座間コミニティー

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◆正しいてんびん、正しい重り石、

2015年09月04日 18時28分58秒 | 聖書
正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。(レビ一九・三六)
 
度量衡は、すべて正しい基準によらなければならない。たしかにクリスチャンは、このことを彼の仕事の上で考える必要はないだろう。仮に世界中から正義が消え失せても、それは自明のことだからである。しかし、道徳および霊的なことを測る他のはかりがあり、これはしばしば検査する必要がある。
私たちが自分自身を測り、また他人の品性を測るはかりは全く正確であろうか。一〇グラムほどの自分の美点を一キログラムにも計算し、他の人の一キログラムほどもある美点を一〇グラムほどにしか計算していないのではないか。
クリスチャンよ。度量衛を見よ。私たちが自分の試練や患難を測るはかりは、基準どおりであろうか。私たちよりもはるかに苦しまなければならなかった使徒パウロは、自分の苦難を軽いと言った。しかし私たちは、しばしば自分の苦難を重すぎると考えている。たしかに、重さに狂いがあるに違いない。私たちは、不正な取り引きをしたと天の法廷に報告されることがないように注意しなければならない。
また、自分の教義上の信念を測るはかりは全く正確だろうか。恵みの教理は、みことばと同じ重さをもつべきである。重すぎても軽すぎてもならない。しかし、多くの人々には、どちらかの皿が不当に重いのではないかと思えるのである。
真理に正しいます目を与えることは大切である。主にある友よ。この点において注意深くあれ。私たちが自分の義務や責任を測るますは小さすぎる。富む者が神の事業のためにわずかしかささげないのは、正しいエパであり、正しいヒンであろうか。教職者が栄養不良になっている。それが正当な扱いと言えるだろうか。貧しい者がさげすまれ、不敬虔な富む者が賞賛を博している。それが正しいてんびんであろうか。
友よ。このリストをさらに長くすることも可能であるが、それをあなたの今夜の仕事とし、不正なすべての度量衡を発見して、それを打ちこわせ。
 
 

「ですから、私たちは、

2015年09月04日 18時28分12秒 | 聖書

キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(ヘブル6:1)

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。
幼子なのです」幼子の特徴は世界が自分中心に回っていて、自己の快適さを求め、愛されることばかり求めることだ。
神についても心地よい愛の部分だけがすべてで、そこから成長して行かない。
成長のためには義の訓練があり、「堅い食物はおとなの物であって…訓練された人たちのもの」だ。
もし大人の信仰者になりたいなら、訓練を受ける事を避けて通れない。
大人は愛することを求めて行く。
インスタントに霊的成長は望めない。
成長とは砕かれることであり、痛みを伴い、忍耐が必要で、時には待つ事であり、手放す事であり、失う事でもある。
もし大人になりたいなら、信仰はキリストの言葉によるので、御言葉をしっかり受け止めて行く態度が大切だ。
御言葉が、霊でありいのちであり、神のみ思い、御心、ご計画があるからだ。
幼子は自分の思い通りに事が運ばないと、泣きわめきひっくり返り、自分を通して行く。
従う事は嫌で、権威に反抗する。
大人は自分の思いを砕いて、自分の思い通りでなくとも、神のみ思いを優先し、受け入れて行く。
従順を学んで行く。大人へと成長して行く事が神の御心だ。
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思い通りにならない時に成長させられるのだ。
痛い、悔しい時、神様のみ言葉を必死に慕い求めて行く。
慰めを一身に受けている事を知り、改めて従順へと導かれて行く。
自分の要求だけに囚われてはいないだろうか。


今日の聖人の記念日

2015年09月04日 06時07分04秒 | キリスト教

ヴィテルボの聖ローザおとめ

1235年-1252年

 ローザは、イタリアのヴィテルボの貧しい家に生まれた。幼いころから貧しい人びとのことを心にかけ、世話をし、ローザ自身は祈りの生活を大切にして苦行に励んでいた。たびたび聖母マリアが彼女に現われた。彼女は聖母の勧めに従い、1247年ころにフランシスコ会第三会(在俗会)に入った。

 当時、ドイツ皇帝フリードリヒ2世と教皇イノケンティウス4世が争っていた。ローザは平和のために力を尽くし、各地を回りながら説教をして多くの人びとを感動させ、信仰に立ち戻らせた。しかし彼女の影響力を恐れた皇帝は、1250年にローザをヴィテルボから追放した。皇帝が亡くなった後、故郷に戻り、クララ会のバラのマリア修道院の近くで数人の仲間とともに暮らした。

 1258年に、彼女の遺体はバラのマリア修道院に移されたが、遺体は現在も腐敗せずに残っている。


◆セックスの落とし穴

2015年09月04日 06時05分52秒 | 聖書

他国の女の口車は深い穴のようだ。
主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。(箴言二二14)
 
主の憤り・主の怒り、それに主ののろいということばさえ、聖書によく出てきます。しかし神が、私たちのように自分勝手なちっぽけな感情で、怒ったりのろったりされるはずはありません。神はねたむほどに私たちを愛し、私たちのことを心配してくださるので、こう言われるのです。
神が心配しておられる一つのことは、他国の女、つまり男性を性的に誘惑しようとしか考えていない、妻以外の女の誘惑に陥ることです。どんなに多くの人々が、この深い落とし穴に落ちこんでしまったでしょうか。他のいろいろのことなら、手足がどろでよごれたり、かすり傷を受ける程度ですむことがあります。しかし、このセックスについての落とし穴は、深い穴であって、人間の心の髄までくさらせてしまうけがれたるつぼなのです。
教養があり、善悪をわきまえており、しかも能力ある実力者ダビデ王も、聖書によると、このセックスの落とし穴に落ちこみました。そして、日照りで地割れするような魂の苦悩の中で苦しんだのです。しかし、彼がそこから脱出しえた恵みと回復の喜びの歌も聞いてください。
「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇四〇1―2)。
ねたむほどに私たちを愛される神は、イエス・キリストの十字架の血の中に、脱出の道ばかりか新しい人生まで備えていてくださるのです。
 
 

第1歴代誌10章8-14節

2015年09月04日 06時05分12秒 | 聖書


10:13 このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、
10:14主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。



 イスラエルの初代の王であるサウルが、なぜこのような悲惨な死を遂げたのか。

なぜ、神さまは彼を守られなかったのか。

その理由をここで語っています。

彼が死んだのは、それは、主が彼を裁かれたからであるというのです。

その裁きは、具体的に何に原因を持ったのでしょう。

それは、サウルが主の言葉に従わず、また偶像である霊媒によって伺いをたて、真の神である主に聞くことをしなかったからでした。

つまり、彼の不信仰の罪、主に信頼することをせず、他の神に頼ったということ、その事が、彼自身の滅びの原因であったと告げているのです。

王という身分の者であっても、主はその不信仰を裁かれるのです。

しかし、これは過去のことのみではありません。

現代も、よく考えるべき事なのです。


◆わたしの心だ。

2015年09月04日 06時02分51秒 | 聖書
きよくなれ。(マルコ一・四一)
 
初めの暗黒は、全能者の「光よ。あれ」との命令を聞いて、ただちに逃げ去り、そこに光が現れた。主イエスのみことばも、権威において、その古い力あることばといささかも変わらない。贖いは創造と同様に、力あることばをもつ。イエスが語られると、事はたちまち成る。主が「わたしの心だ。きよくなれ」と言われるとすぐに病は逃げ去った。
この病気には希望も回復のしるしもなく、自然の力をもっては全くいやすことができなかった。しかし主のただ一言によって、その場でいやされた。罪人はこの病よりももっと悲惨な状態にある。彼にこの病人のように、「イエスのみもとにお願いに来て、ひざまず」かしめよ。信仰が乏しくても、それを働かせよ。「お心一つで、私はきよくしていただけます」という程度の信仰でもよい。信仰を働かせることがよい結果をもたらすのは、疑う余地がない。イエスはみもとに来る者をことごとくいやし、一人も退けられなかった。
今朝の聖句の前後を読む時、イエスがこの病人に触られたという点に敬虔な注意を払うべきである。この病人は、律法にある規則を破って家の中に入った。しかしイエスは、彼を叱責されるどころか、彼に会うためにご自身も律法を破られた。イエスはご自身と病人を交換された。イエスは病人をきよめられたが、彼に触ることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのである。そのように、イエス・キリストは罪を知らない方であるのに、私たちのために罪となられた。私たちが主にあって神の前に義とされるためである。
あわれな罪人がイエスの幸いな身代わりのみわざを信じてみもとに行くならば、すぐに御手の恵み深い力を知るであろう。パンを増やし、また沈もうとしているペテロを救い、悩んでいる聖徒を支え、信者に栄冠を授けるその同じ御手が、すべての求める罪人に触れると、彼はすぐにきよくされる。イエスの愛は救いの源である。主は私たちを愛し、ながめ、触れてくださる。こうして私たちは生きるのである。
 
 

9月3日(木)のつぶやき

2015年09月04日 01時45分20秒 | キリスト教