しかし、私たちは、そのために備えられた救いの手段の大きさを見ることで、罪の膨大さをさらによく知ることができる。それは、神の愛されたひとり子イエス・キリストの血である。神の御子! 天使たちは自らの冠を彼の御前に投げ捨てた。すべての天の合唱隊のシンフォニーは、その栄光の御座をとりまいていた。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」それにもかかわらず、主はしもべのかたちをとられ、むち打たれ、槍で刺され、傷つけられ、引き裂かれ、そしてついに殺された。受肉された神の御子の血潮のほかに、何ものも私たちの罪過を贖うことはできないからである。どんな人も、この神の犠牲の無限の価値を正しく量ることはできない。なぜなら神の民の罪は大きいが、それを取り去る贖いははるかに大きいからである。
信者よ。たとえ罪が黒い洪水のように寄せてきても、そして過去の思い出が苦いものであっても、あなたは大いなる聖い神の輝く御座の前に立って、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と叫ばないであろうか。罪の思い出は信者を恥と悲しみで満たすが、同時にそれは、あわれみの輝きを示す引き立て役となる。罪の暗やみの中に、神の愛の美しい星がきよらかに輝いている。