座間コミニティー

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◆主の近くにいる民……。

2015年09月15日 16時28分33秒 | 聖書
(詩篇一四八・一四)
 
旧約の時代は距離のある時代であった。神がモーセに現れてくださった時ですら、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ」と言われた。そしてシナイ山上で、神が選び聖別された民にご自身を現された時にも、最初の命令の一つは、「山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ」であった。幕屋や神殿における聖なる礼拝でも、距離の思想は常に顕著であった。一般の民は、外庭に入ることさえできなかった。内庭には祭司のほか入ることができず、最も奥の至聖所には、大祭司が一年に一度入るだけであった。
それはあたかも、そのような初期の時代には、主にとって罪はこの上なく忌まわしいことを、主が人に教えようとされたかのようであった。主が最も近く接近された時にも、聖なる神と汚れた罪人との間には大きな隔たりがあることを民に感じさせようとなさった。
福音がもたらされた時、私たちは全く異なった立場に置かれた。「行け」は「来れ」ということばに変えられた。距離は接近し、かつて遠く離されていた私たちは、イエス・キリストの血によって近くされた。受肉された神は、その周りに火の城壁をもっておられない。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」これが、人の肉体をとられた神の喜ばしい宣言であった。主はもはや、病人をご自分から遠ざけることによって、その人が病をもつことを教えられるのではない。その患者の汚れの罰を、ご自身が受けて苦しまれることによって、患者に病を教えられる。イエスによって神に接近するこの状態は、なんたる安全と特権の状態であろう! あなたはそれを経験によって知っているか。もし知っているなら、あなたはその力の中に住んでいるか。
この接近は実に驚くべきものである。しかし、よりいっそう接近する時が来ようとしている。その時は、「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み」と言われるであろう。主よ。速やかにその時を来させてください。
 
 

今日の聖人の記念日

2015年09月15日 07時16分01秒 | キリスト教

悲しみの聖母

 

 イエスが十字架の苦しみを人びとの救いのために耐え忍ばれたように、マリアもその救いの業に参与された。聖母の生涯には、喜び、苦しみがあり、昔からキリスト信者たちはそれらをいろいろな形で記念してきた。15世紀に、ドイツのケルンで悲しみの聖母の祝日が行われ、次第に広まり、1817年に教皇ピオ7世によって全教会の祝日として定められた。

 ミサでは、キリストの死に対する聖母マリアの苦しみだけを記念しているが、昔から信者たちは、他の苦しみも加えて、7つの苦しみとして具体的に祈っていた。聖母の苦しみは、キリストが生まれてすぐに、エルサレムの神殿で預言者シメオンから言われた「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉の実現だった。

 また、悲しみの聖母について多くの傑作が生まれ、中でもミケランジェロのピエタ像やヤコポネ・ダ・トディのスタバト・マーテルの詩と曲が有名である。


「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。

2015年09月15日 07時14分46秒 | 聖書


それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった」(申命記8:16)

「あなたを苦しめ」「あなたを試み」と神は言っておられる。
苦しみが臨むと「なぜ?なぜ?」と不平不満、つぶやき、怒りが出て来るが、試練を通してしか得られないものがある。
「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯し」、人は頑なで強情であり、何と自分を正当化し、周囲を責め、非を認めない者だろう。
苦しみにより砕かれて、自分の力に頼れず神に追いやられる。
もうなすすべなく、神にしか頼れないところにまで追い込まれる。
その時、初めて真に神を知る。
拠り頼む事の意味を知る。幸いな経験だ。
涙の谷を過ぎる時も、そこが泉の湧く所となる。
すべての人は試練に会う。思い通りに行かないから試練だが、その時に、環境や他人のせいにし、愚痴と不満で苦しみに飲まれて行く事もできる。
又、訓練として受け止めて行く事もできる。
心を屈折させるのも、心素直にするのも、自らの選択だ。
そしてその結果を刈り取る。
「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される」訓練として受け止めるなら、測り知れない益を得る。
平安な義の実を結ぶ。心を頑なにせず、試練の中で主に従おう。
後に「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と必ず言える。
苦しみは私達を、神に近づけてくれる。
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苦しい状況から逃げてしまおうとした時、ふと思った。
ここを通っているから神様に頼り、ため息のように祈り続けているのだと。
主は私の右の手をおおう影と、意識しながら生きている。
順境の日が今より幸せなのだろうか。


◆勘定ずくの人

2015年09月15日 07時10分59秒 | 聖書

貪欲な人の食物を食べるな。
彼のごちそうをほしがるな。
彼は、心のうちでは勘定ずくだから。
あなたに、「食え、飲め。」と言っても、
その心はあなたとともにない。   (箴言二三6―7)
 
森の石松の「さあ、食いねえ飲みねえ。神田の生まれだってね」とは違った「食いねえ。飲みねえ」が描かれています。それにひっかかって、思わぬ疑獄事件に連なり、牢獄の中で悔やんだ人もありました。
ここで「貪欲な人」と訳されている原語は、「善意の人」が「目の良い人」であるのに対し、「目の悪い人」ということばです。そういう人は、自分の肉の欲望に目がくらまされているので、人の心の中の必要も、自分の心の奥底にある必要も、神も永遠も見えません。そのような人は「勘定ずく」の人ですし、「その心はあなたとともにない」人なのです。
私は、「勘定ずくでない人」「その心が、私の心と共にいてくださる人」にお会いしました。そして、新しい人生の夜明けを知ったのです。争いの絶えない冷たい家庭の中で、何のために生きるのかが分からず、私は、むなしい寂しい心でいました。そのために極度に人間ぎらいになり、神や仏まで、「勘定ずくだ」と考えていました。十六歳の春の雨の晩に、思いきって入ってみたいなかの教会で、私を愛し、そして愛するあまり、私の罪の身代わりになってくださったお方にお会いしたのです。
ペテロも、そのお方に会って、こう告白しています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ二22―24)。
 
 

◆その人は悪い知らせを恐れず……。

2015年09月15日 07時10分14秒 | 聖書
(詩篇一一二・七)
 
クリスチャンよ。悪い知らせを恐れてはならない。もしあなたが悪い知らせに悩むとすれば、未信者よりも劣るからである。彼らは、あなたのように逃れることのできる神をもたない。またあなたのように神が忠実であることを体験していない。彼らがおびえ、恐怖のために取り乱すとしても当然である。あなたは彼らと異なった存在であると公言している。あなたは生ける望みの中に新たに生かされ、すでに心は天上に生き、地上のことに煩わされない者とされている。それなのにあなたが未信者のようにおじまどうならば、その受けたと公言する恵みの価値はどこにあろう。所有しているという新しい性質の力はどこにあろう。
さらに、もしあなたが他の人々のようにあわてふためくとすれば、試練の中にいる人が犯す罪に必ず陥るであろう。不信仰な人たちは、悪い知らせに圧倒される時に神に逆らう。彼らはつぶやき、神が虐待するのだと思う。あなたも同様な罪に陥ることを望むのか。彼らのように主なる神の怒りを買うことをしたいのか。
まだ回心していない人々は、悪い手段に訴えることによって困難から逃れようとする。あなたの場合も、もし現在の圧迫に敗れるならば、同様の結果を見ることになるだろう。主に信頼を置いて、忍耐強く主を待て。あなたにとって最善の道は、モーセが紅海でしたように「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見る」ことである。なぜなら、あなたが悪い知らせを聞いて恐れるならば、自分の義務を自覚し、逆境に耐え、冷静に事に当たることができなくなるからである。もしあなたが臆病風に取りつかれるならば、どうして神の栄光を現すことができよう。聖徒たちはしばしば猛火の中にあって神を賛美した。しかし、何ものも頼りにならないかのように、疑い、気落ちしているとすれば、あなたはいと高き方をあがめることになるだろうか。雄々しくあれ。あなたの契約の神の誠実に、さらにより頼め。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
 
 

9月14日(月)のつぶやき

2015年09月15日 01時45分06秒 | キリスト教

「天の下では、何事にも定まった時期あり、 goo.gl/AkcF9x


◆私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。 goo.gl/28qhzY