座間コミニティー

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◆見よ、

2016年07月22日 16時57分38秒 | 聖書
この人だ。(ヨハネ一九・五協会訳)
 
私たちの主イエスがその民にとって最も大きな喜びと慰めになられる場所があるとすれば、それは、主が悲哀のどん底にご自身を沈められた所である。恵まれたたましいよ。来て、ゲツセマネの園におけるこの人を見よ。そのみこころを見よ。この中には愛があふれ出て、せきとめることもできない。また悲しみが満ちて、流れ出させないわけにいかない。見よ。血の汗がその全身より流れ出て地上にしたたり落ちるのを。見よ。兵士たちが主の手足に釘を打ち込むのを。罪を悔いている人たちよ。仰ぎ見よ。そして、苦しんでおられるあなたの主の悲しい姿を見よ。鮮血がいばらの冠を染め、苦難の王の冠を尊い宝石で飾っている。この人を見よ。主の骨々はみなはずれ、主は水のように注ぎ出されて、死のちりの中に入れられた。神は主を捨てられ、地獄が主を取り囲んでいる。見よ。このような悲しみがまたとあろうか。通り過ぎようとするあなたがたはみな、近寄ってこの苦悩の御姿を見よ。それはかつて世になく、人と天使にとっては驚異であり、世に比べ得るもののない御姿である。見よ。悲哀の王を。その苦悩に比べ得るものはない。嘆いている人々よ。主を見つめよ。なぜなら、もし十字架にかかられたキリストの中に慰めがないならば、喜びは天にも地にも決してないからである。もし主の血の贖いの価に望みがないとすれば、天のたてごとよ、おまえの中にはいささかの喜びもなく、神の右の御手は永遠に喜びを知らないであろう。
疑いや悲しみに悩まされることを少なくするために、私たちはどうしたらよいだろう。――さらに、継続的に十字架の下に座すのみである。私たちはただ主の悲しみさえ見ればよい。そうすれば、自分の悲しみを口にすることさえ恥じるであろう。私たちはただ主の御傷を見つめればよい。そうすれば、私たちの傷はいやされるだろう。私たちが正しく生きようと願うならば、それは主の死を熟慮することによらなければならない。もし自分が高くされることを願うならば、それは主の屈辱と悲しみを考える以外にはない。
 
 

「主をおのれの喜びとせよ。

2016年07月22日 16時56分55秒 | 聖書

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)。

願いをかなえるの前の節に、「主をおのれの喜びとせよ」がついている。
主をおのれの喜びとする人の、祈りを、心の願いをかなえて下さるということだ。

なぜなら、主をおのれの喜びとするような人は、自己中心なわがままな、自分さえ良ければよいような祈りをガンガンする事は無いからだ。

主を喜びとし、主の御心に心を沿わせて行く時に、自己本位な祈りをする事は考えられない。
自然、主の御心を求めるようになる。それゆえ、その願いは叶えられる。

又、逆に信仰生活の中で、「願いが叶えられない」事を通してよく学ぶ事ができる。
一つはもうすでに得たりで、叶えられていて、時が満ちると目に見える形でやって来るので待てば良い。

もう一つは願いが御心に沿っていなかった。
自分の核心をついた願いではなく、真に求めていると思っているが、実はそうではない事を、主は教えたい。

本当に求めているものに行き当たらせたいがために、答えを差し控えておられる。
主が「わたしに何をして欲しいのか」「よくなりたいか」と、問うて下さる時に、自分の本当の心の願いに気づく。

主の問いかけが、自分の心の奥深くの願いに焦点を当てさせる。問われた時に、今まで意識もせず、考えもしなかった領域に光が当たる。
あなたは、主に何をして欲しいのか。
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主を喜びとして行く時、自分本位の、自分、自分、という祈りから守られる。
自己中心でなく、心の中心に主を据えて、御心を求めて行くからだ。
主に向き合う事により自分の本当の姿を知り、自分が本当に求めているものを知る。



今日の聖人の記念日

2016年07月22日 09時15分01秒 | キリスト教

聖マリア(マグダラ)

1世紀

 エルサレムの裕福な家に生まれ、幼くして両親を失い、兄のラザロと姉のマルタといっしょに暮らしていたといわれる。

 自由奔放な生活をし、やがて7つの悪霊につかれて苦しみ、人々から「罪の女」というレッテルをつけられて疎まれるようになった。そのときに、イエスと出会い、悪霊からも解放され、真の愛を知って回心し、徹底して信仰の道を歩んだ。

 復活したイエスが最初に現われたのは、このマリアにであり、彼女が他の弟子たちにイエスの復活を告げた。その後は、使徒たちの宣教活動を助けて、兄ラザロとともに南フランスに流され、隠遁生活のうちに生涯を送ったといわれる。


◆誠実な歩み

2016年07月22日 09時14分05秒 | 聖書

貧しくても、誠実に歩む者は、
曲がったことを言う愚かな者にまさる。(箴言一九1)
 
世の中には、いろいろの職業の人がいますし、人にはいろいろな立場があります。若い人には若い人の生き方があり、年老いたら年老いた生き方がありましょう。どんな立場や境遇にあっても、人間として「ふさわしい生き方」を見いだしたいものです。
きょうの聖書のことばは、「誠実な歩み」を推奨しています。日本でも昔から、「心だにまことの道にかないなば、祈らずとても神や守らん」といって、まじめな生き方を高く評価してきました。しかし、いったい「誠実な生き方」「まじめな生き方」とは、どんな生き方でしょうか。自分では「まじめだ」「誠実だ」と思いこみながら、似て非なる偽りの生き方があります。
・ 自分を正しいと思いこんだ、パリサイ的自己義認の生き方。
・ 結局は、人を見さげ、非難し、人を突き落として差別する生き方。知らないうちに人を傷つけるがんこな自己主張。
これは、ルカの福音書一八章に描かれたパリサイ人の態度です。
ある時、イエスの弟子がナタナエルという人をイエスのもとに連れてきました。「あなたこそ、ほんもののイスラエル人。心に偽りのない誠実な人だ」とイエスに言われたので、彼はびっくりしました。イエスはほほえみながら「わたしはあなたが、毎日イチジクの木の下で祈っているのを見ましたよ」と言われました(ヨハネ一46―48参照)。ナタナエルは第一に、自分の悟りや力にたよりませんでした。自分を知っていたからです。第二に、いつも神を恐れ、心を尽くして神に信頼し、神に祈りました。そこで第三に、神は、ナタナエルの前にまっすぐな道を開かれました。彼は神に従って、そのまっすぐな道を歩いたのです。ここにほんとうの誠実さがあるのではないでしょうか。
 
 

◆わたしが、

2016年07月22日 09時13分24秒 | 聖書
あなたがたの夫になるからだ。(エレミヤ三・一四)
 
キリスト・イエスは、その民と夫婦のちぎりを結んでおられる。キリストは、教会が奴隷のくびきにつながれるはるか前に、教会を貞節な妻として愛をもってめとられた。主はヤコブがラケルにしたように、燃えるような愛をもって、教会の身代金がすべて支払われるまで労苦された。今や御霊によって教会を求め、教会にご自身を知らしめ、愛さしめ、小羊の婚宴において天上の喜びが項点に達する輝かしい時を待っておられる。
栄光の花婿が花嫁を完全無欠な者として父なる神の前にさし出される時は、まだ来ていない。また教会は、まだキリストの妻としての、女王としての品位を備えるに至っていない。彼女はなおわざわいの世をさまよう者であり、ケダルの天幕に住む者である。しかし彼女は、今でさえも花嫁であり、イエスの配偶者であり、主の心にいとしい者、主の目に尊い者、主の手に書き記された者、主と一体にされた者である。地上にあっては、主は教会に対して愛情を注ぎ、夫としてのすべての務めを尽くされる。主は教会の必要を豊かに備え、負債の一切を支払い、彼女にご自身の御名を名乗ることを許し、ご自身の一切の富を共有される。これ以外の方法で主が教会を扱われることはない。離婚などということばは、決して口にされない。「わたしは、離婚を憎む」と記されているからである。
いかに愛し合う夫婦でも、一方が死ねば夫婦の結合は解消する。しかしこの不朽の夫婦は、死によってすらも決して裂かれることはない。天にあっては、御使いのようにめとることはないが、一つの驚くべき例外がある。それは天において喜ばしい婚礼が行われることである。この結婚による結合は永久的であり、地上の結婚生活よりはるかに親しいものである。地上における夫の愛がどれほど清く熱烈であろうとも、それはイエスの心に燃える炎のかすかな影にすぎない。教会に対するキリストの熱愛の奥義は、すべての人間的結合を超越したものであり、そのためにこそキリストは、御父のもとを離れて教会と一体になられたのである。
 
 

ネヘミヤ記12章44-47節

2016年07月22日 09時12分01秒 | 聖書


12:46 昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。
12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代には、イスラエル人はみな、歌うたいと門衛のために定められた日当を支給していた。彼らはまた、レビ人には聖別したささげ物を与え、レビ人はその聖別したささげ物をアロンの子孫に渡していた。



 神殿で仕えるレビ人たちは、皆専属で、神殿で奉仕をする人々でした。

生活のための収入源は、基本的には民が献げる献金に寄りました。

祭司たちもレビ人からの出身者です。

神様は民に、自分たちの収穫から10分の1を主に献げることを命じました。

その献げられた10分の1を、レビ人たちの生活費に充てたのです。

レビ人も、自分たちに与えられた中から、10分の1を主に献げました。

それは祭司のために用いられたのです。

同じように、教会で専属で奉仕をする働き人の生活は、主の民が献げる献金によって維持されています。

主への感謝を持って、その人々の歩みと主への働きを支えるのです。



詩篇56篇10節(コリント人への手紙第一12章)

2016年07月22日 09時09分57秒 | 聖書


★神にあって、私はみことばをほめたたえます。
主にあって、私はみことばをほめたたえます。

■O:今日のコラム
今日の箇所であるコリント人への手紙第一12章では、御霊の賜物について語っています。
御霊の賜物は次の9つに分けられます。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。
今日はその「預言の賜物」と「霊を見分ける賜物」に注目したいと思います。

預言の賜物は人々に励ましを与えるものであり、人を建て上げるものであり、神の御体にとって、是非開かれるべき賜物であると信じます。「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(第一コリント14:1)というみことばのゆえなのか、預言の賜物は多くの人が憧れ、自分も欲しい!と多くの人が思う賜物の一つかも知れません。しかし、その中で、国や教会やまた誰か人に向かって語られる預言などは、とても注意が必要です。
第一コリント12章3節の前半、リビングバイブル訳では「ところが、いま接している人たちは、自分は神の御霊から託されたことばを語っている、と主張する人たちです。」とあります。誰でも「御霊から託されたことばを語っている!」と主張して、預言っぽいことをもっともらしく語ることが出来るので、注意が必要です。

大きな世界的な集会で、リーダー達に「皆さん、もうみことばを覚えているだろうから、聖書は持ってこなくても大丈夫です。」と呼びかけられていた、というの聞きました。集会中、みことばが開かれることはほとんどなく、預言の賜物がある(とされている)人々が思い思いに語るのです…

マタイの24章ではイエス様は終わりの時代について次のように警告を与えておられます。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:24)
敵は巧妙であり、真っ向からキリストを否定するような分かりやすい方法で惑わすことはしません。体の中に侵入して、少しずつ体をむしばむ、がん細胞の様に巧妙に徐々に人々を惑わしていくのです。ですから、イエス様が警告してくださっているように、私たちは容易に惑わされてしまうかも知れない、という危機感を持たなくてはなりません。

そこで、何が必要なのか。一つはここに記されているもう一つの賜物「霊を見分ける賜物」です。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(第一ヨハネ4:1)選民を惑わそうとする力から、教会を守るためには、この霊を見分ける賜物が必要です。是非、この「霊を見分ける賜物」も求めていきましょう。
そして、もう一つ。それは、永遠に立つ(イザヤ40:8)神のことばである、みことばの上に堅く立つことであります。
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)あらゆる時に、彼らのように熱心にみことばを調べる習慣を身につけたいと願います。

今、自分の信仰を点検してみてください。「異言で祈るのは大好きだけど、みことばを読むのはちょっと…」「私はよく幻を見ます。色々なしるしと不思議を見ると興奮します。え?みことばの裏付け?それは、特にありません…」みことばを後回しにしようとする自分の心、またあらゆる働き、集会などは注意が必要です。

先日、日本に来られたイエス様の血潮の祈りの著者アテフ先生は「長いみことばを読むことで、時間がもったいないと思わないで下さい。」「一つひとつのみことばに誉れを与えながら読んで下さい。」また「みことばへの情熱が冷めているのなら、それはイエス様への情熱も冷めていることですね。」と語っていました。
私たちは、みことばが神御自身であることをよく忘れます。詩篇の作者は「みことばをほめたたえます。」と語っています。主御自身であるみことばを愛し、ほめたたえ、尊び、昼に夜にみことばを思い巡らし、私たちのうちに蓄えるなら、惑わしの霊に対して、私たちの内にあるみことばが気付きを与えてくれます。

自分自身を見ると、みことばの蓄えの乏しさにがっかりしてしまいますが、諦めずに主御自身であるみことばを愛し続け、蓄え続けたいと願います。
そして、何より、みことばは「読む」ものではなく「主との出会い」であり「花婿との語らい」であります。みことばに聞き入りましょう。頭にいれるのではなく、たましいの糧としてみことばを開き、主の御声を聞きましょう。
今日も2章読まないと、という義務感から読むのなら本当にもったいないことです。夫婦生活がうまくいくために、ご飯はとりあえず一緒に食べないといけないから、といって義務感で共に食事をする夫婦の食卓は虚しい時間でしょう。今日、期待をもってみことばを開き、愛する方が引き寄せてくださって、語りかけて下さる声をきいていきましょう。そして、個人的な語りかけを受け取ることが出来るようになったら、もしかしたら、このデボーションガイドも必要無くなるかも知れません。


■A:考えてみよう
自分は、みことばを愛しているだろうか。時間がもったいないと思うだろうか。1日2章でさえ負担だろうか。。。これに当てはまっても、自分を責めないで下さい。それならば、まず熱心に主にみことばへの飢え乾きを求めましょう。主は飢え乾きすらも与えて下さる良いお方です!



■P:祈り
主よ、あなた御自身であるみことばを愛します。もっと愛することが出来ますよう、みことばへの飢え乾きを私の内に増し加えて下さい。あらゆる惑わし、あらゆる揺り動かしの中でも堅く立ち続けることができるよう、大水にも押し流されることがないように、信仰の破線に合うことがないように、みことばに土台を据えることを教えて下さい。


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月21日(木)のつぶやき

2016年07月22日 01時34分57秒 | キリスト教