私たちは、クリスチャンのすべての苦しみが、キリストとともなる苦しみであると結論すべきではない。最も大切なことは、私たちが神によって苦難に召されているかどうかというところにあるからである。
もし私たちが無分別によって摂理も恵みも及ばないような窮地に陥るならば、自分がイエスと交わりをもっているかということより、自分が罪を犯しているのではないかと反省しなければならない。判断力を用いずに感情に走り、聖書の権威によらず、自我の支配にゆだねるならば、主の戦いを悪魔の武器によって戦うわけだから、自分の指を切ったとしても驚くにはあたらない。さらに、私たちが罪の結果苦しみを招いたとしても、キリストとともに耐え忍んでいると夢見てはならない。神が喜んで受け入れてくださる苦しみは、神の栄光そのものを目的としているものである。
さらに必要なことは、イエスに対する愛、およびイエスに選ばれた人々に対する愛が、常に私たちの忍耐の原動力とならなければならないということである。私たちは、柔和、温順、また人を赦すことにおいて、キリストの霊を現さなければならない。
私たちが真にイエスとともに耐え忍んでいるかどうか、自分の心をさぐってみよう。そして、真にイエスとともに耐え忍んでいるならば、私たちの「軽い患難」は、主とともに支配者になることに比べて何であろう。おお、キリストとともに炉に投ぜられ、さらし台に立つことは、たぐいない名誉である。私たちは期待より無限にまさる永遠の報酬をもつ。それなら喜びつつ十字架をとって進むべきではないか。