座間コミニティー

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◆彼らを、君主たちとともに……

2016年07月26日 16時42分06秒 | 聖書
王座に着かせられる。(詩篇一一三・八)
 
私たちの霊的な特権は最高のものである。「君主たちとともに」とは、選ばれた社会の地位を言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」選ばれた社会といっても、これほどすばらしいものはほかにない。私たちは「選ばれた種族、王である祭司」である。私たちが近づいているのは、「天に登録されている長子たちの教会」である。
聖徒たちは宮廷の聴衆である。一般人が遠く離れて立っていなければならない時、「君主たち」は王国の中に入ることを許可される。そのように神の子たちは天の宮廷に自由に出入りすることができる。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」使徒は言った、「ですから、私たちは……大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
「君主たち」の間には豊かな富がある。しかし、信者の富に比べれば何であろう。「すべてのものはあなたのもの、あなたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからである。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
「君主たち」は特別な権力をもつ。天国の君主は大いなる力をもつ。彼は自分の領土に支配権をふるう。彼はイエスの御座に座る。なぜなら、小羊は「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされ」、私たちはとこしえに支配をするからである。
君主たちはまた、特別な名誉をもつ。私たちは、恵みによって置かれた高い所から、すべてのこの世の権威を見下ろす。神は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これに比べれば、人間の権威は何であろう。私たちはイエスの誉れに共にあずかる。これに比べれば地上の光輝などは考える価値もない。イエスとの交わりは、王冠に輝く高貴な宝石にまさり、主と結合されることは、麗しく輝く宝冠である。
 
 

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。

2016年07月26日 16時41分00秒 | 聖書


シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう」(I サムエル4:3)

イスラエルの民は、主の契約の箱さえあれば、主はご自身の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。

自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱がある限り、大丈夫だと思った。
しかし、そうではなかった。

神は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされるに任せられた。
彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救って下さるはずだと思った。

自分たちが負けるなら、神の御名が立たない、だから助かるはずだと高をくくっていた。
しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされる事は決してない。

何よりも聖なる方だ。民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。
見事な敗北だ。

都合が悪い事はふたをし、敵に知られないように、おおい隠されるのではない。
人間は勘違いをする。不祥事は証しに悪いと、とにかく隠し、ひたすら隠す。

しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現される。神は聖い方だ。
キリストとベリアルはいっさい関係無く、光と闇も何の関係も無い。
おおい隠す事によってでなく、敗北によってそれを明らかにされる。聖なる方だ。
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真実のない形ばかり、自分の都合ばかりでは、神様の栄光を拝することは出来ない。
示される事は感謝だ。真実な信仰を献げて歩んでいこう。


今日の聖人の記念日

2016年07月26日 07時56分15秒 | キリスト教

聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

 

 ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。


◆ぜいたくが似合う人

2016年07月26日 07時55分15秒 | 聖書

愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。
奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。(箴言一九10)
 
愚かな人にぜいたくは似合わないとは、辛らつなことばです。ソロモンは、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言一一22)と言いました。これも、ぜいたくが似合わない姿です。成りあがりの金持ちが、料亭に行って、玄関で札に火をつけて自分の履き物を捜させたという昔の話を聞いたことがあります。これもやはり、ぜいたくが似合わない姿です。
ぜいたくが似合うとは、どういうことでしょうか。何年か前、私は旅の途中にちょっと寄り道をして、鹿田という昔ながらの陶器づくりの村へ行ってみました。そこでは、動力機械で陶土をくだかず、昔どおりに水車で土をくだいて陶土をつくっていました。豊かな水が川から流れ、水車の水受けの古い木箱に注ぎます。そして、水がその箱をいっぱいにしてあふれるようになると、ゴットンと音がしてその箱は傾き、今までためていた水をみな注ぎ出してしまいます。すると、ゴットンときねが動いて土をくだくのです。あふれて、与えつくして、お役に立つ。――これこそ、ぜいたくが似合う姿ではないかと思ったのです。
そういう人は、すべてのよきものはいつも神から来ることを知って、神を見あげ、神に期待しています。あふれるほどの神の恵みを心に受け、物質的にも与えられると、惜しげもなくそれを与えつくし、また、からになって神を見あげます。
愚かな者はそうではありません。自分のものでもないのに、自分のもののようにむさぼり、誇り、ためこみます。豊かな人生は、愚かな者にはふさわしくありません。すべてのよいもののもとである神、すべての主人である神をないがしろにして、自分が主人になって暮らす生き方は、人間としてふさわしい生き方ではないのです。
 
 

◆あなたがたは、あらゆる努力をして、

2016年07月26日 07時54分30秒 | 聖書
信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ一・五―七)
 
あなたがもし聖霊の感化と助けにより信仰の全き確信の恵みを得ることを願うならば、聖書に記されているように「あらゆる努力を」せよ。
あなたの信仰が正しいものであるように心せよ。すなわち、単に教理を信じるというのではなく、キリストにより頼み、キリストのみに信頼する信仰でなければならない。勇気をもって励め。神があなたに獅子の容貌を与えてくださり、あなたが正義の自覚をもって、恐れることなく、大胆に前進できるように願い求めよ。聖書をよく学び、知識を得よ。教理に関する知識は、信仰を堅固にするのに非常に役立つ。みことばを理解する努力をせよ。みことばを心の中に豊かに蓄えよ。
そして次に、「知識には自制を」加えよ。自分の肉体に注意をはらい、外側の自制を保て。あなたのたましいに心して、内部の自制を保て。くちびると、生活と、心と、思いとの自制を得よ。
それに、神の御霊により忍耐を加えよ。患難に耐え、鍛えられて金のようになって出てくる忍耐を与えられるように求めよ。苦難に際してつぶやかず、また落胆しないように忍耐をまとえ。忍耐の恵みを得たならば、次に敬虔を求めよ。敬虔は信仰心以上のものである。神の栄光を現すことを、生涯を通しての目的とせよ。神の御前で生活をせよ。神に近く住み、神との交わりを求めよ。そうすればあなたは敬虔を得る。
そしてそれに兄弟愛を加えよ。すべての聖徒を愛せよ。さらに、すべての人に手を広げ、それらのたましいを愛する愛を加えよ。あなたがこのような宝石によって飾られ、これらの天来の徳を実践するならば、その程度に応じて「あなたの受けた召しと選び」を明確な証拠の上に立って知るようになる。
もしあなたが確信を得たいと願うなら、「あらゆる努力」をせよ。なぜなら不熱心と疑いは常に伴ってくるものだからである。
 
 

ネヘミヤ記13章15-18節

2016年07月26日 07時52分47秒 | 聖書


13:17 そこで私は、ユダのおもだった人たちを詰問して言った。「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか。
13:18 あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを私たちとこの町の上に送られたではないか。」




 ネヘミヤが見たイスラエルの民の現実は、主の御心をないがしろにしている姿でした。

主は、「安息日を覚えて聖とせよ。」という戒めを与えています。

ところが、人々はこの戒めに心を留めず、安息日に畑仕事をし、また商売をしていました。

人々はその日に主のことを覚えず、自分たちの益を得るために行動をしていたのです。

また、異邦人も安息日に都で品物を売っていました。

民は、彼らの行動も止めませんでした。

安息日は、神様が私たちを愛して、守り支えてくださっていることを覚えて、その神様を感謝して、礼拝する日として与えられました。

ですから、この日に主を礼拝して主との会見を持つことは、主との交わりの中で、主の民が主のみことばによって、霊的な新しい喜びと力を与えられる、恵みの時なのです。


コリント人への手紙第一16章22節(詩篇60篇)

2016年07月26日 07時51分07秒 | 聖書


★『主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。』


■O:今日のコラム
とても刺激的な文でパウロの挨拶が書かれています。この『主よ、来てください』と訳されている言葉が、有名な『マラナタ』です。ここ一箇所しか使われていない言葉です。この言葉は、再臨の主を待ち望む告白です。
  そして、その前の部分が主の再臨を待ち望む者の姿勢をとても短くまとめているのです。それは『主を愛さない者は、呪われよ』です。「誰でも」という語は、「何でも」とも訳せます。パウロはいたずらに呪いを宣言するような人物ではありません。ローマ書において、『祝福するべきであって、呪ってはいけません』と書いたのはパウロです。
  「呪われよ」とは、「十字架にかけられよ」という意味であると言えます。『木にかけられる者は、すべて呪われた者である』とありますから。
  これは、誰か不信仰なクリスチャンに当てはめるものではなく、自分に当てはめるべきものです。自分の中の主を愛さない部分は何でも十字架に打ち付けられ、死に渡されるべきなのです。それを心から願う姿勢が、マラナタなのです。

■A:考えてみよう
自分の肉や情欲、むさぼりをキリストの血の力によって、十字架に打ち付け、死に渡し続けましょう!

『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月25日(月)のつぶやき

2016年07月26日 01時34分12秒 | キリスト教