座間コミニティー

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無夢

2016年07月09日 19時59分26秒 | 小説・詩

時の流れに

流され

降り積もる

愛のかけら

あなたの人生に

私がいてもいいですか

時の河に流されてゆく

二人

朝の日が差すまでいてくださいますか

https://youtu.be/lEc8O91WJJQ


休止符

2016年07月09日 18時44分11秒 | 小説・詩

いつまでも続く長い道

老いを逃した若者が

子供の自分を背負って

戦い続ける

敵は自分と親と明日の自分に

戦い続ける

借り物の人格で演じる仮面舞動会

戦時に背いて死に行く我が身と友と後輩の

弔う時間さえなく

彷徨う

闇夜の月に照らされ

愛されることもなく

愛する幸福も知らずに

死ぬ勇気もなく

生きる恥ずかしさに目をつむり

明日に(未来に)散るらん

 https://youtu.be/svVsV6hUqd4?t=93


◆神はこの光とやみとを区別された。

2016年07月09日 17時12分48秒 | 聖書
(創世一・四)
 
信者の中には二つの原則が働いている。生まれながらの状態においては、ただ一つの原則の支配下にあった。それはやみであった。今や光が加わり、その二つの原則は一致しない。ローマ人への手紙七章における使徒パウロのことばに目を留めよ。「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」
どのようにして、このようなことが起こったのか。「神はこの光とやみとを区別された。」やみは、それだけでは静かであり、何事も起こらない。しかし主が光を送られる時、争いが起こる。なぜなら、その二つは互いに相反するからである。この戦いは、信者が主にあって全き光となるまでは、決して終わることがない。
もしクリスチャン個人の内部に分離があるならば、外部にも分離があることは確かである。主が人に光を与えられるとすぐ、人は周囲のやみから自分自身を引き離し始める。彼は外面的儀式にこだわるこの世の宗教から分離する。キリストの福音以外のものは何ものも彼を満足させないからである。そして彼は、この世的な社交や無意味な娯楽から遠ざかり、聖徒との交わりを求める。なぜなら「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」と記されているとおりだからである。
光は光に集まり、やみはやみに集まる。私たちは神が分けたものを結合しようと試みないようにしようではないか。むしろ、キリストが辱しめを受けて宿営の外に出て行かれたように、私たちも不信仰な人々から離れ、特別な民になろうではないか。主は罪人から聖別された、聖く、罪なく、汚れのないお方であった。私たちも主のように、この世にならわず、すべての罪に反対し、他の人々から分離して、主に似る者となるように努めたい。
 
 

「あなたがこの王国に来たのは、

2016年07月09日 17時11分59秒 | 聖書

もしかすると、この時のためであるかも知れない」(エステル4:14

ハマンの計略で、ユダヤ民族に皆殺しの危機が訪れた。
伯父のモルデカイは、王妃となったエステルに、王にあわれみを求めるようにと伝えた。

しかし、召されないで王のもとへ行くなら誰であっても死刑になる。
エステルも命がけであったが、王のもとへ行く決心をした。危機に黙っていれば、命は助かり地位も安泰だ。
だが、同胞を救うため、命をかけて王に民の救いを求めた。

エステルを通して学べる。今までの経緯がパズルのように埋まる。
捕囚の民として異国で生まれた事、王妃に選ばれた事、それらがこの時のために用いられた。

私達も生い立ち、成育歴がどんなものでも、今に至るまでの過程は神の摂理であり、ご計画だ。
今、どのように思い通りでない場所であっても、難しい現実であっても、今の場所で神の御心があり、計画がある。

パズルが埋められて行く。今、置かれた場で、あなたのなすべき事がある。
エステルは困難な状況で、死を覚悟して、自分自身を全く明け渡した。
その明け渡したエステルを、神はユダヤの民の救いのために用いられた。

危急の事態が起きた時、方策や解決手段を捜し回る。
しかし、解決方法ではなく、神が全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。
今の場で神はあなたを用いられる。今の場所が、神が遣わされた場所だ。
なすべき事を示されるなら、従おう。
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条件がそろったなら従おう…ではなく、この場所が私にとってのベストポジション、神様がここに置かれていると確信して生きるなら、思い煩いは感謝へと変わり、神様に明け渡して歩める。



今日の聖人の記念日

2016年07月09日 12時01分21秒 | キリスト教

聖ヴェロニカ・ジュリアーニ修道女

1660年-1727年

 ヴェロニカは、イタリアのメルカテロの裕福な家庭に生まれた。幼いときから修道院に入ることを望み、17歳のときクララ会に入り、ヴェロニカという名前をもらい、祈りと黙想の生活に励んだ。

 1697年の聖金曜日に、彼女がイエスの苦しみを黙想しているときに、キリストと同じ傷跡を両手、脇腹、両足に受けた。そのため、人びとの好奇心や疑惑の的になり、司教からも人前に出ることを禁じられた。しかし、彼女の冷静で明朗な生活は、疑惑を晴らし、真正さを認めさせることとなった。

 その後、修道院長に選ばれ、生涯をささげた。彼女が書いた日記は44巻にもなり、貴重な神秘思想の文献とされている。

聖アウグスチノ・チャオ・ロン司祭と同志殉教者

17-20世紀

 彼らは1648年から1930年にかけて、中国で殉教した人びとであり、120人に及ぶ。そのうち、87人は中国で生まれた中国人で、子ども、両親、カテキスタ、労働者、教区司祭であり、年齢は9歳から72歳だった。また、33人は外国人で、ドミニコ会、パリ・ミッション会、フランシスコ会、イエズス会、サレジオ会の司祭、またマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道女であった。

 アウグスチノ・チャオ・ロンはもともと兵士で、パリ・ミッション会のジョン・ガブリエル・タウリン・デュフレース司教が殉教する際、同行した。デュフレース司教の忍耐に心打たれ、自らもキリストに従うことを望んで、洗礼を受けた。その後、彼は神学校に入り司祭に叙階されたが、1815年に捕らえられ、激しい拷問を受けて殉教した。

 また中国では、1898年から1900年にかけて「義和団の乱」が起こり、欧米列強国に対する抵抗運動として、キリスト教が排斥されていった。120人のうちの多くが、この時期信仰を守るために命をささげた。

 彼らは、キリストへの信仰という深いきずなによって外国人宣教師たちと一致し、文化や民族が違っても一つの家族として、政治的な動機ではなく、兄弟愛、平和、正義のために、死んでいった。

 列福は数回にわたって行われたが、2000年10月1日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって120人が列聖された。


◆冷静な心の祝福  Ⅱ

2016年07月09日 12時00分29秒 | 聖書

自分のことばを控える者は知識に富む者。
心の冷静な人は英知のある者。    (箴言一七27)
 
「沈黙は愚者の知恵」と、何を聞かれても自分のしたことは言わず、そのほかのことはぺらぺらとしゃべっていた元防衛庁長官の政治家がいました。
こういう人はどうかと思います。しかしその場の感情からすぐに結論や判断を出さず、冷静な心で物事を判断できる人は、人生の成功者です。自分の好ききらいや目の前の損得勘定によって、いらいらした心でたちまち最後のことばを言ってしまう人がいます。私たちすべてに、そういう危険な傾向があります。
パウロは、こう言っています。「私にとって、あなたがたの批判や、人の毀誉褒貶のことばは、非常に小さなことです。自分で自分をさばいてきめつけることすら、私はしません。私にやましいことは一つもないと考えても、そのことが私を潔白だ、正しい、無罪だということにはしません。私をさばく方は神です」(Ⅰコリント四3―4参照)。
いらいらした自分にとらわれた心では、正しい判断はできません。役に立たない間違った判断をして、人間関係を損ね、事を壊してしまいます。冷静な心は、じっくりとほんとうの価値・目標・役立つことを見極めます。人の心の真の姿・必要・要求が分かるのです。カエサルは、気がいらだつ時には、アルファベットを初めから終わりまで何回も口ずさんだといいます。それも、一時的には役立ちましょう。深呼吸一つでもいいのです。しかし、根本は何なのでしょうか。
キリストは「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。……あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ一四27)と言われました。神を心に宿して、初めて正しい見通しが持てるし、忍耐もできるのです。その心から、愛・信頼・期待・希望がわいてくるのです。
 
 

◆主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

2016年07月09日 11時59分45秒 | 聖書
(詩篇一〇三・二)
 
昔の聖徒たちの生涯の中に神の御手の働きを見、彼らを救い出された神の慈愛と、彼らを赦された神のあわれみと、彼らとの契約を守られた神の忠実さを考えることは、喜ばしくまた有益なことである。しかし私たち自身の生活の中での神の御手の働きに注目することは、さらに興味深く、さらに有益なことではないだろうか。私たちは自らを顧みる時、昔の聖徒のように、神とその慈愛、真理に満たされている過去を発見し、そこに神の忠実さと真実の証拠を見いださないであろうか。
神は昔、大いなるわざをなしてその力を示されたが、現在、この地上にいる私たちに対しては、不思議をなされることも、力を現されることもないと考えるのは誤っている。私たち自身の生活を見てみようではないか。必ずや私たちを力づけ、神の栄光をたたえさせる幸いな出来事を発見するであろう。
あなたは一度も救い出されたことがなかったか。神のご臨在に支えられて川を渡ったことはなかったか。あなたは神の顕現に接したことはなかったか。また特別の恵みに浴したことはなかったか。ソロモンには求めるままに与えられた神が、あなたには耳を傾けず、求めに答えられなかったことがあったか。ダビデをして、「あなたの一生を良いもので満たされる」と歌わしめた、惜しみなく与えられる恵み深い神が、脂肪であなたを飽かせられなかったことがあるか。かつてあなたは緑の牧場に伏させられたことが一度もなかったのか。いこいの水のほとりに伴われたことがなかったのか。
たしかに神は私たちに、昔の聖徒たちに注がれたと同じ慈愛を注いでおられる。それゆえ、神のあわれみを歌に歌おうではないか。感謝の純金と賛美の宝石とをもってイエスの頭にささげる王冠を作ろうではないか。私たちのたましいに、ダビデの琴から出るような妙なる音楽を奏でさせ、永遠に変わることのない主の恵みをたたえようではないか。
 
 

ネヘミヤ書10章32-39節

2016年07月09日 11時58分29秒 | 聖書


10:32 私たちは、私たちの神の宮の礼拝のために、毎年シェケルの三分の一をささげるとの命令を自分たちで定めた。10:33 これは、並べ供えるパンと、常供の穀物のささげ物、また常供の全焼のいけにえ、また、安息日、新月の祭り、例祭のいけにえ、聖なるささげ物、また、イスラエルの贖いをなす罪のためのいけにえ、さらに、私たちの神の宮のすべての用途のためであった。



 民は互いの判断で、収入の3分の1シェケルを、自分たちの神の礼拝のために献げる決意をしたと語っています。

それは、皆公平に負担をするということでした。

その目的は、神殿における礼拝を維持するために献げようということでした。

つまり自分たちにとって、礼拝こそが生活の基本的なことであって、その維持ができなくなったら、自分たちは神を忘れ、また神の御心を知ることも失ってしまうという危機感に立ったからでした。

以前のような過ちに陥ることがないように、礼拝の維持をしっかりしていこうと誓ったのです。

だから、礼拝の維持のための種々の支出の必要に、心したのです。



申命記32:46-47(ローマ16章)

2016年07月09日 11時56分39秒 | 聖書


★彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

■O:今日のコラム
シャローム!今日も息があり、生かされてることを心から感謝します!

昔あるメッセージの中で「聖書が最高権威であり、最高の武器であることを認めますか?どうしたらそれが最高権威、最高の武器であることを証明出来ますか?」と質問がされ、答えは「聖書は持っていたらただの本です。私たちがその中を開いて読んで実行するときに権威が発揮され、最高の武器になります。」というお話を聞きました。

旧約聖書概論のテキストで申命記のキーバースを見ると
1,~しなければならない、守る、守り行う(164回)
2,聞く、聞き従う(69回)
ということが書かれていました。

ここで箇所はあげませんが、申命記のいたるところに「守り行う」「聞き従う」ということが書かれています。

今日の32章はモーセが「あなたは約束の地、カナンの地には入れませんよ」と神様に言われ、イスラエルのすべての人たちに言い送った遺言とまではいかないにしろ、モーセの伝えたい全てのことが記されている章だと思います。

その中で「あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。」「このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。」と書かれているのはそれほど大事なことであることを覚えることが出来ます。

では、聞き従うとは具体的に何でしょうか?

「聞く」は御言葉です。
自分の心の声でもなく、預言のことば(預言も大切ですが)でもなく、聖書のことば、御言葉です。
言われ続けていますが、御言葉を音読することはとても大切です。声に出して音読すると黙読するよりも多くの気付きを体験します。

「従う」は実際行動に起こすことです。
ここで覚えたいことは御言葉を実行することは当たり前ですが私たちの力で行うことは出来ません。私たちを助けてくださる助け主、聖霊様によって行うことが出来ます。
私たちがするべきことは御言葉を行うか、行わないかの決断です。

今日の箇所でモーセは「むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである」そして「所有しようとしている地で、長く生きることができる」と書いています。

実際のモーセの心境はどうかはわかりませんが、むなしいことばではないと言う心の中は多かれ少なかれむなしいと感じたことがあるから言えるのではないか?と思います。けれども、神のことばはいのちで、神のことばによって生きると頭と心で理解しているからこそ言えることだと思います。

最初のメッセージの通り、聖書は規制の国ではない限り誰でも手にすることが出来ますが、その中身を開いて、聞いて行わなければ、権威も現されませんし、力強い武器ともなりません。
御言葉を信仰によって宣言することは霊の領域でまず変化が起こり、私たちの目に見える領域で変化していきます。目に見えて変わらないからしないではなく、これから変化していくと信じて御言葉を宣言し続けたいと願います。

ヘブル4:12「神のことばは生きていて、 力があり、 両刃の剣よりも鋭く、 たましいと霊、 関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

先日アテフ先生のセミナーがあり、ティーチングはとても深く私は先生が伝えたいことの1/10も理解出来てないと思いますが、その中で先生は「御言葉、聖霊様に従って歩む中で私たちは本来神様が造ったイメージに回復されていきます」とおっしゃっていました。

私たちが御言葉に聞き従い、神様の本来造られたイメージに回復されていきますように。

■A:考えてみよう
今日の箇所、申命記32章、ローマ16章を音読して、心にとまる御言葉を実行していきましょう!
聞き従う中で私たちは本来のイメージに回復されていきます!ハレルヤ!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月8日(金)のつぶやき

2016年07月09日 01時33分44秒 | キリスト教