座間コミニティー

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◆もし耐え忍んでいるなら、

2016年07月03日 16時59分36秒 | 聖書
彼とともに治めるようになる。(Ⅱテモテ二・一二)
 
私たちがキリストの中にいないならば、自分の苦しみがキリストのためであり、キリストとともに苦しんでいると考えてはならない。愛する友よ。あなたはイエスだけを信頼しているか。そうでないならば、この地上でどれほど嘆き悲しまなければならないとしても、あなたは「キリストとともに耐え忍んで」いるのでなく、天においても主とともに支配する希望はない。
私たちは、クリスチャンのすべての苦しみが、キリストとともなる苦しみであると結論すべきではない。最も大切なことは、私たちが神によって苦難に召されているかどうかというところにあるからである。
もし私たちが無分別によって摂理も恵みも及ばないような窮地に陥るならば、自分がイエスと交わりをもっているかということより、自分が罪を犯しているのではないかと反省しなければならない。判断力を用いずに感情に走り、聖書の権威によらず、自我の支配にゆだねるならば、主の戦いを悪魔の武器によって戦うわけだから、自分の指を切ったとしても驚くにはあたらない。さらに、私たちが罪の結果苦しみを招いたとしても、キリストとともに耐え忍んでいると夢見てはならない。神が喜んで受け入れてくださる苦しみは、神の栄光そのものを目的としているものである。
さらに必要なことは、イエスに対する愛、およびイエスに選ばれた人々に対する愛が、常に私たちの忍耐の原動力とならなければならないということである。私たちは、柔和、温順、また人を赦すことにおいて、キリストの霊を現さなければならない。
私たちが真にイエスとともに耐え忍んでいるかどうか、自分の心をさぐってみよう。そして、真にイエスとともに耐え忍んでいるならば、私たちの「軽い患難」は、主とともに支配者になることに比べて何であろう。おお、キリストとともに炉に投ぜられ、さらし台に立つことは、たぐいない名誉である。私たちは期待より無限にまさる永遠の報酬をもつ。それなら喜びつつ十字架をとって進むべきではないか。
 
 

「あなたがたは…

2016年07月03日 16時58分54秒 | 聖書

奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。
私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(ローマ8:15)

ある人が小さい頃から、弟や妹の面倒をずっと見て来た。
両親が働いていた事もあり、親代わりに世話をして来た。
親も疲れ果てて帰宅する毎日に、親にも甘えるどころか、親の親になっていた。

自分の気持ちを抑え込み、良い子でなければならず、良い子でずっと生きて来た。
信仰持ってからも良い子クリスチャンだった。自分では全く気づかなかったが。

神の前でも良い子でいようとする。だから主と距離があって、神の愛が頭でしかわからなかった。
実感が無かった。本心を隠したまま、自分の本当の気持ちなど決して出せなかった。

ところが度重なる試練に、八方塞がりで追い詰められ、行き詰まり、良い子を演じる余裕が無くなり、限界状態で、ついに本心を神にぶつけた。
怒りだった。これまで従って来たのに、散々な状況に怒りが爆発した。

しかし、その本心を神にぶつけた時、初めて神から答えを得た。生きた交わりを経験した。
主に何でも心の内を言っていい事がわかった。今まで言えなかった。

心が心底楽にされ、喜びが湧き上がり、心底の平安、安堵を経験した。
本心隠したまま、良い子で主の前にいないだろうか。その本心を受け入れて下さっている。
「アバ、父、お父ちゃん」と、子供になって素直に御前に出てみよう。
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アバ、父・・お父さん!と呼びかける神様との親しい関係は、本当に感謝だ。
本心を隠す必要はない。
ありのまま正直に神様の前にいよう。赦され続け愛し続けてくださっている。


今日の聖人の記念日

2016年07月03日 12時54分46秒 | キリスト教

 聖トマ使徒

1世紀

 イエスの弟子であるトマは、「ディディモ」(双子の意)とも呼ばれている。トマは、イエスが復活して現われたと聞いたとき、イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じないと言った。そのため、「疑い深いトマ」として知られている。しかし、イエスが再び使徒たちに現われて彼もそこに居合わせたとき、「わたしの主よ、わたしの神よ」と自らの疑い深さに気づき、イエスからも「見ないで信じる者は幸いである」と諭された。
 その後、トマはインドに宣教に行き、マイラポールで殉教したと伝えられている。インドの信者たちは自分たちを「聖トマのキリスト信者」と呼ぶことが多いそうである。


◆愛を追い求める者

2016年07月03日 12時53分52秒 | 聖書

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。
同じことをくり返して言う者は、
親しい友を離れさせる。       (箴言一七9)
 
私が米国の神学校で学んでいた時に聞いた、ある教授の告白を忘れることができません。その教授は七十歳に近い白髪の方でした。彼がまだ若い駆け出しの大学教師のころ、その大学に、一人の年とった牧師が来て全学の学生の前で話しました。愛に満ちた真実みのある彼の話に、学生たちは大きな感銘を受けました。でも、教養のないこの老牧師は、ところどころで、学問的に間違ったことを言ったのです。若い大学教師は、学生の前でこの老牧師の無教養をあばいて、老牧師を笑いものにしました。ところが家に帰ってから、良心のとがめを感じました。自分の心が何とみにくいごうまんなものかが分かったのです。彼は大決心をして、心からのおわびの手紙をこの老牧師に書きました。すると、しばらくして、返事が来ました。今も、それを宝物のように持っているとのことでした。
 Dear Charles,
 Forgiven forgotten forever.
  Your loving friend, James.
と、たった三行でした。しかしそこには、ほんとうの愛がありました。ほんとうの愛は、背きの罪をおおいます。それは、ゆるす愛ともいえます。素直に忘れて何も言わない愛なのです。
イエスの目には、私たちの偽りやけがれや背きなどの罪は、もう一目瞭然でしょう。しかしイエス・キリストは、何一つ責めず恥をかかせず、その十字架の血潮で、だまって私たちの罪を全部おおってくださいました。その愛によって私も生かされました。あなたも生かされるのです。
自分のことは棚にあげながら、人の欠点や失敗や罪をくどくどと何回も言う人は、愛がありません。そのため、妻や子どもや兄弟姉妹を含めて、親しい友人を失うことになります。
 
 

◆パロは夢を見た。……

2016年07月03日 12時53分07秒 | 聖書
醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。(創世四一・一、四)
 
パロの夢は、私が目覚めている時にしばしば経験したことであった。私の怠慢の日々は、私が熱情を傾けて努力し達成したすべてのものを無残に破壊し、冷淡の時は、私のすべての熱心を凍らせ、時々の俗悪な思いは、聖い生活に進んでいた私を押し戻してしまった。私はやせた祈り、やせた賛美、やせた働き、やせた行いを警戒しなければならない。なぜならこれらのものは、私の慰めと平安の脂肪を食い尽くすからである。
たとえ片時たりとも祈りを怠るならば、私はこれまでに達成した霊性の一切を失う。もし天より新しい賜物を求めないならば、私の倉にある古い穀物は、私のたましいの怒り狂う飢きんによって、たちまち失われる。無関心のいも虫と世俗のしゃくとり虫と放縦の毛虫が、私の心をくまなく食い荒らして私のたましいを衰えさせる時、どれほど恵みに成長し多くの実を結んでいても無益である。やせた日と不快な時をもつことのないようにしなければならない。もし望むゴールを目ざして日々旅を続けるならば、私はすぐにそこへ着く。しかし後退するならば、私の尊い召しの報酬からはさらに遠ざかることになり、これまで苦心を重ねて成し遂げた進歩もたちまち奪い去られてしまう。
私たちの日々を肥えた雌牛とする唯一の道は、主の牧場で草を食み、日々を主とともに、奉仕に、交わりに、主を恐れつつ主の道に過ごすことである。どうして私たちの一年一年が、愛において、役立つことにおいて、喜びにおいて、過ぎた年にまさるものとならないでよいだろうか。私は天国の丘に近づきつつあり、主をより多く経験している。そして私はさらに、これまで以上に主に似た者とならなければならない。
主よ。私を守って、たましいのやせ衰えた者としないでください。私が「忌まわしいものだ。私はやせた。私はやせた」と叫ぶことのないようにしてください。否、私があなたの家にあって肥え太り、あなたの御名をほめまつることができるようにしてください。
 
 

ネヘミヤ書9章9-15節

2016年07月03日 12時51分52秒 | 聖書


9:12 「昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。
9:13 あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。
9:14 あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。」



 民は祈りの中で、主が先祖にしてくださったことを追想しています。

そのことによって、神が自分たちのことを愛してくださっている方であることを、再確認しています。

また、このお方が律法を民に与えて、それによって、ご自分の御心と導きを与えてくださったことを語っています。

この守りと教えは、共に主のなしてくださったことです。

ですから、歴史を通して主のご配慮を知り、また記された戒めを通して、主の御心を知ったのです。

また、そのことによって神の愛と恵みとを教えられて、さらに主に深く信頼して歩む者となっていったのです。

み言葉に聞き、またそれを学ぶ目的は、ここににあります。



ローマ8章26~27節

2016年07月03日 12時49分43秒 | 聖書


★ 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ローマ8章34節
★ 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。


■O:今日のコラム
ローマ人の手紙8章は神学者の間では新約聖書の頂上と言われる程、福音の奥義が明確に解き明かされている箇所です。この章全体を幾度も朗読し、御言葉の啓示を悟る時、私達の内に神の国の相続者、長子としての権威が回復されるのです。

そして、この8章に高価な宝の様に隠された長子の権利を教会が悟り、回復してこそ、次の9章から続くイスラエルの回復と救いへと繋がって行くのです。

栄光の教会。イスラエルの回復。花嫁の完成。を誰よりも切に願い、その為に全てをかけて働いておられるのは主ご自身です。

御霊なる主は弱い私達を助け、私達の重荷を背負い、私達が奴隷の霊から解放され長子として完成される様にとりなし続けておられます。

また天の法廷において告発者サタンは絶えず私達を訴えて罪に定め、天における法的な基準に基づいて合法的に私達から相続権を奪って行きます。彼が指摘する私達の罪、咎は事実だからです。

しかし。天のあわれみの御座で主イエスは弁護者として立ち、私達をとりなし、その溢れる愛により私達を悔い改めへと導き、また私達の全ての罪、咎をご自身の血潮により洗い聖め、御国の相続者として回復して下さいます。このお方の働きは真実であり、真実は事実に勝利します。

「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

主の偉大なとりなしに私達はもっと信頼を置く必要があります。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)

私達の信仰の創始者であり完成者は主イエスご自身だからです。(ヘブル12:2)

信仰さえも私達が自分の力で保っているのでは無く、主から与えられている恵みに満ちた驚くべき賜物だからです。

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)


■A:考えてみよう
ローマ人の手紙8章全体を読み。相続者、長子としての権利を得ましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月2日(土)のつぶやき

2016年07月03日 01時33分58秒 | キリスト教