座間コミニティー

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「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、

2015年09月05日 18時26分03秒 | 聖書

鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちにすがたを変えられて」(Ⅱコリント3:18)

時々「どうせ、私なんてだめで~」という人がいる。
しかし、心を屈折させているのであって、素直に自分の弱さを認めているのではない。
その証拠に「ほんと、あなたはだめよねえ~」とでも言おうものなら、大変な事態になる。
つまりは、「自分がだめなのではなく、自分を認めない、評価しない周囲が悪い」と言っている。
自分を正当化し、人を、周囲を責めて、相手のせいにする。
人のせいにしていると、自分を見なくて済む。
自分を直視しなくて済む。そうやって現実から逃げている限り、自分の成長は望めない。
もし成長したいなら、ありのままの自分から逃げず、目をそむけず、直視する事だ。
真実の自分だ。それをきちんと見て、認識する事によって、自分は変えられて行く。
成長に際して、自分が変えられる事に際して、いつも自分の現状の姿を、弱い醜い姿を主は認めさせられる。
それなくして、変えられようがない。自分の弱さは誰しも見たくな
いし、余りにも惨めで認めたくない。
しかし、虚構の自分にいる限り、信仰の成長はあり得ない。
「これが自分です」と認める時、同時に、きれいな自分でなく、汚れた醜いままの自分を極みまで愛して下さっている神の愛がわかる。
今まで自分自身が妨げて見えなかった、溢れる恵みが見えて来る。
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自分の弱さは見たくないし、目をそらしていたい。
余りにも惨めだからだ。
惨めで認められない。
だが、へりくだって認めるからこそ、このまま愛して下さっている神の愛が見えて来る。
大きな祝福を経験する。


◆あなたは海の源まで行ったことがあるのか。

2015年09月05日 18時22分15秒 | 聖書
(ヨブ三八・一六)
 
自然界のあるものは、最も頭が鋭く、冒険心に富んでいる観察者にとっても、やはり神秘である。そこには人知ではとうてい越えることのできない限界がある。あらゆる知識を備えているのは、神のみである。このことが目に見えるもの、一時的なものについて真理であれば、霊的かつ永遠のことについてはなおさらである。
では私はなぜ運命と意志、宿命、人間の責任などの問題に関して頭を悩ませるのであろう。これらの深い隠された真理を私たちが悟ることができないのは、大洋の水のわき出る底を探ることができないのと同様である。なぜ私は、主の摂理の理由、主の行動の動機、天の配剤の目的などを知ろうとして好奇心を抱くのか。私は太陽を片手に握り、宇宙を手のひらに支えることができるのか。しかしこれらのものも、主なる私の神に比べれば、バケツの中の一滴にすぎない。
私は無限を理解しようとは思わない。私の力を愛に費やそう。私が理知によって獲得することのできないものを、私は愛情によって所有することができる。私はそれで満足しよう。私は海の中心を見ることはできない。しかし私は、海の上を吹く心地よいそよ風を楽しみ、順風に送られて、その青い波の上を帆走することができる。
もし私が海の源に入ることができても、それは私個人にも他の人にも何の益ももたらさないであろう。さらには、それは沈もうとする船を救うことも、Ⅵ死した船員を、泣き悲しむ妻子に返すこともできない。同様に、私が深い神秘を解いたとしても、それは私にとって役に立たない。なぜなら、神に対する最も小さな愛、神に服従する最も単純な行為は、最も深い知識よりもまさるからである。
主よ。私は無限にあなたにお任せします。そして私をいのちの木から離さないために、私から知恵の木に対する愛を遠ざけてくださることを祈り、また願います。
 
 

今日の聖人の記念日

2015年09月05日 07時56分22秒 | キリスト教

聖ラウレンチオ・ユスチニアノ大司教

1381年-1455年

 ユスチニアノは、イタリアのヴェネチアの貴族の家に生まれ、信仰深い母親に育てられた。ユスチニアノは、名誉や快楽に心を引かれたが、19歳のころ回心し、司祭となって神に生涯をささげたいと望んだ。そして司祭の伯父がいる聖ジョルジョ修道院に入って、勉学、祈り、苦行の生活をし、物乞いをする勤めも果たした。司祭になった後、1433年にカステロの司教に任命され、教区改革に力を尽くし、51年には、ヴェネチアの初代総大司教に任命された。ユスチニアノ自身は、生涯キリストに倣った貧しい生活をし、亡くなるときも「イエス・キリストが堅い木の十字架で死なれたのだから」と言って、堅いベッドの上で息を引き取った。


◆子の心の愚かさを断ち切る

2015年09月05日 07時55分20秒 | 聖書

愚かさは子どもの心につながれている。
懲らしめの杖がこれを断ち切る。   (箴言二二15)
 
子どもの心につながれている愚かさとは、何でしょうか。リビングバイブルでは、「若者は反抗心でいっぱいです」と訳しています。自分勝手に振舞ったり、神や親の権威に従わない不従順こそ、子どもの心の愚かさという鎖であり、かせではないでしょうか。
手術をする、注射をするというと泣き出す子どもも多くいます。しかし、それだからといって、やめては子どものためになりません。つぶれた家の大きな梁の下敷きになっている人を助け出す時の話を、ある人から聞きました。少しでも引っ張ると、「痛いー」と悲鳴をあげます。しかし、そこでやめたのでは助けることはできなかったのです。たとえば、がんじがらめに鎖でつながれている人を見て、ああ、かわいそうに、かわいそうにと言うだけで、鎖を断ち切らない人には愛も真実もありません。親が、毅然たる態度でこの子どもの心につながれた愚かさを断ち切ることは、親の聖なる任務ではありませんか。
第一に、親には、世界中の何十億の人々の中から選ばれて自分たちだけに与えられた使命があります。「この子をほんとうに幸福にする」という、その使命感に立つことが必要です。
第二に、親は、エゴイズムを捨てきって、無私の心でこらしめなければなりません。物分かりがよい優しい親だと子どもに思われたいという心を捨てるべきです。まして、子どもを親の思うとおりにしたいというメンツや、わがままな希望や願望は捨てなければなりません。
使命を感じた無私な心が、神が与えてくださる愛といっしょになって、子どもをこらしめるなら、子どもの心の愚かさを断ち切ることができます。
 
 

◆ああ、哀れな私よ。

2015年09月05日 07時54分42秒 | 聖書
メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇一二〇・五)
 
あなたは不信仰な世のただ中に住まなければならない。そこで「哀れな私よ」と叫ぶのは当を得ていない。イエスは、あなたがこの世から取り去られるようにとは祈られなかった。主が祈られないものを願い求める必要はない。むしろ主の御力を受けて困難に直面し、主のご栄光を現すほうがはるかにまさる。
敵は、あなたの行動の中に矛盾を見いだそうとして絶えず見張る。それゆえ聖潔であれ。あなたは衆人環視の中にあり、他の人以上のことがあなたに期待されていることを記憶せよ。非難を受ける原因を作らないように努めよ。善良があなたの唯一の欠点であれ。ダニエルについて言われたように、あなたについても「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない」と言わせよ。言行一致であるとともに、有用であることを求めよ。
あるいはあなたは次のように考えるかもしれない。「もし私がもっと良い境遇にあるなら、主にお仕えすることができるだろう。しかし、今の状態では何のよい事もできない」と。しかし、あなたの周囲に住む人が悪ければ悪いほど、あなたは彼らのために努力しなければならない。もし彼らがひねくれているとすれば、いっそう彼らを矯正しなければならない。彼らが強情であるとすれば、その高慢な心を真理に向かわせる必要はさらに大きい。医師が病人の多い所に行かないでどこへ行くというのか。激戦のただ中に入らないで、兵士が功績をあげることができるだろうか。
あなたを取り囲む罪との戦いに疲れた時、すべての聖徒が同様の試練に耐えたことを思え。彼らは羽ぶとんにくるまれて天国に運ばれたのではない。だから、あなたも彼らよりたやすく天国に行けると思うな。彼らは激戦のただ中で命をかけて戦った。同様にあなたも、イエス・キリストのよい兵士として苦しみに耐えなければ、栄冠を得ることはできない。このゆえに「堅く信仰に立ちなさい。男らしく強くありなさい」。
 
 

第1歴代誌11章1-3節

2015年09月05日 07時53分38秒 | 聖書


11:3 イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデは、ヘブロンで主の前に彼らと契約を結び、彼らは、サムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。



 サウルが主の御心に逆らったために、次の時代の王はダビデであることを、主はサムエルによって告げました。

そこで、サウルが死んだ時、民はヘブロンの町にいたダビデの所に来て、彼に王として立ってくれるように要請しました。

ダビデは彼らと契約を結びました。

この契約は、彼らがダビデを王として仰ぎ、彼に従うというものでした。

その契約がなされた時、民はダビデを自分たちの王として、油を注いで任職しました。

それを主の前で行ったのです。

教会での奉仕者の任職の場合も同じです。

奉仕者は、自分が神さまによって召されたという確信を持ちます。

しかし、その方がそれぞれの教会に受け入れられるためには、教会の人々による確認と承認とが、教会の人々によってなされた上で、決定がなされるのです。

奉仕者本人だけの、意思や主張にはよらないのです。


9月4日(金)のつぶやき

2015年09月05日 01時45分05秒 | キリスト教