座間コミニティー

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◆私の不義と罪とはどれほどでしょうか。

2016年07月06日 15時30分26秒 | 聖書
(ヨブ一三・二三)
 
あなたは、神の民の罪がどれほど大きいものかを実際に量り、また考えたことがあるか。あちこちに罪が高山のようにそびえ立っているばかりか、あたかも、昔のおとぎ話で大男が山の上に山を積み重ねるように、あなたの不義も重なりあっていることを発見するだろう。神の子らのうち、最もきよめられた者の生涯でも、どれほど大きな罪の山があることだろう。この一人の罪に、「数えきれぬほどの大ぜいの群衆」と記されている贖われた者の数を乗ずるならば、あなたは、イエスが血を流された人々の罪の巨大さについて、多少とも理解できよう。
しかし、私たちは、そのために備えられた救いの手段の大きさを見ることで、罪の膨大さをさらによく知ることができる。それは、神の愛されたひとり子イエス・キリストの血である。神の御子! 天使たちは自らの冠を彼の御前に投げ捨てた。すべての天の合唱隊のシンフォニーは、その栄光の御座をとりまいていた。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」それにもかかわらず、主はしもべのかたちをとられ、むち打たれ、槍で刺され、傷つけられ、引き裂かれ、そしてついに殺された。受肉された神の御子の血潮のほかに、何ものも私たちの罪過を贖うことはできないからである。どんな人も、この神の犠牲の無限の価値を正しく量ることはできない。なぜなら神の民の罪は大きいが、それを取り去る贖いははるかに大きいからである。
信者よ。たとえ罪が黒い洪水のように寄せてきても、そして過去の思い出が苦いものであっても、あなたは大いなる聖い神の輝く御座の前に立って、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と叫ばないであろうか。罪の思い出は信者を恥と悲しみで満たすが、同時にそれは、あわれみの輝きを示す引き立て役となる。罪の暗やみの中に、神の愛の美しい星がきよらかに輝いている。
 
 

「あなたの判断が、ほめたたえられるように。

2016年07月06日 15時29分35秒 | 聖書


また…私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように」(Ⅰサムエル25:33)

ダビデはサウルに追われ、逃亡し放浪生活をしていた。
しかし、それにも関わらず、困窮する者、負債のある者、王に不満を持つ者たちがダビデのもとにどんどん集まり、総勢600人にもなった。

パランの荒野にいた時、数千頭もの放牧をしている非常に裕福なナバルという人物がいた。
ダビデは使いを遣わし、食糧を求めた。というのも、当時それらの家畜をダビデたちが守っていた形になるので、親切を求めた。

ところが愚かで考えの無いナバルは、逃亡中のダビデを非難し、使いの若者たちを追い返した。
ダビデは400人の部下と共に報復に向かった。

事態をナバルのしもべが、妻のアビガイルに告げた。
このままだと主人や一家が殺されてしまうと。しもべは、本来ならすぐに主人に告げるはずが、頑迷で強情で偏狭なナバルにではなく、聡明な妻に告げた。

アビガイルの判断と機転で、事なきを得た。しもべは、頑迷なナバルには言えなかったが、聡明なアビガイルには言えた。

私たちはどうだろう。助言、忠言に聞く耳があるだろうか。ナバルは良い妻としもべのゆえに、窮地を脱したが、その後、主に裁かれ滅んだ。

自らの愚かさのゆえに。私たちはまず何よりも、主の言葉に真剣に耳を傾けよう。
そして、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを悟る者にされたい。
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人生経験をつむうちに、人はどんどん傲慢で、頑迷になって行くが私達には、神様のルールがある。
み言葉によって耕された柔らかい心で、謙遜にみ心を尋ね、従って行こう。


今日の聖人の記念日

2016年07月06日 07時55分22秒 | キリスト教

聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者

1890年-1902年

 マリア・ゴレッティは、イタリアのアンコーナの信仰深い農夫の娘として生まれた。
 10歳のときに父を失ったので、母が畑仕事に出かける一方、マリアは家事仕事や兄弟たちの世話をして手伝った。隣家の息子アレッサンドロは、マリアによからぬ思いを抱き、彼女の母の留守をねらってはマリアを誘惑したが、彼女は抵抗し続けた。しかし、彼女が12歳のときに、アレッサンドロは短剣をもってマリアをおどした。マリアは「それは罪です」と言って抵抗したので、ついに彼女を刺してしまった。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ」と言い残して息をひきとった。

 アレッサンドロは逃亡していたが、まもなく捕えられた。29年後に監獄から出所し、彼女の母に赦しを願いに行った。母は、娘の言葉どおり彼を迎えいれ、赦し、ともにマリアのために教会でミサをささげたのであった。その後、彼はカプチン会の修道院に入り、庭師としてその生涯を罪の償いのためにささげた。

 マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれている。


◆知恵は買えない

2016年07月06日 07時54分27秒 | 聖書

愚かな者が思慮もないのに、
知恵を買おうとして、手に代金を持っている。
これはいったいどうしたことか。    (箴言一七16)
 
これは、当時のイスラエルに見られた、有名な先生のもとに弟子になろうとして志願者が押しかける姿を言っているのだと、ある本では注釈していました。見当はずれかもしれませんが、日本での裏口入学の風景を、私は連想しました。よい学校へ入り、よい会社に就職すれば幸福なよい生活ができる。そのためには金の力を借りてでも、よい学校に入学させなくては、――こういう人生哲学が、裏口入学の後ろにあります。この哲学には二つの誤りというか、落とし穴があるのではないでしょうか。
第一は、幸福の万能薬を求める間違いです。桃が枝に実るからといって、枝だけを取っていってもむだです。財布を神棚にあげて拝んでもどうにもなりません。A・B・シンプソンは、こう歌いました。「かつては我よきものを 求めて主を忘れたり たまものより癒しより 与え主ぞさらによき」(聖歌五九八番)。
愛を喜び、平和といのちの源である神に結びついて生きる時、私たちの人生も、愛と喜び、平和といのちの実が結ぶのです。イエス・キリストは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ一五5)。幸福の本体は物でなく、お方(パーソン)なのです。
第二の間違いは、幸福を金の力や努力で買おうとし、取り引きしようとする間違いです。よく考えてみましょう。人生で一番大切な根本的なものは、努力や金で買うものではありません。手足も妻子もいのちも愛も、みな与えられたものです。信仰と感謝をもって、ただで受けるほかありません。悔い改めて神を信じ、神に手をさし伸べる時、無尽蔵の恵みと祝福が流れてくるのです。
 
 

◆しかし、わたしに聞き従う者は、

2016年07月06日 07時53分51秒 | 聖書
安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。(箴言一・三三)
 
神の愛は、さばきの時において最も著しく輝く。暗黒の裂け目からほほえむ明星の光は無上に美しく、砂漠の中に浮かび出たオアシスの美しさはひとしおであり、怒りの中の愛の美しさと輝かしさはたとえようもない。
イスラエル人がいつまでも偶像礼拝をやめないため、いと高き神は怒りを発せられた。その時神は、罰として雨と露とを降らせなかったので、大飢きんが起きた。しかしその間にも、神は民を安全に保つことをお忘れにならなかった。たとえすべての川が乾いたとしても、なおエリヤのために一つが残される。それが失われた時も、神はなお彼のために生命を維持する場所を残しておかれる。否、それだけではない。神は単に一人の「エリヤ」をもたれただけでなく、五十人ずつほら穴に隠され、恵みの選びによって残された者たちをおもちになった。そして、仮に国中が飢きんにさらされても、これら五十人ずつ隠された者たちは養われ、神を恐れる、アハブの忠実なしもべオバデヤによりアハブの食卓から食を与えられたのである。
これにより、神の民はたとえどんなことがあっても必ず守られると結論しよう。大地が揺れ動くとも、大空が真っ二つに裂けようとも、その壊滅した世界のただ中にあって、信者は何事もなかったように安全である。もし神が天の下でその民をお救いにならなかったとしても、天においてお救いになる。またこの世界が熱しすぎて民がいたたまらなくなったとしても、天が民を受け入れる安全な場所となる。
だから、あなたは戦争と戦争のうわさを聞いても安心せよ。心を騒がすな。わざわいを恐れず安らかであれ。地上にどんなことがあっても、主の広い翼におおわれたあなたは安全である。主の約束の大船に乗り、主の忠実さに信頼し、暗黒の将来に向かって前進せよ。あなたにとって恐れるものは何もない。あなたの唯一の関心事は、知恵の声に耳を傾けることでもたらされる祝福を、この世に示すことでなければならない。
 
 

ネヘミヤ書9章32-38節

2016年07月06日 07時52分34秒 | 聖書


9:34 「私たちの王たち、つかさたち、祭司たち、先祖たちは、あなたの律法を守らず、あなたの命令と、あなたが彼らに与えた警告を心に留めませんでした。
9:35 彼らは、自分たちの王国のうちと、あなたが彼らに与えたその大きな恵みのうちに、また、あなたが彼らの前に置かれた広くて肥えた土地のうちにありながら、あなたに仕えず、また自分たちの悪い行いから、立ち返りもしませんでした。」



 祈りの内で、過去の罪の姿を羅列して告白しています。

人々は、神様から与えられた、豊かに肥えた土地とその恵みの中におかれながらも、その恵みに感謝して生きようとしなかった。

つまり、感謝の印である、その主の御心に従って生きようとはしなかったと語っています。

それは、一般の民だけではなくて、王も高官も、さらには神に従うべき祭司たちも皆、そうであったと語っているのです。

どのような人であっても、神の前では罪人であり、また汚れた存在ですと、語っているのです。

このような私たちへの罪の許しは、ただ主による贖い以外にないのです。


ローマ 13:1~2

2016年07月06日 07時50分39秒 | 聖書


★人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

■O:今日のコラム
今日の箇所は、権威について書かれており、よく 目上の存在に従順することの重要性などのメッセージで用いられる箇所だと思います。両親であったり、牧師先生であったり、会社の上司であったり、学校の先生であったり、様々な権威が存在しますが、それらの権威を越えて何かを行うこと、また従順しないことはやってはいけません。

ただ今日、特に着目したいことは、御言葉の権威の下に自分自身を置くことです。

マタイ 7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」

百人隊長は、イエス様のおことばだけを求めました。彼はイエス様の口から出る御言葉にこそ権威があることを認め、御言葉の権威の下に自分を置きました。その結果彼のしもべは癒されました。イエス様はこの百人隊長の信仰に驚かれました。

詩篇 119:160 みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。

御言葉こそ真実、真理であり、とわに変わらない神の基準です。

イザヤ 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

私たちには神の御言葉が与えられています。これは恵みです。御言葉は私たちと共にあります。

ヨハネ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そして私の中には一つの願いがあります。それは私自身が御言葉に間に合う、御言葉を担う器になりたいという願いです。主が御言葉を委ねてくださり、御言葉を解き放ち、それが現実である霊的領域においても、また目にみえる領域でも起きていく、それをみたいという願いがあります。そのためには、まず自分自身が御言葉という権威の下に自らを置くこと、御言葉に知られること、御言葉によって聖められることを求めていきたいと思います。

■A:考えてみよう
今日の箇所である申命記29章、ローマ13章を音読して、御言葉(一節以上)を握り、祈っていきましょう!御言葉こそ真実・真理であることを宣言していきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月5日(火)のつぶやき

2016年07月06日 01時35分12秒 | キリスト教