座間コミニティー

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◆なぜ私は……

2016年07月21日 16時12分44秒 | 聖書
嘆いて歩くのですか。(詩篇四二・九)
 
信者よ。あなたがなぜ喜びをもたず、しばしば悲嘆にくれるのかがわかるか。なぜ取り越し苦労をするのか。だれがあなたに、いつまでたっても夜は明けないと告げたのか。だれがあなたに、暮らし向きの海は潮が引くばかりで、ついには恐ろしい貧乏の泥土のみが残ると言ったのか。いったいだれが、あなたの不満の冬は霜に閉ざされるばかりで、雪や氷やあられ、さらに深い雪、そしてさらに激しい失望のあらしが来ると言ったのか。あなたは、夜の次には昼が、干潮の次には満潮が、冬の後には春と夏が来ることを知らないのか。それなら、望みをもて! 絶えず望みをもて! 神は決してあなたを見捨てられないからである。
あなたが苦難のただ中にあっても、神はあなたを愛されることを知らないのか。山は暗いやみの中に隠されても、その存在は昼間と少しも変わらない。神の愛も、あなたの繁栄の時と同様に今もあなたに注がれている。いつも子どもを懲らしめる父がいるだろうか。あなたがむちを嫌うようにあなたの主もむちを嫌われる。主はただ、あなたが喜んで受ける理由のあるときにむちを用いようと思われる。あなたに永続的な益をもたらすために、それを用いることを願われる。
あなたは天使とともにヤコブのはしごを上る。そして、その上に座しておられるあなたの契約の神を見る。あなたは永遠の輝きの中にあって、一時の試練を打ち忘れる。また、試練を通してあなたを導き、永久の益を与えられた神をあがめるために、試練を思い出す。それなら、患難のただ中にあって歌え。炉の中を通っていても喜べ。荒野にもばらの花を咲かせよ。砂漠にもあなたの喜びの歌を鳴り響かせよ。これらの軽い患難はただちに終わり、あなたはとこしえに主とともにあり、あなたの喜びは決して衰える時がないからだ。
 気落ちするな、恐れるな
 主は変わられることなく、その御腕は近い
 ただ信ぜよ
 そうすればあなたは知るだろう
 キリストこそ私のすべてだ、と
 
 

「『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』

2016年07月21日 16時11分49秒 | 聖書


すると、すぐさま彼は見えるようになり」(マルコ10:52)

エリコはエルサレムから25キロほどの所だ。主がエリコを出られると、バルテマイが、道ばたに座って物乞いをしていた。

イエスだと聞くと大声で「私をあわれんでください」と叫び始めた。
大勢でたしなめても、止むどころかますます叫び立てた。
この方なら目を開ける事ができると信じたからこそ、叫び続けた。

人目など全く気にしなかった。
主へのその真剣な熱心な求めが、主をしてバルテマイの目を開かせる事になる。

「上着を脱ぎ捨て」上着はガウンみたいなもので、毛布にもなり、敷物にもなり、当時の大切な生活必需品であった。
施し物を受けるために必要で、上着を地面に広げていた事だろう。

大事な商売道具でもあった。その上着を捨てたという事は、絶対に癒されるとの確信を持っていた。

バルテマイは盲人であり、物乞いで生きる一生になるこの現状、このままで仕方のない諦め、このままでいいではないかとの安楽安住、それを捨てた。

そして、信仰をもって、全身で主に拠りすがって、願い求めた。
この方なら絶対に目を開けて下さると。

その通りに目が開かれて、新しい一歩を踏み出した。
それは自分の思い通りの人生を歩み出すのでなく、主の行かれる所について
行き、一生涯を主に献げ、主に従って行くための一歩だった。
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私達の信仰生活も、惰性になったり疲れたりしていないだろうか。
このままで良いと思っていないならバルテマイのように、今までの古いものを捨て去り、主に従う新たな一歩をはじめよう。


今日の聖人の記念日

2016年07月21日 06時22分00秒 | キリスト教

聖ラウレンチオ(プリンディジ)司祭教会博士

1559年-1619年

1559年-1619年 ラウレンチオは、イタリアのプリンディジで生まれた。16歳のときにカプチン会の修道院に入り、パドバで神学を学び司祭となった。当時教会は、宗教改革で揺れ動いていた。教会を立て直すために、ドイツやボヘミアなどで説教し、バイエルン公やマキシミリアノ1世とともにカトリック政策を推進し、人々の信仰を鼓舞した。また彼は、聖書解釈者としても有名であり、多くの著者を残した。


◆死か生か、ひとことで

2016年07月21日 06時21分07秒 | 聖書

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、
そのくちびるによる収穫に満たされる。
死と生は舌に支配される。
どちらかを愛して、人はその実を食べる。(箴言一八20―21)
 
ことばの遊びや、ユーモアに満ちた冗談話も、それはそれとして大切で意味があります。しかし、口から出るたったひとことが人生の明暗や生死をふりわけることがありましょう。わいろを持ってこられて悪い事をたのまれた時、「ノウ」と言うこともできたのに、「ヨッシャ」と言ってしまったことが命取りでした。
ある時、友人のプロポーズに立ち会いました。プロポーズされた女性は、五分間ぐらいだまっていました。それから決心したように、「はい。こんなつまらない私ですが、おことばをお受けします」と言いました。二人は今、すばらしい祝福に満ちた生活をしています。「あのひとことが」と、今でも思い出すのです。
争いや問題の中に巻きこまれた時、自分が悪かったとひとこと「ごめんなさい」と言えば、いやしと平和と喜びがあります。そのひとことが口から出ないために、夫婦別れやけんか別れにまで拡大して、破滅がもたらされたこともありましょう。
元来、ことばは心の産物です。心にあることが、口のことばに出るのですから、根本問題は心にあります。しかし、心とことばが対立して、心のとおりにことばが出ないことがあります。心の底では「自分が悪い。神におわびして、神の言われるとおりにしよう。たよろう、信じよう、従おう」と思うのに、口に出てきません。そこで、うやむやで割りきれないままに、暗やみを歩き続けるのです。
聖書は言います。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ一〇10、13)、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え……」(エレミヤ三三3)。こう言われた神にあなたが祈るひとことが、新しい人生の糸口となるのです。
 
 

◆エルサレムの娘は、

2016年07月21日 06時20分28秒 | 聖書
あなたのうしろで、頭を振る。(イザヤ三七・二二)
 
主のみことばに力づけられて、震えおののいていたあわれなシオンの民は大胆になり、セナケリブの高慢な脅しに対して頭を振った。強い信仰は神のしもべをして、静かな軽蔑の思いをもって高ぶる敵を見下ろさせた。私たちは、敵がおよそ不可能なことをあえて試みようとしているのを知っている。彼らは、イエスが生きている限り滅びることのない永遠のいのちを損なおうとし、ハデスの門も打ち勝つことのできない城を陥れようとしてうかがう。彼らはとげのついている棒をけって自分を傷つけている。主である神の盾に突進して、その鋭い先端で傷を受けている。
私たちは彼らの弱みを知っている。彼らはただの人ではないか。人は何者であるか。虫にすぎないではないか。彼らは海の波のようにわめき、いばりちらし、彼ら自身の恥をあわだてている。主が立ち上がられる時、彼らは風が吹き飛ばすもみがらのように飛び散り、炎の中のいばらのように灰と化す。彼らが神とその真理に対して全く無力であることを知ったので、シオンの最も弱い兵士も彼らを軽蔑して笑うのである。
特に私たちは、いと高き方が共にいてくださるのを知っている。主が武装して立ち上がられる時、だれが敵対できるだろう。もし主が決起されたのなら、地上の陶器の破片はそれの造り主と長く争うことはできない。主の鉄の杖が焼き物の器のように彼らを粉々に砕き、それによって彼らの痕跡すら地上に残らない。
それならすべての恐れを捨てよ。王の手中にある王国は安全である。私たちは喜びの叫びをあげようではないか。なぜなら、主が支配者であり、その敵は肥だめの中のわらにすぎないからである。
 神のみことばは真実だから
 地も、地獄も、その中のすべても
 私たちには勝てない
 確かに、敵は物笑いの種となろう
 神が私たちと共にいまし
 私たちは神のものだからだ
 私たちの勝利は決して揺らがない
 
 

ネヘミヤ記12章38-43節

2016年07月21日 06時18分32秒 | 聖書


12:38 もう一組の聖歌隊は左のほうに進んだ。私は民の半分といっしょに、そのうしろに従った。そして城壁の上を進んで、炉のやぐらの上を通り、広い城壁のところに行き、
12:39 エフライムの門の上を過ぎ、エシャナの門を過ぎ、魚の門と、ハナヌエルのやぐらと、メアのやぐらを過ぎて、羊の門に行った。そして彼らは監視の門で立ち止まった。



 編成されたもう一つの聖歌隊は、城壁の左の方に進みました。

ネヘミヤもこの聖歌隊の後についていきました。

彼らは、城壁に接続している幾つかの門を通り過ぎて、監視の門の所で止まりました。

監視の門は神殿の北側にある門で、門の中でも一番高い所でした。

城を守るための監視の勤めをする人々が、奉仕をした所です。

その所に、両方の側から行進してきた聖歌隊が止まりました。

それぞれの側から、進行中の聖歌隊がタンバリンを鳴らしました。

この町の城壁ができたのは、神の守りと恵みによったことを覚えて、高らかに主を讃え、主に心から感謝をささげ、主を褒め称えたのです。



★詩篇56篇全体

2016年07月21日 06時17分16秒 | 聖書


★第一コリント11章1節
私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

■O:今日のコラム
今、自分の関わっている人の中で、難しい関係にいる方いますか?苦手な人、いらっしゃいますか?
恐れがありますか?戦いがありますか?
詩篇56篇を声に出して読み、それを、自分の今日の祈りとしていきましょう。

ダビデは戦いの中に、また敵に追われる状況にいました。
彼は、敵に対して、面と向かって、復讐、または攻撃することができたと思います。
しかし、彼は、主の中にとどまることを選びました。
そして、主を信頼し、主のみことばに立ち、主の裁きを待ち望みました。

私たちも、いろいろと苦手な人のことを考えすぎずに、主にゆだね、この詩篇を声に出して祈り、主のなされることを待ち望みましょう。

そして、何よりも、イエス様がそのようになさっていたので、私たちは、イエス様にならう者となっていきましょうよ!

パウロは、自分で、私を見ならないなさいと言っていますが、パウロの願いは、私を見習うというより、私がキリストを見ならっているように、皆もキリストを見習ってくださいということです。

イエス様も生きている間、詩篇を口ずさんでいました。それは、ユダヤ人の習慣であるので、彼らは、詩篇を歌に合わせて毎日読んでいました。イエス様は、詩篇のことばを歌い、自分のものとして、いつも読んでいました。そのように、私たちも日々、詩篇を声に出して、読んでいきましょう!!

■A:考えてみよう
イエス様に見習うものとなっていきましょう!!

■P:祈り




イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月20日(水)のつぶやき

2016年07月21日 01時34分20秒 | キリスト教