聖シメオン・サルス
?-590年ごろ
シメオンは、パレスチナのシナイの砂漠で苦業の生活を29年間送ったが、故郷のホムスに帰り、社会から見捨てられて差別を受けている人々とともに生活をした。彼のモットーは、「真に謙遜になりたければ、屈辱を愛さなければならない」ということであった。それで彼は、わざと人々から罵られるような振る舞いをし、「サールス(狂気)」とあだ名をつけられた。ある人々は、彼を偽善者と言い、他の人々は予言者と信じていた。しかし、時とともに彼の真意が理解され、彼を聖なる人として認めるようになった。
ペトロ岐部と187殉教者
17世紀
ペトロ岐部と187殉教者は、1603年から1639年にかけて殉教した日本人である。日本各地を代表しており、社会的立場も司祭、武士、商人、家族、女性、障がいのある人、子どもと多岐にわたっている。188人のうち、司祭が4人、修道者1人、他の183人は信徒であり、徳川幕府時代の厳しい迫害にもかかわらず、いのちをささげることによって信仰を証しした。
地域別にみて、人数が多いのは京都のヨハネ橋本太兵衛をはじめとする52名と、米沢のルイス甘糟右衛門ら53名である。
また、生月の西一家、京都の橋本一家、加賀山・小笠原一族、島原の内堀一家は、家族が信仰のきずなで結ばれ、励まし合い、支えあって殉教していった。
188名の中で代表的な人物は、イエズス会の司祭、ペトロ岐部である。1587年、豊後に生まれた彼は、有馬にあるイエズス会のセミナリオに入ったが、1614年、禁教令によってマカオへ追放された。マカオでの養成が困難であったためローマへ出発し、そこで司祭となったが、帰路についたとき日本では迫害の嵐が吹き荒れていた。1639年、彼は江戸で逆さつるしの刑に処せられ、殉教した。
殉教者たちの信仰と愛を称えて、2008年11月24日、長崎市においてペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われた。日本の教会が、殉教者の血から生まれ、その上に立てられたことを思い起こし、現代社会の中で教会が自信と活気に満ちあふれて、福音を宣べ伝えるきっかけとなった。死をとおして、イエスの愛にならった彼らの証は、どんなときもイエスの価値観を選び、それを証しすることの大切さを、わたしたちに教えてくれる。