友よ。あなたがどんな人であっても、また教育がどうであろうと、哲学化された神学では、決して安息は見いだせないことを心に留めよ。あなたは、ある偉大な思想家の説を受け入れ、また他の深遠な推論家の夢を受け入れるかもしれない。しかし、もみがらは穀物に比べて何であろうか。これらの説は、純粋な神のみことばに比べればもみがらのようである。正しい筋道を通っても人間の理知が得るものは、真理の初歩にすぎない。そして、それすら確かさを欠いている。しかし、キリスト・イエスの中には、すべての知恵と知識が満ちあふれている。クリスチャンがユニテリアン(イエスが神であることを否定する教派)や広教会(英国教会の中の自由主義)の思想体系で満足しようとする試みは、すべて失敗する。
しかし天国の真の相続人は、農夫の子の目をも喜びに輝かせ、敬虔な貧しい者の心をも喜ばせることができる。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」この雄大にして単純な事実に帰るべきである。イエスを信じて受け入れる時、最も高度の理知でも満足するのである。しかしイエスを離れては、新生した心は安息を見いだすことができない。
「主を恐れることは知識の初めである。」「これを行なう人はみな、良い明察を得る。」