座間コミニティー

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◆イエスは言われた。

2015年09月23日 17時40分33秒 | 聖書
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ九・二三)
 
ある人の息子が悪霊につかれていた。その父は、弟子たちが息子をいやすことができないのを見て、キリストに対してもほとんど、あるいは全く信仰をもっていなかった。だから、イエスが子どもを連れて来るように命じられた時、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言った。あわれな震えおののく父は、この「もし」ということばの置き場所を間違えた。そしてイエス・キリストは、「もし」を取り消すことをお命じにはならず、正しい場所に置かれた。イエスはこのように言おうとしておられたようである。「わたしの力、またはわたしが喜んでなすことに関して『もし』はいりません。『もし』は別な所につけるのです。もしあなたが信じることができるならば、信じる者には、どんなことでもできるのです」と。父親の信頼は強められた。彼はへりくだって、不信仰な私をお助けくださいと祈った。イエスがただちにことばをかけられると、汚れた霊は追い出され、イエスは二度と入るなと命じられた。
ここに私たちの学ぶべき教えがある。私たちはこの父親のように、常に「もし」を誤った場所において失敗をくり返す。もしイエスが私を助けられるなら、もし誘惑に勝つ恵みを与えられるなら、もし私に赦しを与えられるなら、もし私を成功させられるなら、と。しかし、もしあなたが信じることができるならば、主はなすことがおできになるのであり、むしろ、なすことを願っておられるのである。あなたは「もし」を間違った場所に置いている。あなたが大胆に信頼することさえできるなら、すべてがキリストにとって可能であるように、あなたにとってすべてが可能なのである。
信仰は神の力の中に立ち、神の尊厳をまとう。王の衣をまとい、王の馬に乗る。それは王があがめられることを喜ぶ恵みだからだ。すべてをなしてくださる聖霊の栄光に取り巻かれつつ、それは神の全能にあって大いなることをなし、勇敢に立ち向かい、力強く耐える。信じる者はすべてを無制限にすることができる。
 
 

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、

2015年09月23日 17時39分38秒 | 聖書

 

もうそれ以上は何も言わなかった」(ルツ1:18

飢饉の時に、ナオミは神に期待するのでなく、肉の思いで判断した。
約束の地を離れ、偶像の地モアブに糧を求めて移住した。
食物は豊かで、快適で、やはり来て良かったと思った事だろう。
ところが夫と二人の息子が死んでしまった。
家庭の幸せのために来たはずが、その家庭自体を失ってしまった。
元も子もない。そんな時、故郷が今や豊作と聞き、思いが募り、帰郷を決心する。
神の語りかけだ。人は窮地に陥り、真剣に神に向かう。
裏返せば、窮地でないと真剣に神を求めない。
何と大きな痛手を受けた事だろう。
満ち足りて出たが、素手で帰る事になる。
それも辛い中を通って。
富、繁栄、名誉地位を求めて神を離れても何の平安もなく虚しい結果を招く。
神に帰るナオミに、すべてを失ってしまったナオミに、神は尚も素晴らしい恵みを備えておられた。
ルツだ。ルツを与えて下さった。神の約束を信じないで、約束の地を離れ、目の前の美味しい草を求めて、道をそれて行ってしまう。
しかし、神の憐れみは尚も尽きず、すべての事を働かせて、まさに益として下さるお方だ。
私達も失敗に関わらず、尚も憐れみ、ルツを備えて下さった経験があるだろう。
次に、苦難が来た時にはモアブへ逃げないで、とどまって神を信じ続けよう。
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苦難の中を肉の思いで逃げるのではなく、そこがみこころなら神様と共に通り過ぎよう。
必ず神様の道が備えられている。
幸せは、いつも神様の御そば近くにいることだ。

今日の聖人の記念日

2015年09月23日 06時57分36秒 | キリスト教

聖テクラおとめ

1世紀

 テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。

 そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。

 この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。

 その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。

聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

1887年-1968年

 フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。

 修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。

 ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。

 ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。

 1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。

 1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。


◆真 理 を 買 え

2015年09月23日 06時56分08秒 | 聖書

真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。       (箴言二三23)
 
私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。
 
 

◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。

2015年09月23日 06時55分05秒 | 聖書
(エペソ一・六英訳)
 
なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは!
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。少なくとも、彼らはそう理解している。たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。
 
 

第1歴代誌14章13-17節

2015年09月23日 06時53分03秒 | 聖書


14:16 ダビデは、神が彼に命じたとおりにし、彼らはギブオンからゲゼルまでのペリシテ人の陣営を打った。
14:17 こうして、ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。



 ヒラムの王がダビデをイスラエルの王であると認識したのに対して、ペリシテ人はそのような認識を持ちませんでした。

反対に、ダビデを受け入れる代わりに、彼を陥れようとして戦いに出ました。

主は、その折りにダビデに知恵を与えて、戦いに勝つべき道を示されました。

その結果、ペリシテ人の陣営を討ち滅ぼすことが出来、ダビデの名声は多くの国々にさらに広がることになりました。

こうして、神様は御自身が王として立てられたところの人に対して、力と守り、また知恵を与えて、彼を自国民のみではなく周りの国々に対しても、彼こそが主が立てた真の王であるという認識をもつようにされたのです。

それは、主がダビデを用いて主の御心を行わせるためであり、またその結果として、ダビデの働きを通して、イスラエルの民が主の力と恵みを知るためでありました。



エステル1:12(エステル1:10-20参照)

2015年09月23日 06時50分37秒 | 聖書


★しかし、王妃ワシュティから伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。

■O:今日のコラム
王妃ワシュティは、王の前に来るようにという王の命令を拒否しました。

そして、王の命令に従わなかった王妃ワシュティの行為は、王を尊敬せず、軽視・軽蔑した行為であったとされ(1:17、20)、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令が出され、王妃の位を取り上げられてしまいました(1:19)。

ワシュティは王の命令、王の願いを拒み、王の言ったことに対して従うことをしなかったのです。
その為、王の前に出ることができなくなってしまったのです。


先日、ある牧師先生がシャローム教会で、素晴らしい神様からのメッセージを取り次いでくださいました。
その中で、「自分の強さ・この世の強さ」とは「恵みを受け取れない強さ」であるということ、「肉の強さ」とは「神様がYesと言っているのにNoと言うこと」、「神様がNoと言っているのにYesと言うこと」であるということを教えてくださいました。

王妃ワシュティは、王に従う心を持たず、王が言ったことに対してNOと言ったのです。
その為に、王妃として王の前に出るという恵みを受け取ることができなくなってしまったのです。

王妃ワシュティにも、王の恵みを受け取れなくする自分の強さやこの世の強さがあったのだと思います。
その自分の強さは、王に対して従わない心、王を畏れない心、不満や不平を持つ心、感謝しない心、喜ばない心、プライド、敬わない心、許さない心、愛さない心...などであったかもしれません。
そして、自分の肉の強さをを持って、王のYESに対してNOと言ったのです。


私たちも、時には気付かずに、主の恵みを受け取ることができない強さ、自分の強さやこの世の強さを持ってしまっていることがあるかもしれません。

神様に従わない心、神様を恐れない心、不満や不平を持つ心、感謝しない心、喜ばない心、プライド、敬わない心、許さない心、愛さない心…など自分の強さの為に、神様の恵みを受け取ることができなくなってしまうことがあるかもしれません。

そして、神様のYESに対してNOと言い、神様のNOに対してYESと言ってしまう肉の強さがあるかもしれません。

私は先日の礼拝の中でも、今日のデボーションの中でのこの箇所を通しても、そのような自分の強さ・肉の強さを持ってしまって、神様の恵みを受け取れなくなっていること、また神様の願い・心を願うよりも自分の思い・感情を強くしてしまうことの為にいつもあるはずの神様の恵みを見ることができなくなってしまっていることに気付かされました。

この自分の強さ、肉の強さを神様に捧げ、神様の恵みを受け取り続ける者いなりたいと願います。

ワシュティのように王に従わず王を畏れ敬わない行為のゆえに王の前に出るという恵みを受け取ることができなくなってしまうことなく、神様の願い・命令に応え、従う者になりたいと願います。

そして、神様が御前に私を呼ばれるとき、自分の思い・強さを脇に置いて、いつもその招きに答えて、主の御前に出続ける者になりたいと願います。

■A:考えてみよう
本日23日は、イスラエルではヨム・キプールの日、神様の御顔を求めて、悔い改めを持って御前に出る日です。

恵みを受け取れなくする自分の強さ、この世の強さが自分のうちにないか、
神様のYESに対してNO、NOに対してYESという肉の強さがないかどうか、
自分の思い、願い、自分の肉によって、主の恵みを受け取れない心、主の恵みに目を留めれない心がないかどうか、
神様に従わない心、神様を恐れない心、不満や不平を持つ心、感謝しない心、喜ばない心、プライド、敬わない心、許さない心、愛さない心…などがないか、
自分の強さの為に、神様の恵みを受け取ることができなくなってしまうことがないかどうか、
自分を吟味して、悔い改めの心を持って、それら全てを捧げて、御前に進み出ましょう。

「私の御前に来るように」という、神様の願い、心に従い、神様を求めて御前に出て、恵みを受け取りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月22日(火)のつぶやき

2015年09月23日 01時45分37秒 | キリスト教

「あなたが、はしための悩みを顧みて… goo.gl/rIaw6R