主の前に大きな罪を犯していた。

息子達は父エリの言葉も聞く耳持たずであった。やがて主はサムエルに、息子たちの裁きを告げられた。エリはサムエルにそれを話すように告げた。
サムエルからすべての事を聞いた時、エリはその裁きを受け入れた。

何の言い訳も弁解も無かった。妻のせいにし、子供のせいにし、責任転嫁して、自分を正当化する事もなかった。
主からのものと受け取り、へりくだって、主に従おうとしている。

子育てに失敗はしたが、信仰の人であった。
それゆえ、主はエリにサムエルの養育を委ねられた。
エリのその信仰が用いられた。

主の大きな恵みであった。
アブラハムもイサクもヤコブも、モーセもダビデも失敗した。
人は弱さのゆえに失敗する。

しかし、失敗を通して、謙遜にされる。
人は皆、高慢だ。その高慢が砕かれる。
いっぱしと思っていた自分が、どんなに惨めで、無力な者かを思い知らされる。
主はそんな砕かれた器を用いられる。
主は愛する者を懲らしめ、従順な者へと造り変え、造り上げられる。
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神様の前に失敗を隠さず、弱さに正直な自分でいよう。
砕かれた者のうちにまた神様の恵みも満ち溢れ、さらに頼りつつ歩む者に変えて行って下さる。


今日の聖人の記念日

2016年07月16日 08時17分34秒 | キリスト教

 カルメル山の聖母

 

 カルメル山は、イスラエル北部の地中海沿岸を南東に走る、長さ24km、最高峰524mの丘陵である。その美しさは聖書の中でしばしば語られ、神の祝福の象徴として用いられるようになった。(雅歌7.6、イザヤ35.2、エレミヤ50.19、列王上18.17-40、列王下2.25 参照)

 十字軍の時代、キリスト教徒の隠遁者がこの山の洞窟で生活するようになった。13世紀に入ると、彼らは集まって一つの修道家族を作り、エルサレムの総大司教アルベルトが与えた会則を受け入れて、カルメル会が発足した。

 カルメル山からはガリラヤの平原を見渡すことができ、マリアが生活したガリラヤの近くであることから、カルメル会は初めから観想者であるマリアの保護のもとに自分たちを置いた。16世紀の偉大なる2人の教会博士、カルメル会の改革者アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは、カルメル山登攀(とうはん)をボナベントゥラがいう「神に向かう道」のシンボルとした。私たちは、聖母マリアの祈りに支えられて、神秘の山、キリストに近づくことができるのである。


◆聞かない耳・聞く耳

2016年07月16日 08時16分25秒 | 聖書

よく聞かないうちに返事をする者は、
愚かであって、侮辱を受ける。   (箴言一八13)
 
私たちは、人の言うことをよく聞く耳を持っているでしょうか。自分の身近にいる妻や子どもやお年寄りの言うことを、よく聞いてあげていますか。
人のことばや、ことばにならないことばを、じっくり聞こうとしないで耳を閉ざしてしまう人がいます。そんな人は第一に、「おれは聞かないでも何でも分かっている」という自信過剰の人でしょう。実は、何も分かっていないのです。第二に、「そんなむだな、くだらないたわごとは、聞いている暇がない」という、自分のことばかりにかまけている思いやりのない人ではないでしょうか。
私の友人が、こんな話をしてくれました。ある晩、男の人から電話がかかってきました。その人は、くどくどと自分の悩みや困った問題を話し始めました。私の友人は無類の忙しい人ですが、「それから」「はい、それで」と、ただひたすらその人の話を聞いてあげたのです。一時間近くも電話の話は続きました。そして、その人は、おしまいにこう言ったそうです。「先生、今晩はありがとうございました。先生のおっしゃること、よーく分かりました。そのとおりしてみます。先生のお話、ほんとにありがとうございました。」
ノーベル平和賞を受けたインドの聖女マザー・テレサは、「聞く人」だといわれます。病に苦しむ人のベッドの横でじっと耳を傾けるマザー・テレサに、どんなに多くの人が希望と愛を見いだしたか知れません。
私たちは、自分ではどうにもならないことばかりの弱い人間です。神は、聞く耳を持っている方です。神に何でも聞いていただくと共に、神の愛と慰めのひとことを聞きとる耳を持ってこそ、私たちもまた、ほかの人のことばを、よく聞くことができるのではないでしょうか。正しい判断をするばかりか、人を慰め、助けることのできる人になれるでしょう。
 
 

◆彼らは、朝ごとに、

2016年07月16日 08時15分34秒 | 聖書
各自が食べる分だけ、それを集めた。(出エジプト一六・二一)
 
主のみこころに全く信頼し、あなたの最も豊かな楽しみを続けるように努めよ。決して古いマナを食べて暮らすことを望んだり、エジプトに助けを求めるようなことがあってはならない。すべてはイエスから来なければならない。そうでないと、あなたは永遠の滅亡に会う。ずっと以前に油を注がれたからといって、それがあなたの霊を今後も聖別することにはならない。聖所の金の角から新しい油があなたの頭に注がれていなければならない。そうでないと栄光を失う。
今日、あなたは山頂に立っているかもしれない。しかし、あなたをそこに置かれたお方があなたを守られなければ、あなたはまたたく間に堕落してしまう。あなたの山は、神が据えられたからこそ堅固なのである。もし神が御顔を隠されたら、あなたはただちに恐れ惑う。もし救い主が適当と思われるなら、あなたが天の光を見ることのできる窓を一瞬時に全部閉ざしてしまうこともおできになる。ヨシュアは太陽に命じて静止させた。しかしイエスには太陽を暗いやみに包むことも可能である。主はあなたの心の喜び、あなたの目の光、あなたのいのちの力を取り去ることがおできになる。あなたの慰めは主の御手のうちにある。主はいつでもそれを取り去ることができる。
主はこのように、時々刻々神に頼っていることを強く自覚させようとされる。主は私たちに、ただ「日ごとの糧」のためにのみ祈ることを許され、「あなたの力はあなたが日々求めるところに従う」とされた。だから、私たちがしばしば主の御座の前に行き、絶えずその愛を思うのは、私たちにとって最上のことである。ああ、いつくしみの雨は決して降りやまず、祝福の霊は、常に私たちの住まいの上にとどまる。
おお、主イエス様。あなたの御足のもとにぬかずき、あなたなくしては何もできないことを知り、いただいた恵みを感謝し、あなたの御名をたたえて、尽きることのない愛を賛美します。
 
 

ネヘミヤ記12章1-11節

2016年07月16日 08時14分05秒 | 聖書


12:8 また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタヌヤで、マタヌヤはその兄弟たちといっしょに感謝の歌を受け持っていた。



 この箇所には、エルサレムにバビロンから帰ってきた祭司とレビ人、そして大祭司の名前が記されています。

 祭司は、22名の名前が語られ、レビ人は8名の名前があげられています。

また大祭司は、6代にわたる人々の名前が告げられています。

 そしてこのところでは、そのうちのレビ人のことが語られています。

レビ人というのは、祭司を助けて、神殿で祭司が犠牲の供え物を献げる時の、実務的な奉仕に携わった人々です。

また、同時に彼らは、礼拝そのもののための奉仕に仕える働きをした人々でもありました。

ここでは、その当時の働きの1つとして、「マタヌヤはその兄弟たちといっしょに感謝の歌を受け持っていた。」と語られています。

礼拝での賛美の奉仕に携わっていたことを語っているのです。

礼拝というのは、神を拝することです。

ですから、神を賛美するということも重要なことでした。


1コリント6章 17~20節

2016年07月16日 08時11分34秒 | 聖書


★ しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。


■O:今日のコラム
創世記から黙示録までの、主の計画をシンプルに言い表すならそれは「神が私達と共に住む」と言う事です。

アダムの堕落前の時代には、主はエデンの園において人と共に住み、後の時代には祭壇での礼拝を通してご自身をアブラハム、イサク、ヤコブ、信仰の父祖達にあらわされました。
またモーセの時代からは幕屋を通して神がイスラエルと共に住み、ソロモンの時代以降エルサレムの神殿にご自身の住まいを設けられました。

この様に主は全ての時代を通して絶えず人と共に住まわれる事を願っておられるのです。しかし、この主の住まいはイエス様の十字架以降、驚く形に変化をしました。主は特定の場所、神殿に住まわれるのでは無く、主イエス・キリストの血潮を受けた私達、贖われた者達の内に住まわれるのです。

パウロは私達は主の神殿であり、聖霊の宮である事を述べています。それなのでこの宮を聖く保つ事は私達に与えられている重要な責任なのです。

かつて旧約聖書において王や祭司達が主の宮に偶像を運び入れた時には、イスラエルの国全体が荒廃し、暗闇が国を覆いました。
しかし、主の宮が祈りと礼拝で満ち、主の律法が尊重された時にはイスラエル全体が主の好意と祝福を受け、リバイバルを経験しました。

今、私達は主イエスの血潮により王であり祭司とされています。日々私達は、聖霊様の助けにより、私達の内なる宮から高ぶり、怒り、ねたみ、不品行、汚れ・・・。あらゆる偶像を打ち倒して粉々に粉砕し、主だけを礼拝する主の祭壇を建て上げ、御言葉により私達の魂の宮を敵から守る城壁を築き上げて行きましょう。

■A:考えてみよう
御言葉の朗読とひれ伏す礼拝を通して、主の王権に我が内を委ね、今日も我が内の宮に聖霊様と主イエスの血潮による聖めを受けましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月15日(金)のつぶやき

2016年07月16日 01時33分16秒 | キリスト教