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◆キリストは、

2015年09月25日 17時02分28秒 | 聖書
私たちにとって、神の知恵となり……。(Ⅰコリント一・三〇)
 
人の知性は安息を求めているが、生来、それを主イエス・キリスト以外に求めようとする。教育を受けた人に至っては、回心の後においてすら、キリストの十字架の単純さを、尊敬と愛をもって見ようとしない傾向がある。昔ギリシヤ人が捕えられた古い網にからまれており、哲学と啓示とを混同しようとしている。洗練された思想をもち、高度の教育を受けた人の陥りやすい誘惑は、十字架にかかられたキリストの単純な真理から離れ、いわゆるもっと理知的な教理を作り出すことである。このため、初代教会にグノーシス主義が入り、さまざまな異端がはびこった。これがネオロジー(新教義)となり、かつてドイツで流行し、今もある神学者をわなに陥れている種々の異説となった。
友よ。あなたがどんな人であっても、また教育がどうであろうと、哲学化された神学では、決して安息は見いだせないことを心に留めよ。あなたは、ある偉大な思想家の説を受け入れ、また他の深遠な推論家の夢を受け入れるかもしれない。しかし、もみがらは穀物に比べて何であろうか。これらの説は、純粋な神のみことばに比べればもみがらのようである。正しい筋道を通っても人間の理知が得るものは、真理の初歩にすぎない。そして、それすら確かさを欠いている。しかし、キリスト・イエスの中には、すべての知恵と知識が満ちあふれている。クリスチャンがユニテリアン(イエスが神であることを否定する教派)や広教会(英国教会の中の自由主義)の思想体系で満足しようとする試みは、すべて失敗する。
しかし天国の真の相続人は、農夫の子の目をも喜びに輝かせ、敬虔な貧しい者の心をも喜ばせることができる。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」この雄大にして単純な事実に帰るべきである。イエスを信じて受け入れる時、最も高度の理知でも満足するのである。しかしイエスを離れては、新生した心は安息を見いだすことができない。
「主を恐れることは知識の初めである。」「これを行なう人はみな、良い明察を得る。」
 
 

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