座間コミニティー

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◆父がわたしにお与えになる者はみな、

2016年07月29日 16時59分43秒 | 聖書
わたしのところに来ます。(ヨハネ六・三七)
 
この宣言のみことばは、選びの教理を含む。父なる神がある人々をキリストに与えられるのである。それは、「有効召命」の教理を含む。与えられた人々は必ず来なければならず、また事実来るのである。彼らがいかに頑強に抵抗しても、暗やみの中から神の驚くべき光の中に導かれる。それは私たちに、信仰が欠くことのできないものであることを教える。キリストに与えられた人といっても、イエスに来るのでなければ救われないからである。キリスト・イエスという門を通る以外に、天国への道はない。父なる神が私たちの贖い主に与えられた者は、すべてそのみもとに来なければならない。したがって、キリストに来なければ、だれも天国に入ることはできない。
おお、この「来ます」ということばの含む力と尊厳よ。主は、彼らが来る力をもっているとも、来ることを欲するなら来ることができるとも言っておられない。「来ます」と言われる。主イエスはそのための使者であられる。みことばと御霊により、人々を穏やかに優しく、来ないではおられないようにさせて、婚礼の晩餐を食べさせてくださる。そしてこのことを、主は人間の自由意志を妨げることなく、恵みの力によってなさる。ある人の意志を私が支配しても、その人の意志は完全に自由であることがある。その時は強制が人間の心の法則に従って働くからである。イエスはこのことをご存じで、反抗できない議論をもって理解力に訴え、力強い理由をもって情に訴え、たましいのすべての力と情の上に不思議な聖霊の力を及ばせて、人を全く征服される。かつて反抗していた人も、愛によって征服されて、喜んで主のご支配に従うようになる。
しかし、神に選ばれた人であることをどのようにして知ることができよう。それは結果によって知ることができる。彼らが喜んでキリストを受け入れ、単純な偽りのない信仰をもってみもとに来て、救いのすべて、願いのすべてとして、主に憩うことによって。友よ。あなたはこのようにイエスのみもとに来た。
 
 

「主のことばを聞け・・

2016年07月29日 16時58分38秒 | 聖書

この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ」(ホセア4:1)

人にとって大切なもの、必要なもの、無くてならないものは、「真実」と「誠実(愛)」と「神を知ること」だとホセアは言った。

これが無くなる時、のろい、欺き、人殺し、盗み、姦通、流血につぐ流血、すべての秩序は乱れ、崩壊すると。

出エジプト以来、イスラエルの民は、豊かさを求める余り、まことの神より、偶像であるバアルに惹かれて行った。
創造主を礼拝して生きて行くのではなく、神を自分の欲望、自分の幸せを得る手段にしてしまっていた。

神はそんな民を「わたしの子をエジプトから呼び出した…呼べば呼ぶほどいよいよ遠ざかり」「エジプトにいた時から、あなたの神、主」「エジプトから連れ上り」繰り返し、繰り返し、出エジプト・イスラエルの原点を思い起こさせ、原点に引き戻そうとされる。

「荒野に連れて行き、やさしく語ろう」
目に見えるもの、富、名誉、地位、賞賛、それらに惑わされて、それらを追求する生き方でなく、荒野の全く何も無かった所に、原点に戻り、本当に大切なものを見失わないようにと。

私たちも何に目が向き、何を求めているだろう。
「アコルの谷を望みの門に」富に執着したアカンは、アコルの谷で滅ぼされた。
神以外の、目に見えるものを求め、執着する心を明け渡す時に、「真実」「誠実」「神を知ること」に初めて目が向いて行く。

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もっと主に満たされること、ご愛を知ること、主を知ることを妨げているのが、自分が握りしめている宝、偶像だ。
しかし、神は、どこまでも呼び続けて下さっている。
御声をかけ、やさしく語りかけておられる。
握っているものに気づけるように。


聖光会へお越しください

2016年07月29日 15時33分14秒 | 聖光会

他の教会で、誰にも話しかけられず挨拶もないで教会から遠ざかった、祈っても礼拝にも行っているのに一向に病気や不幸現象が消えない。

悪魔や悪霊の話ばかりしてイエス様の勝利の宣言が語られていない礼拝。

牧師が私物化している教会。

おなたは思い当たりませんか?

是非聖光会へお越しください。

080-3244-1573


今日の聖人の記念日

2016年07月29日 06時59分04秒 | キリスト教

聖マルタ

1世紀

 イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。


◆借り手・貸し手

2016年07月29日 06時57分52秒 | 聖書

寄るべのない者に施しをするのは、
主に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。   (箴言一九17)
 
韓国のすばらしい牧師で、清らかで力強い生活と働きをしている方が、こう言われたのを忘れることができません。「報いを望まないなんて、人間としてうそっぱちです。私は、やがて神さまからたくさんほめていただきたい、輝かしい冠をもらいたいのです。」そういえば使徒パウロも、「私は神から冠をいただく日をめざして一心不乱に走っています」と言いました(ピリピ三14参照)。私たちには、地上の人の報いを求めて生きるか、天の栄光ある神の報いを求めて生きるかの、二つに一つの生き方があるのではないでしょうか。そして私たちの多くは、あまりにも地上の褒賞ばかりを求めすぎるのではありませんか。
イエスは、街角に立ってラッパを吹き、自分の善行をひけらかすようなパリサイ的やり方をきらわれました。かえって、右手がしたことを左手に知らせるなと言い、また、お返しができないような飢えた者や渇いた者に、一かけらのパンや一杯の冷たい水をあげること、それこそ「わたしにしてくれたのだ」と言われました。そして、そのような人が受ける天での栄光に満ちた報いを語られたのです。
リビング・バイブルは、この箇所を「貧しい人を助けるのは神に貸すのだ。神は、すばらしい利息を払ってくださる」(英訳)という意味に訳しました。
寄るべのない人・貧しい人・病める人・困っている人が最後的に苦しんでいるのは、見捨てられた孤独と、愛されず必要とされていない苦しさです。あなたがそんな人の隣人になり、その人をも神は必要で生かしていてくださるのだと、あなたの無言の愛で分からせてあげることこそ、主に、貸しをつくるのです。そして、あなたが受ける天での報いは大きいのです。「あめにたから つめるものは げにもさちなるかな」と、讃美歌は歌います(讃美歌五一三番)。
 
 

◆しかし私は絶えずあなたとともにいました。

2016年07月29日 06時57分01秒 | 聖書
(詩篇七三・二三)
 
「しかし」――アサフが神に告白したすべての愚かさと無知にもかかわらず、彼が救われ、受け入れられ、常に神の御前にある恵みを得ていたことは真実であり、確かである。自らの招いた損失と、心の虚偽、下劣さを十分に意識しつつも、なお輝かしい信仰の力により、彼は「しかし私は絶えずあなたとともにいました」と歌った。
主にある友よ。あなたはアサフの告白と感謝に入らなければならない。彼と同じ精神で、「しかし、私はキリストのものであるので、絶えず神とともにいました」と言うように努力しなければならない。
これは次のことを意味する。すなわち、私が常に主のみこころの中にあること――主は常に私のことを思い、私の益を図っておられるということ。次に、常に主の目の前にあること――主の目は決して眠ることなく、いつも私の幸いを見守っておられるということ。そして、何者も私を奪うことができず、絶えず私は主の御手の中にあること。祭司長が不断に十二の部族の名を胸につけていたように、常に主の心に記念として刻み込まれていることである。
おお、神様。あなたは常に、私をみこころに留めてくださっています。あなたの愛の心は絶えず私をあわれんでくださいます。あなたは常にその摂理により私の益を図ってくださいます。私を封印のようにあなたの腕につけてくださいます。
驚くべき恵み! 神様。あなたはキリストの中に私を見られます。そして私は軽蔑すべき者であるのに、私をキリストの衣をまとい、キリストの血で洗われた者として見てくださいます。こうして私は御前に受け入れられて立ちます。このように私は常にあなたの恵みの中にあり、「絶えずあなたとともに」います。
ここに試練と患難の中にあるたましいへの慰めがある。
「しかし」――友よ。このことばを心の中で言え。そしてこのみことばの与える平安を受け入れよ。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」
 
 

ネヘミヤ記13章28-31節

2016年07月29日 06時55分42秒 | 聖書


13:30 私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、
13:31 定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。



 ネヘミヤはエルサレムの城壁を修復したりして、町の再建の働きをしました。

そして、その修復の完成を見た時、そられを主に献げる奉献式をしました。

しかし彼が同時にしたことは、こうした外面のことだけではなくて、その民の心が、主の戒めを大事にして、主の御心に従うようにさせるという、心の改修もしたのです。

 彼はそのために、民の生活を改めるように導きました。

それだけではなく、神殿で仕える祭司やレビ人たちの、汚れを取り除く働きもしました。

そして、特に主への奉仕者が異教的なことから離れ、主の求められるあり方で奉仕をするように、様々な規定を作りました。

彼は心身共に、主の民として主の前に清く生き、奉仕をするということを求めて働いたのです。

それがネヘミヤの働きでした。


詩篇63篇2節(テサロニケ 第一 3章)

2016年07月29日 06時53分45秒 | 聖書


★私は、 あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、 あなたを仰ぎ見ています。

■O:今日のコラム
主は旧約時代、聖所から語りかけられました。
聖所はモーセの幕屋に於いてはテントの中にあり、後の神殿の時代では建物の中にありました。
主の臨在が現れる場所、それが幕屋であり、その中心は聖所です。

ダビデはこの詩篇をどこで歌っているのでしょうか。それは、この詩篇の冒頭に書かれています。

「ダビデの賛歌。 彼がユダの荒野にいたときに」

そうです。荒野のまっただ中、そして、敵に追われている中で歌われた詩篇です。普通に考えれば荒野にいて敵に追われているという状況は、絶望的な状態です。しかし、ダビデはそこを聖所と呼びました。

この詩篇63篇全体は、ダビデの主に対する強烈な飢え渇きの詩篇です。その飢え渇きはダビデのように、荒野で敵に追われた時にやってくることがあります。
みなさんもそうではないでしょうか。仕事で、家庭で、学校で、窮地に追い込まれた時、すがるような思いで「主よ!」と祈った経験はないでしょうか。それが主への飢え渇きです。

私たちがこの地上にいる限り、私たちの前から敵はなかなか完全には消え去りません。イエス様も弟子たちにこのように祈っています。

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、 悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネの福音書 17:15)

私たちがどんな状況にあろうとも、私たちは主の御翼の陰で喜び歌うことが出来ます。主の恵みはいのちにもまさるゆえ、このくちびるは、主を賛美し続けます。主を喜ぶことは私たちの力です。

最も絶望的な状況こそが、私たちの聖所になります。ただ主にだけ信頼し、今日一日も救いの達成を目指して歩んでいきましょう。

「たとい、 死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。 」(詩篇23:4a)


■A:考えてみよう
自分には主に対する飢え渇きはあるだろうか。仕事や家庭や学校、人間関係などの問題に押しつぶされそうになっていないだろうか。
もしそうならば、そのところがあなたの聖所です。主はその只中にいて下さいます。目の前にある問題を認識しつつも、見上げ続けるのはただ十字架のみです。
また、そのような状況になくても、「主よ、私に飢え渇きを下さい」と求めていこう。主に対する飢え渇きは、私たちをみことばに導き、また祈りへと進ませます。
毎日の生活を見返して、聖書を読むことができていない、また、祈ることができていないなら、もしかしたら主に対する飢え渇きが足りないのかもしれません。
主の愛は炎のように燃える愛です。命をかけた愛です。そのような主の本当の愛をみことばから悟り、主の愛に応えていくことができますように。


■P:祈り
主よ、ダビデが持っていたような飢え渇きを下さい。主を慕って気を失うほどの強烈な飢え渇き与えて下さい。私は神の子です。であれば、気前の良い天のお父さんは願った以上のものを与えて下さいます。この世のものは入りません。私が欲しいのはただ主よ、あなたです。この命が果てるまで、私は主を求め続けます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


7月28日(木)のつぶやき

2016年07月29日 01時35分36秒 | キリスト教