座間コミニティー

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◆この人々は歌うたいであって……

2016年07月31日 16時56分43秒 | 聖書
昼となく夜となく彼らはその仕事に携わった……。(Ⅰ歴代九・三三)
 
宮の中において、聖なる歌が決して絶えないように定められていたのはよいことであった。歌うたいたちは、常に、とこしえにあわれみに富まれる主を賛美していたのである。主のあわれみが昼も夜も絶えなかったように、音楽もその聖なる務めをやめなかった。
私の心よ。このシオンの宮の絶えない歌は、おまえに快い教訓を与える。おまえもまた不断の債務者であり、主の愛が絶えないのと同じように、おまえの感謝を決して絶やしてはならない。おまえの最後の住まいである天国において、神への賛美は絶えることなく続いている。おまえもまた、とこしえにハレルヤと賛美することを学べ。太陽が地上に光をまき散らすように、神の光も感謝に満ちた信者を目覚めさせて朝の賛美を歌わせ、聖徒のもつ祭司としての職務によって、不断の賛美をささげさせる。彼らは、私たちの地球を感謝の衣で包み、賛美の黄金の帯で取り巻く。
主こそ、不断の賛美を受けるにふさわしい方であられる。そのご人格のゆえに。その創造のみわざと摂理、被造物に対するいつくしみのゆえに。ことに贖いのすばらしいみわざのゆえに。そしてそれから流れ出る驚くべき祝福のゆえに。
主を賛美することはいつも有益である。それは昼を楽しくし、夜を輝かせ、労苦を軽くし、悲しみを和らげ、地上の喜びに聖なる光を投じて、私たちの目が、地上の喜びによってくらまされることのないようにする。私たちは、今何か歌うべきことをもっていないのか。私たちの現在の喜び、過去の救い、あるいは未来の希望について歌い出すことができないであろうか。地は夏の果実を生じ、干し草は納屋に納められ、黄金の穀物は鎌を入れられるのを待っている。太陽はこの実り多い地上をゆっくりと照らす。夜も短くなった。しかし、私たちの心からの礼拝の時は長くありたい。
イエスの愛によって励まされて、今日の日を聖い喜びの歌をもって終えようではないか。
 
 

「すべての事について、

2016年07月31日 16時55分57秒 | 聖書

感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)

ジョニーという有名な人がいる。
水泳の飛び込みで、脊髄を痛めた。九死に一生を得たが、一生身体は動かないと宣告された。
死を願った。鏡に映る姿はとても人間ではない。

窪んで落ち込み血走りどんよりした2つの眼球。
36キロの身体は、黄疸になり黄色い皮膚に覆われた骸骨だ。

太った頭は不気味であり、話をする時見える歯も薬物治療のため黒くなっている。
とても生きて行けない。が、周囲に励まされて行く。

「神がどう見ておられるかが大切。人がどう見るかは重要でない。気にするな。
人の基準で自分を見ると、負け犬にしかならない。
神からの価値だけを考えよう」自分が、神の似姿である神の作品だという事に目が向いた。

自分の動かない身体、自分の格好、自分の能力、出来る事、出来ない事、自分で自分がどう見えたとしても、自分の事を神に感謝する事にした。

感謝を献げ続けていると、パズルのように、すべてのものをふさわしい所に置くよう助けられた。
より良く神に仕える事ができ、より幸せになれるように、神がこの身体を与えられたと理解できた。

こうでなかったら確実に人生最後まで自己中心に生きていたであろうと。
神が特別干渉して下さった事に心から感謝した。

今、幸せそのもので、他のものに変えたいと全く思わない。
感謝する事は、つまり神を認める事だ。その時、神は自由に働く事がおできになる。
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他のものに変えたくない自分であったり、環境だと感謝しているだろうか。
人がどう見るかで生きる者から、神様が下さったポジションを感謝していく者へと変えられたい。


今日の聖人の記念日

2016年07月31日 12時58分38秒 | キリスト教

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

1491年ごろ-1556年

 イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。

 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人々の必要のために働いている。


◆人の計画・神の計画

2016年07月31日 12時57分21秒 | 聖書

人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言一九21)
 
ナポレオンは、実にちみつな計画を立てた人だったそうです。ワーテルローの戦いに臨んだ時も、一点の非の打ち所もないプランを立てていました。しかし、その日に朝から降った大雨のために、十二分に立てられたそのはかりごとは、ついえ去りました。ナポレオンとその軍隊は敗れ、ついに、その敗北から立ちあがれなくなったそうです。人が、人の力によって人のために立てる計画とは、そんなものではないでしょうか。むなしいものです。
しかし、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言一六9)と聖書は言います。どうせなるようにしかならないんだ、そんなやけのやんぱちからは、何の祝福もよいことも出てきません。どうすれば、主から祝福を受けることができるでしょうか。
第一に、自分の考え・願い・計画を祈りの中で神の前に持ち出し、神に相談してみることです。神に正し、力づけていただくのです。
第二に、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ一二3)とパウロが述べたすすめに従うことです。
第三に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二13)とあるように、神に与えられた志を働かせそれを実践していくことです。神は私たちに、その時々にその力をも与えてくださいます。いいえ、成し遂げてもくださるというのです(ヘブル一三21参照)。
これが、祝福を受ける理想的な姿ではないでしょうか。
 
 

◆わたしは彼らにおり……。

2016年07月31日 12時56分26秒 | 聖書
(ヨハネ一七・二三)
 
このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。
 
 

エステル記1章10-12節

2016年07月31日 12時54分53秒 | 聖書


1:11 王妃ワシュティに王冠をかぶらせ、彼女を王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。
1:12 しかし、王妃ワシュティが宦官か
ら伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。



 アハシュエロス王には、ワシュテイという王妃がいました。

その彼女も、訪れてきた客人の夫人たちを接待するために、祝宴を催していました。

初めの事件が起こったのは、この時です。

 王は酒に酔った時、自分が自慢したい人を客人に見せたくなりました。

それは王妃でした。

彼女は大変美しかったようです。

そこで王は彼女を客人たちに見せ、その美しさを自慢したいために、彼女に王冠をかぶらせて更に美しく見せることにして、彼女を宴会の席に呼んでくるように命じたのです。

ところが、王妃はそれを断りました。

自分も宴会で忙しく、王の宴会に行くどころではなかったからです。

王は激しく怒りました。


第一テサロニケ5章6節

2016年07月31日 12時51分26秒 | 聖書


★ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまし、慎み深くしていましょう。

■O:今日のコラム
おはようございます!7月30日(土)の朝です。

今の時代、暗闇の勢力が今までにないほどに強まっています。私達は、本当に目をさましていなければ暗闇の勢力に飲み込まれてしまいます。
なぜなら、サタンは吠えたける獅子のように、わたしたちを食いつくそうとしているからです。

エノクさんもそのような時代にある中で、目をさまし、主の臨在の中で、主と共に歩み続け、あまりにも親密であったが故に、生きたまま天に引き上げられました。

「エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)

主の臨在の中で過ごす時、私たちは目をさまし、本当の真理を悟ることができます。世の現状に葛藤を覚えていたアサフさんもそうでした。

「私は神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)


私たちがこの終わりの時代において、信仰を守り、主の臨在の中で、目をさまして歩むならば、天の御国にただ入るのではなく、私たちは義の栄冠を受けとることができます。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されています。」(第二テモテ4:7~8)

救われている私たちは天の御国に入ることが約束されています。しかし、そこで満足したくはありません。この時代において、主の臨在の中で主と出会い続け、天の御国において、永遠の実を結び、義の栄冠を受け取りたいと願います。

そのためには、一日たりとも無駄な時間はありません。周りの状況に目を向けるのではなく、主だけに集中していきましょう!
エノクさんのように毎日主との親密さの関係に入り、目をさまし、天の御国での豊かな永遠の実、義の栄冠を勝ち取っていきましょう!

そして、天に引き上げられる時、ただ、私は役に立たないしもべで、なすべきことをしただけですと主に言いたいです!

■A:考えてみよう

毎日の様々な葛藤の中で、主の血の注ぎかけを受けて、まことの聖所に入り、主との親密さの中で、目をさましていましょう。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(ヘブル10:19)



■P:祈り




イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月30日(土)のつぶやき

2016年07月31日 01時35分50秒 | キリスト教