それはあたかも、そのような初期の時代には、主にとって罪はこの上なく忌まわしいことを、主が人に教えようとされたかのようであった。主が最も近く接近された時にも、聖なる神と汚れた罪人との間には大きな隔たりがあることを民に感じさせようとなさった。
福音がもたらされた時、私たちは全く異なった立場に置かれた。「行け」は「来れ」ということばに変えられた。距離は接近し、かつて遠く離されていた私たちは、イエス・キリストの血によって近くされた。受肉された神は、その周りに火の城壁をもっておられない。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」これが、人の肉体をとられた神の喜ばしい宣言であった。主はもはや、病人をご自分から遠ざけることによって、その人が病をもつことを教えられるのではない。その患者の汚れの罰を、ご自身が受けて苦しまれることによって、患者に病を教えられる。イエスによって神に接近するこの状態は、なんたる安全と特権の状態であろう! あなたはそれを経験によって知っているか。もし知っているなら、あなたはその力の中に住んでいるか。
この接近は実に驚くべきものである。しかし、よりいっそう接近する時が来ようとしている。その時は、「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み」と言われるであろう。主よ。速やかにその時を来させてください。