罪赦された人でも、「もし最後の時に私の罪が記憶されていて、私の名が救われた者の名簿から落とされたらどうしよう」と言う。彼は、現在実を結んでいない状態を思い、前途をながめて、自分の弱さと前に横たわる多くの誘惑のために、倒れて敵の
罪赦された人でも、「もし最後の時に私の罪が記憶されていて、私の名が救われた者の名簿から落とされたらどうしよう」と言う。彼は、現在実を結んでいない状態を思い、前途をながめて、自分の弱さと前に横たわる多くの誘惑のために、倒れて敵の
すると彼のからだは元どおりになって…きよくなった」(Ⅱ列王5:14)
ナアマンと言えばプライドで有名だが、らい病を癒してもらうために、エリシャを訪れた。
しかし、将軍自ら訪ねているのに、エリシャは会う事もせず、使いの者に伝言した。
ナアマンはプライドを傷つけられた。
ましてや、手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗えと。
それを聞いて、ダマスコにもっと良い川があると怒った。
ひどくプライドが傷つけられたからだ。
神はこのナアマンのプライドをご存じで、エリシャを通して、砕こうとされた。
自分はいっぱしと思い、人よりはかなりましと思い、自分の思いに神を従わせようとする態度は、ナアマンだけだろうか。
人間のプライドは、神の恵みと相容れるところが全く無い。
神はナアマンに、真の救いを、真の癒しを与えるがために、そのところをあえて通された。
彼の高いプライドが取り扱われる必要があった。
しもべ達がナアマンに進言した。
難しい事を言われたなら、プライドが保てた。
しかし、余りにも簡単で、又、人々の目にさらされる状況にプライドが許さない。
だが、とにかく言われる通りしてみたらいかがなものかと。
ナアマンはその忠言に耳を傾け、プライドを捨てて、従った。
すると完全に癒された。あなたも今、プライドを捨て、自分の思いを捨てて、御言葉に従うように、御霊に促されていないだろうか。
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プライドはやっかいだ。罪を、弱さを認めさせない。
又、プライドゆえ突っ張り、へりくだれない。
自分が神だ。そんな自分が、御霊の示しに従う時、御霊は助けて下さる。
その時、自我が砕かれ、神の愛を知り喜びが満ちる。
あなたを生んだ父の言うことを聞け。
あなたの年老いた母をさげすんではならない。(箴言二三22)
聖書は、徹底的に、「父を敬い、母を敬え」と言っています。しかしこの世には、父を敬えない人が実に多くいるのではないでしょうか。私の知っている女性は、母といっしょに、小さい時に父に捨てられました。やっと高校を出て、銀行に就職しましたが、職場で得た男友達からも、肉体をもてあそばれた上で捨てられたのです。彼女は、徹底的に男性不信に落ち入り、自分の生涯の目標を男に、父親に復讐することに決めてしまい、みじめな人生を送るようになりました。
私自身も、争いの絶えない家庭にあって、父を尊敬できなかった者です。父を憎み、父を抹殺したい思いすらありました。この父の子として生を受けたことをのろいました。
しかし、そんな父を徹底的に愛し、そんな私を徹底的に愛してくださる神を知りました。神の愛は、すばらしいから愛するとか、よくやっているから愛するというのではありません。罪深い弱い者も愛し、生かしてくださいます。私の父を通して、私をこの地上に生かしてくださった神とその愛を見いだした時、人間の尊敬とか愛とかの背後にある、運命的ともいうべき崇高なものが分かるような気がしてきました。そして、父のために祈っているうちに、父のよさが分かり、その偉大さが分かり、父の人間性がだんだんと分かってきて、私の心に、父を敬う心がわいてきたのです。人の親となって、自分もけっして尊敬される資格のある父親でないことが分かると、いよいよ父を慕い敬う気持ちが尊く分かるような気がするのです。
老人をさげすみ、自分の親をさげすむ生き方は、その終点が、自分もまたさげすまれ孤独となる確かな道ではないでしょうか。「父を敬う」道は、神を恐れ神を愛し従う道と、もとが一つであるような気がするのです。
彼らをわたしの喜びとし……。(エレミヤ三二・四一)
神が聖徒を喜ばれ、愛してくださるとは、信者にとってなんという慰めであろう。主はなぜ私たちを愛されるのか。その理由を私たちは自分の中に見いだすことはできない。私たちは自分自身を喜ぶことはできないのである。しばしば重荷にあえぎ、自分の罪深さを意識し、自分の不誠実を嘆かなければならないからである。さらに私たちは、神の民が私たちを喜ばないのではないかと恐れる。彼らは私たちの多くの不完全さと愚かさを見て、私たちの徳を賞賛するよりも、むしろ欠点を嘆くに違いないからである。しかし私たちは、次のすばらしい真理、輝かしい奥義を考えることを喜ぶ。それは、あたかも花婿が花嫁を喜ぶように、主が私たちを喜んでくださるということである。
天使すら神をお喜ばせするとは記されていない。また神が、ケルビム、セラフィムについて「あなたは『わたしの喜びは、彼女にある。』と呼ばれ……主の喜びがあなたにあり……」と言われるとも記されていない。しかし神は、それらのことばを、私たちのようにあわれな堕落した被造物、罪により下劣な者となり腐敗した者となったのに、恵みにより救われ、高められて栄光を与えられた者にお語りになる。なんと強いことばをもって、神はその民に対する喜びを表しておられることか。永遠の存在者である方が感極まって歌われたのだと、だれが考えることができたであろう。しかし、「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と記されている。神はご自身の造られた世界を見て、「非常によかった」と言われた。しかし神が、イエスの御血によって贖われた者たちを見、ご自身の選ばれた者たちを見られた時、その無限の心を抑えることができず、歓喜の叫びをあげられたように思われる。
このような驚くべき神の愛の宣告に対して、私たちは感謝の応答をなし、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と歌うべきではないか。
13:2 イスラエルの全集団に向かって、言った。「もしも、このことが、あなたがたによく、私たちの神、【主】の御旨から出たことなら、イスラエル全土に残っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう。彼らのうちには、放牧地のある町々の祭司やレビ人もいる。彼らを私たちのもとに集めよう。
13:3 私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」
ダビデは、自分が王となることが民全体の望みであり、又それが主の御心から出たことであるならば、一番にしたいことがありました。
それは、各地にいるレビ人を集めて主を礼拝することを守らせると共に、今は他の所に置かれている神の箱を、自分たちの所に運んでこようということでした。
主の箱を自分たちの所に置くということは、主が共にいてくださるということの印であり、又、自分たちはその主をのみ礼拝するということを示すことでもありました。
王として第一にしたいことは、主をあがめる者となるということだったのです。
★しかし、あなたは大いなるあわれみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから。
■O:今日のコラム
あわれみとは何でしょうか。
私たちの主はあわれみ深い神様です。このお方がどのようなお方であるかを知る時に、あわれみとは何か、を知ることができます。
イスラエルの民は神様に反抗し続けました。けれどもそのような記事の後に必ず書かれていることは
「それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く…(17節)
「あなたは、大きなあわれみをかけ…(19節)
「あなたの大いなるあわれみによって…(27節)
「あなたのあわれみによって、たびたび彼らを救い出されました…(28節)
「それでも、あなたは何年も彼らを忍び…(30節)
神様の愛とあわれみは、彼らを何度となく赦し、救い出し、ご自身のもとに立ち返るチャンスを与えてくださいました。
神様は、愛とあわれみとに満ちた神様です。だから、それをせずにはいられないのです。彼らを愛し、何度裏切られても忍耐し、帰ってこないご自分の子を待ち続けておられるのです。
ここから分かるのは、私たち自身も、この神様の愛とあわれみによって救われたということです。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)
私たちは、私たち自身の力によって救われたのではありません。信仰さえも、主が与えてくださいました。
恵みというのは、ふさわしくないものに注がれるから恵みです。この主のはかりしれない恵みを受ける時、私たちの心には主への感謝が溢れます。そして、主の御前に出る時、へりくだる心へとつくり変えられます。
ただ一方的な主の恵みとあわれみ、このお方の愛と真実さによって、私たちは救われたのです。
裁きにまさるのが「あわれみ」です。主のあわれみは、取引の心なしの無条件の「愛」だということを覚えたいと思います。
あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(ヤコブ2:13)
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌3:22)
■A:考えてみよう
1. 自分の行いによらず、主の愛とあわれみ(を受け取ること)により、救いの確信を毎日受け取る。
2. 罪に対する麻痺から回復する。
私たちは日々の生活の中で罪に対して痛みを感じているでしょうか。主の恵みにより、罪に対する感覚が麻痺していないでしょうか。
主はあわれみと恵みによって最終的にはゆるしてくれるから…と、罪に対して痛みを感じずに罪を軽んじ、罪に対して妥協してはいないでしょうか。
「神様は最終的には赦してくださる」という確信のもとに、罪を犯すことに心を痛めなくなること、これこそ最大の悲惨です。
主のあわれみ、主の愛の大きさを知る時、私たちはこのお方を悲しませたくない、と思います。
もし罪に対して心が麻痺しているのであれば、今日神様に正直に告白しましょう。あなたが私を愛して下さったその愛ゆえに、あなたを愛するがゆえに、私が罪を憎むことができますように、と祈りましょう。
イエス様は罪人を招くためにこの地上に来てくださいました。このお方の愛とあわれみを、今日も受け取りましょう。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)
■P:祈り
愛する神様、あなたの愛を感謝します。
あわれみ深い神様、あなたの恵みを感謝します。
あなたの無条件の愛、一方的な恵み、あわれみによって、今日も私は罪赦され、救いの喜びと永遠の希望が与えられていることを感謝します。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます。(詩篇130:3.4)
どうか今、私の心を探ってください。罪を犯すことに対して心を痛めない私がいます。イエス様の十字架の血潮によって私を癒し、この心を回復させてください。あわれみ深い神様、私をあわれんでください。
今日1日の中で、あなたが喜ぶことを行い、あなたが私を愛して下さったその愛ゆえに、あなたを愛するがゆえに、あなたが悲しまれること、忌み嫌われることを、聖なる怒りをもって憎むことができますように。
あなたの愛とあわれみの心を受けて、私も愛とあわれみの心を持って歩むことができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
聖マタイ使徒福音記者
1世紀
マタイは、カファルナウムの町で、ユダヤの徴税人として働いていた。当時の徴税人は、ローマの手先となって同胞からお金を取る者として、罪人とみなされ人びとから疎まれていた。ある日、収税所の前を通られたイエスから「わたしに従いなさい」と声をかけられてイエスに従い、12使徒の一人となった。
マタイは、福音書を当時のユダヤ社会で使われていたアラマイ語で著わし、旧約の預言がキリストにおいて実現されたことを主張し、キリストが真の救い主、神であることを強調した。特にイエスの言葉を「山上の説教」として系統だててまとめている。その後、マタイがどのような足跡をたどったかは明らかでないが、エチオピアで殉教したとされている。