座間コミニティー

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◆そよ風の吹くころ、

2016年07月01日 17時01分52秒 | 聖書
彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。(創世三・八)
 
私のたましいよ。今はそよ風の吹くころとなった。しばし退いて、おまえの神の御声に耳を傾けよ。おまえが聞く備えをする時、神はいつでもおまえとともに語ろうとされる。もし神との交わりが少しでも薄くなれば、その責任は神の側になく、おまえの側にある。主は門口に立って戸をたたき、もしその民が開きさえすれば、喜んで家の中に入られるからだ。しかし主の園である私の心の状態はどうであろう。よく手入れされ、水が注がれ、主のために良い果実を実らせることを望めるだろうか。もしそうでなければ、主が私たちを叱責される理由は十分にある。しかし、それでもなお私は、主が私の内に来られることを祈る。義の太陽がその翼にいやしをもって臨在されることほど、私の心を正しい状態に置くものはないからである。
それゆえ、主よ、私の神よ、来てください。私のたましいは熱心にあなたを呼び、あなたを待ち望みます。おお、愛するイエス様。来てください。そしてあなたの比べることのできないご人格のように咲き誇る新しい全き花を、私の園に植えてください。来てください。おお、父なる神様。あなたは農夫であられます。あなたの優しさと細心の注意をもって私を取り扱ってください。おお、聖霊なる神様。来てください。そして、今夜草木が夕べの霧でぬれているように、私の全身をあなたの露で潤してください。
私は全身全霊を主に傾け、他の一切の思いを打ち消す。私はただ主が喜んで与えてくださるもののみを求める。私は確信する。主がへりくだりをもって私と交わられることを。主は私に聖霊を与え、永遠に私とともに住まわせられるから。涼しいそよ風のころの快さは格別である。その時すべての星は天の目のように見え、涼しい風は天の愛の呼吸のように思われる。
私の父、私の長兄、私の優しい助け主よ。今、いつくしみの御声をかけてください。あなたは私の耳を開かれ、私は御声に逆らいませんから。
 
 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。

2016年07月01日 17時00分52秒 | 聖書

わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:3)

この世は、悪口や悪意による噂話でいっぱいだ。
職場や学校で近隣で、しょっ中でくわすだろう。
あるクリスチャンが、子供の学校の役員会で、母親たちの悪口三昧に驚いた。

ここにいない人たちの事を、あれこれ言うのはフェアでないと言ったが最後、次の役員会には全員からの無視に会った。

「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」と箴言にあるごとく、罪の性質には悪口は美味しい蜜の味だ。

悪口を言うのは、その人の評価を下げて、自分が安心するためだ。
クリスチャンになるとさすが罪意識があり、決して口に出しては言わないが、嫌いな相手の話題が出たりすると、心の中 でしっかり同意し、肉を満足させていたりする。

悪口を心の中で言うその底に、相手への隠れた羨望や妬みがあったりする。
相手を妬んでいるので、引き下げたい。その羨望や妬みは比較から来る。

しかし、神に向き、神の自らへの深い愛や顧みを知り、どんなに大切に思われ慈しまれているかを知る時、人を引き下げる必要がない。
比較の必要が無い。まず、自分の弱さをいっさい隠さず、あるがまま神の御前に認めて行くことだ。

その時初めて、あるがままの自分を受け入れ、尊び、極みまで愛して下さっている主の愛を実感として知る。
その時、心に喜びが来る。

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比較は人の常、肉の性質、サタンの誘惑だ。比較からあらゆる問題が派生する。
劣等感と優越感、妬み、悪意。
比較したくないがしてしまう、そのままを、まず主に告白しよう。
あるがままの心を告げよう。その時、不思議に平安が臨む。


今日の聖人の記念日

2016年07月01日 06時54分30秒 | キリスト教

 聖シメオン・サルス

?-590年ごろ

 シメオンは、パレスチナのシナイの砂漠で苦業の生活を29年間送ったが、故郷のホムスに帰り、社会から見捨てられて差別を受けている人々とともに生活をした。彼のモットーは、「真に謙遜になりたければ、屈辱を愛さなければならない」ということであった。それで彼は、わざと人々から罵られるような振る舞いをし、「サールス(狂気)」とあだ名をつけられた。ある人々は、彼を偽善者と言い、他の人々は予言者と信じていた。しかし、時とともに彼の真意が理解され、彼を聖なる人として認めるようになった。

ペトロ岐部と187殉教者

17世紀

 ペトロ岐部と187殉教者は、1603年から1639年にかけて殉教した日本人である。日本各地を代表しており、社会的立場も司祭、武士、商人、家族、女性、障がいのある人、子どもと多岐にわたっている。188人のうち、司祭が4人、修道者1人、他の183人は信徒であり、徳川幕府時代の厳しい迫害にもかかわらず、いのちをささげることによって信仰を証しした。

 地域別にみて、人数が多いのは京都のヨハネ橋本太兵衛をはじめとする52名と、米沢のルイス甘糟右衛門ら53名である。

 また、生月の西一家、京都の橋本一家、加賀山・小笠原一族、島原の内堀一家は、家族が信仰のきずなで結ばれ、励まし合い、支えあって殉教していった。

 188名の中で代表的な人物は、イエズス会の司祭、ペトロ岐部である。1587年、豊後に生まれた彼は、有馬にあるイエズス会のセミナリオに入ったが、1614年、禁教令によってマカオへ追放された。マカオでの養成が困難であったためローマへ出発し、そこで司祭となったが、帰路についたとき日本では迫害の嵐が吹き荒れていた。1639年、彼は江戸で逆さつるしの刑に処せられ、殉教した。

 殉教者たちの信仰と愛を称えて、2008年11月24日、長崎市においてペトロ岐部と187殉教者の列福式が行われた。日本の教会が、殉教者の血から生まれ、その上に立てられたことを思い起こし、現代社会の中で教会が自信と活気に満ちあふれて、福音を宣べ伝えるきっかけとなった。死をとおして、イエスの愛にならった彼らの証は、どんなときもイエスの価値観を選び、それを証しすることの大切さを、わたしたちに教えてくれる。


◆人の心を試すのは

2016年07月01日 06時53分20秒 | 聖書

銀にはるつぼ、金には炉、
人の心をためすのは主。       (箴言一七3)
 
にせものが横行している世の中です。数年前、ただの岩をくだいたものを、「これを水の中に入れて飲むと、水がイオン化し万病に効き、体質改善になる」と宣伝して法外な値で売りつけ、ぼろもうけをしていた男がつかまりました。ずいぶんたくさんの人がだまされて、ただの石ころを大金を出して買い、効きもしない水を飲まされたわけです。しかし、見る人が見れば分かります。いんちきはばれて、刑務所に放りこまれてしまいました。
三千年前のイスラエルでも、金でないものを金とし、銀でもないものを銀とごまかす者がいたので、人々は、るつぼや炉で試したものです。ほんものは、いよいよ輝きを増し純粋なものとなって、るつぼや炉から出てきます。にせものは、とけ去り燃えつきました。
恐ろしいのは、にせの心・偽りの心ではないでしょうか。そんな心にもころりとだまされて、その人をほめたり重んじたりする人が、世の中に多くいます。しかしその人生の最後に、神がるつぼの中にその心を入れ、炉の中にその心を投げこんで試される時、燃えつきてしまいます。
神は、人生の終わりにだけでなく、私たちの一人一人のために、いま現在、愛のるつぼを用意していてくださいます。偽りの生き方を見限り、覚悟を決めて神のみ手の中に身をゆだねる時、神の愛のるつぼは、私たちの心からかすやにせものを取り去り、純粋なものとしてくださるのです。神の愛のるつぼは、ある時は、苦しみや悲しみの試練のるつぼです。しかし、神のみこころにかなう悲しみは、悔いのない悔い改めを生じ(Ⅱコリント七10参照)、心をどんなことにも耐えるほんものにしてくれると聖書は言うのです。
 
 

◆その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て

2016年07月01日 06時52分40秒 | 聖書
……夏にも冬にも、それは流れる。(ゼカリヤ一四・八)
 
エルサレムから流れ出る生きた水の流れは、夏の炎暑にもかれることがなく、吹きすさぶ冬の寒風にも凍ることがない。
おお、私のたましいよ。喜べ。おまえには主の真実を証しすることが許されている。季節は移り、おまえも変わる。しかし主は永遠に変わらず、その愛の流れは依然として深く、満ち満ちている。仕事上の心労やつらい試練は、主の恵みの川の涼しさを渇望させる。私はすぐに行って、この尽きることを知らない泉から満ち足りるまで飲むことができる。なぜならその泉から、夏も冬も、いつも清水がわき出ているからである。主の御名はほむべきかな。泉の源は尽きず、その流れの末もかれない。
エリヤは、ケリテ川がかれているのを見た。しかし主は変わることのない摂理の神であられる。ヨブは「私の兄弟たちは川のように裏切った」と言った。しかし神があふれるばかりの慰めの川であることを見いだした。ナイル川はエジプトのいのちの綱であるが、その流れは絶えず変わる。しかし私たちの主は永遠に変わらない。クロス王はユーフラテス川の流れを変えてバビロンを陥れた。しかしどんな力も、人の力も悪魔の力も、神の恵みを変えることはできない。昔の川の川床は、今は干からびている。しかし神の主権と無限の山から流れる川は、いつも満々と水をたたえている。時代は変わるが恵みの流れは変わらない。神の川は、次の詩にある川よりも、はるかに偉大な真理を歌っているものと言えよう。
 人は来て、やがて去って行く
 しかし、私は永遠に流れる
幸いな私のたましいよ。おまえがこのような「いこいの水のほとり」に導かれているとは。だから、決して他の流れに目を移してはいけない。「あなたはなぜエジプトの濁っている水を飲もうとするのか」との主のご叱責の声を聞くことのないために。
 
 

ネヘミヤ書9章1-5節

2016年07月01日 06時51分27秒 | 聖書


9:1 その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。
9:2 そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がっ
て、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。



 8章の終わりの所に書かれていた「仮庵の祭り」は、その月の15日に始まりました。

それは8日間続きました。

ですから、ここで語られている24日というのは、「仮庵の祭り」が終わった、その翌日と言うことです。

その日に、彼らは集まりました。

その日に人々は断食をして、粗布を身につけ、土をかぶって、集まりました。

つまり、神の前に罪への深い悲しみを思い、またその罪の告白をして、許しを請うために集まったのです。

ですから2節を見ますと、「自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。」と語って
います。

そのあり方は、「その日の4分の1は主の律法を朗読し、また残りの日の4分の1は罪の告白をして主を礼拝した」と、語られています。

み言葉をよく読むことによって、自分たちの罪を悟り、その知らされた罪を詳しく告白して、罪を悔いたというのです。


ローマ6章11節

2016年07月01日 06時49分34秒 | 聖書


★「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
ローマ6章22節
★「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」

■O:今日のコラム
私たちの思い、考えにも、イエス様の血潮の力を宣言する必要があります。「思いなさい」は、別訳で「認めなさい、考えを変えなさい」とも訳されます。認めるということは、同意することです。

私たちは、イエス様の血潮により、罪に対して死んだ者、すなわち、罪から解放された者だと認める必要があります。 この地上にいる以上、私たちの内には、肉の欲、弱さ、誘惑がやってきます。自分の力では、それらに打ち勝つことが出来ません。私も主を喜ばせたいのに自分や人を喜ばせている、神の義を求めたいのに自分の義を通そうとしている、聖くなりたいのに私の心は聖くない…、自分の内に幾度となく矛盾を感じることがありました。あの使徒パウロでさえ、そうでした。(ローマ7:15-25)
しかし、このような私たちを助けて下さる方、聖霊様が私たちのところに来て下さったことを感謝します。聖霊様は、弱い私たちを助けて下さいます。私たちの内に住み、私たちを真理へと導いて下さいます。そして、私たちは真理である御言葉に従うことによって、聖められるのです。

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)
私たちの罪を悔い改め、真理である御言葉、御言葉なるお方に従順することはとても大事です。

私たちは、罪の奴隷から贖われて、義の奴隷とされました。私たちは、イエス様の十字架、その血潮の代価が支払われて、買い戻されたのです。奴隷というのは、自分の主人に仕え、主人のことばに従います。私たちの主人は変わったのですから、もはや罪の奴隷としての支配を受けず、義の奴隷として、私たちの主人、義なるお方イエス様に従っていきましょう。私たち自身も、この手足も義の器としてささげていきましょう。

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(第一ペテロ1:14-15)

罪は、私たちと主との関係を壊します。しかし、聖さは、私たちと主との関係を親密さの最高段階へと導くのです。
今日の箇所に「聖潔に至る実」が出てきます。実というのは、そのもとにとどまるときに結ばれていきます。この世で得られる評価、富や名声は一時的なものですが、私たちが結ぶ実というのは、永遠に残ります。私たちが、肉の思いや欲望に死んで、自分自身とこの手足を義の器として、神様にささげ、神様のもとにとどまり、御言葉にとどまり、従っていくならば、私たちは実を結んでいく者となるのです。口先だけではなく、主が聖であられるように、主の所有とされた私たちも聖さを追い求めていきましょう。聖さの実を結んでいきましょう。私たちはそのために召されています。

「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(第一テサロニケ4:7)

私たちは、キリスト・イエスにあって生きた者、すなわち、キリスト・イエスに結ばれて生きる者とされた、と認めましょう。もう一度、私たちの思い、考えを変えましょう。私たちを選び、召してくださった、主のために実を結ぶ生き方をしていきたいと願います。

■A:考えてみよう
・もし、自分が、まだ罪の中にあると思うならば、私たちは今日、悔い改め、御霊の聖め、イエス様の血潮を受け取り、宣言して祈っていきましょう。
・私たちの主人はイエス様になっているだろうか?神のことば、御言葉なるお方に従う心、思い、考えを持っているだろうか?その方が私たちの歩みを導いて下さることを認めているだろうか?

■P:祈り
私の考え、意識と無意識の中にイエス様の血潮の力を宣言します。
第二コリント10:5-6
★「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
今日、私の歩みが、罪の支配ではなく、イエス・キリストの支配、主権の中にあることを、私はイエス・キリストに従う者であることを信仰を持って宣言します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月30日(木)のつぶやき

2016年07月01日 01時35分16秒 | キリスト教