座間コミニティー

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◆あなたがたは、

2015年09月02日 16時47分08秒 | 聖書
しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(ヨハネ四・四八)
 
奇蹟を切望するのは、主が地上におられた時代の人々の心が病的な状態にあることのしるしであった。彼らは健全な滋養を拒み、奇蹟のみを求めた。彼らに真に必要であった福音を望まず、イエスが必ずしも与えようとされなかった奇蹟を熱心に要求した。今日でも、多くの人々はしるしや奇蹟を見なければ信じようとしない。ある人々は心の中で言う。「私はたましいに深刻な恐怖を感じなければならない。そうでなければ、私は決してイエスを信じないだろう」と。しかし、あなたがそのような経験をすることがなかったらどうするのか。おそらくあなたは決してそのような経験をしないだろう。神が自分をそのように扱ってくださらなければ、神を恨んで地獄へ行くつもりなのか。
ある者は、自分自身に向かってこのように言う。「もし私が霊の夢でも見るか、まだ経験したことのない突然のショックでも受けたら信じよう」と。このように、無価値な死すべき人間であるあなたが、主を指図のままに動かそうなどと考えているとはどういうことか。あなたは主の門口にいて、あわれみを求めている者なのに、主があわれみを与える方法を指図しようと言うのか。私の主は寛大な心をもっておられるが、正しい王の心をもっておられる。主はあらゆる指図を退けて、主権者としての行動をとられる。
愛する友よ。なぜあなたはしるしと奇蹟とを見たがるのか。福音そのものがしるしであり奇蹟ではないか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは奇蹟中の奇蹟ではないか。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」この尊いみことば、そして「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」という厳粛な約束は、たしかにしるしや奇蹟にまさるものである。なぜ、偽りを語れないお方について真実の証明を求めようとするのか。悪霊でさえ、この方が神の御子であると宣言したのに。
 
 

「神のことばは生きていて、

2015年09月02日 16時46分22秒 | 聖書

力があり…」(ヘブル4:12)

ある牧師が、若い時から懸命に働き続け、今は老年期に差しかかった。
赴任先の教会で、人々の救いのため、信徒の成長のためにと出来うる限りの事をし、懸命に労していた。
根が真面目であり一生懸命だった。
そんな時、教会内で問題が起こり、ごっそり信徒が出てしまった。
引退を目前に、今までの自分の人生は何だったのかと、沈み落ち込み、燃え尽き症候群に陥り、鬱になってしまった。
無気力になり、聖書を読み祈ることも出来なくなった。
そんな時、子供がセミナーに参加し、恵まれ、子供の顔が輝いていた。
デボーションを子供が勧めてくれた。その気にもならなかったが、恵まれ喜んでいる子供を見ていて、祈る気力もないが、聖書の一つでも開いてみようかと、パラパラと、ぼお~っと見ていた。
その時「父なる神は…お願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」の言葉が心にしみ込んで来た。
自分の今の状態をすべてをご存じである事を思った。
そして「だから、こう祈りなさい…御名があがめられますように」が神の言葉として心に響いた。
こんな敗北の、失敗の、無力な者を通して、主の御名が崇められるようにして下さると。
その時、新たな力が臨んだ。立ち上がる事ができた。
御言葉により再び起きあがる力が臨んだ。
御言葉は霊であり、真に人を生かす力がある。
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み言葉によって重い心が引き上げられたり、高ぶった思いを低くされたり、日々整えられて行く。
み言葉はいのち、生きて私達のうちに働かれるからだ。
いのちのみ言葉をしっかり握り歩みはじめよう。


今日の聖人の記念日

2015年09月02日 06時41分35秒 | キリスト教

聖パウロ(エジプト)修道士

228年ごろ-341年ごろ

 パウロは、エジプトのデバイスに生まれた。ローマ皇帝デキウスの迫害下に、異教徒である姉の夫の密告を逃れるため、荒れ野に身を隠した。パウロは、洞くつの中で祈りと苦行の生活を送り、60年もの間、誰にも会うことがなかった。彼のもとに毎日、カラスがパンを運んだという。113歳になったときに、修道生活の父と呼ばれる聖アントニウスから見つけ出されたといわれている。



◆王が友となる

2015年09月02日 06時40分38秒 | 聖書

心のきよさを愛し、優しく話をする者は、
王がその友となる。        (箴言二二11)
 
「王がその友となる」とは、最高級の人物になるというユダヤ的表現です。アブラハムは「神の友」(ヤコブ二23)と呼ばれ、神がその友となられたと聖書に書いてあります。神があなたの友となって、神がそのみこころの秘密まで明かしてくださるとしたら、いったい、どれほど大きな祝福でしょうか。
さて、私の友人はだれとだれだろうかと考えてみると、心もとなくなります。「類は友を呼ぶ。」真実の友のないのは、大部分は自分自身のあり方にかかわっているのではないでしょうか。さて、この箴言のことばは、ほんとうの友を得、最高級の人となるための条件として、第一に、心のきよさを愛すること、第二に、優しく話をすることの二点をあげています。
手をきたなくして労働していても、心のきよい人もいましょうし、手は白魚のようになめらかできれいでも、心のきよくない人もいましょう。心のきよい人は、自分は清廉潔白だと自称自任している人ではありません。心のきよさを愛する人です。神の愛と恵みのゆえに、――具体的にいえば、流されたまいし神の小羊イエス・キリストの血潮が心に注ぎかけられているゆえに、心がきよくなっている人と言いたいのです。自分の肉の力で心をきよめられる人はいません。きよさを愛し求めるがゆえに、神の力にたよる人です。優しく話をするのは、心に話をする思いやりのある人です。具体的にいえば、こんなに愚かでけがれた、こんなに弱い者まで愛してくださる神の愛に励まされて、人の心に愛を語ることのできる人ではないでしょうか。
神の人ダビデは、このように歌いました。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」(詩篇二四3―4)。
 
 

◆シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、

2015年09月02日 06時39分40秒 | 聖書
人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。(マルコ一・三〇)
 
使徒となった漁師の家庭をかいま見るのは、非常に興味深いことである。私たちがすぐに気づくことは、家庭の喜びや心配は少しも伝道の妨げにはならないということである。否、むしろ、それは主の恵みの深いわざを直接肉親に証しする機会を与えるので、地上のどの訓練よりもよい教訓を伝道者に与える。ある宗派の人々は、結婚を非難するかもしれない。しかし真のキリスト教と家庭生活はよく一致するのである。
ペテロの家はおそらく貧しい漁師の小屋であったろう。しかし、栄光の主がその家に入って宿られ、そこに奇蹟をもたらされたのであった。この小著が今朝どこかの貧しい小屋で読まれるようなことがあれば、この事実が家人を強め、王なるイエスとの交わりを深めるようにと願いたい。神は豪華な宮殿よりも小さなあばらやに臨まれる。イエスは今、あなたの部屋を見回し、あなたに恵みを施そうとして待っておられる。
病がシモンの家に入り、恐ろしい熱病がシモンのしゅうとめを悩ませた。そこへイエスが入られると、人々はその苦しみをイエスに打ち明けた。イエスはただちに患者のベッドに急がれた。今朝、あなたの家に病があるだろうか。あなたは、イエスが比べるもののない名医であられることを知るであろう。ただちにみもとに行って、すべてを打ち明けよ。民の悩みはイエスにとって決して些細な問題ではない。
救い主がただちに病んでいる者をいやされたことを心に留めよ。主のような名医はいない。私たちの愛する者の病を、主がただちにいやしてくださるとは断言できない。しかし、私たちは、病人のための信仰による祈りが、この世のどんなものにもまさって、病人を回復させる力のあることを知っている。たとえ病気が治らなかったとしても、生死をつかさどられる方に従順でなければならない。
イエスの優しい心は、私たちの悲しみを聞こうとして待っておられる。主の忍耐深い耳に、すべての悲しみを打ち明けようではないか。
 
 

第1歴代誌9章35-44節

2015年09月02日 06時37分35秒 | 聖書


9:38 ミクロテはシムアムを生んだ。彼らも、その兄弟たちとともにエルサレムに住み、その兄弟たちのすぐ前にいた。 9:39 ネルはキシュを生み、キシュはサウルを生み、サウルはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルを生んだ。
9:40 ヨナタンの子はメリブ・バアル。メリブ・バアルはミカを生んだ。



 ここでは、ギブオンという地に関係して、サウルの系図が改めて語られています。

彼の系図は8章の所に記されていましたが、再びここで告げられています。

 ギブオンは、かつてはヒビ人の地でありました。

この町の人々は、イスラエルの民によって破壊されないために偽装をして、指導者のヨシュアとうまく契約を結んで、その滅びを逃れたことで、よく知られています。

 改めてサウルの系図がなぜ記されたのかと言いますと、次の章ではサウルの悲劇的な死のことが語られていますので、それに関係して、序章的な情報を与えるためであったようです。

系図というのは、名を見ることによって、その人の人生と事件を思い起こさせるからです。


テモテへの手紙第一2章1, 3-4

2015年09月02日 06時34分30秒 | 聖書


★そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

■O:今日のコラム
パウロがこの手紙でテモテに一番最初に勧めたことは、すべての人、特に高い位置にある人たちの為に祈ることでした。

それも、自分の思い通りに祈るのではありません。上に立つ人々がこう変わって欲しいと、自分の願いを祈りなさいとは言ってません。

パウロが勧めたことは、願い、祈り、とりなし、感謝を捧げると。具体的に何を願えばよいのかは、次の節に書かれています。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる。」

神様の願いを祈るのです。それは、彼らが救われ、真理を知るようになること。

私たちの上にはいろんなリーダーが立っていると思います。あるリーダーは本当に尊敬する方々。そういう方の為には神様に感謝を捧げる事は難しくありません。しかし、あるリーダーは、関わるのに難しい方々。そういう方々は感謝を捧げるどころか、祈ることさえも難しかったりします。

しかし、私たちは、何よりも主を喜ばせる人生を歩むことを願っています。
そして、上に立つ人々の為に願い、祈り、とりなし、感謝することは主に「喜ばれること」だと、今日の箇所にはっきりと書かれています。自分の思いや願いを捨て、主が喜ばれることを目標に上の人々の為に祈っていきましょう。


■A:考えてみよう
自分の上に立つ人々に対しての自分の思い、願いを脇におき、主の願いを求めて、祈り、そして、感謝が捧げることができるように祈りましょう。そして、その人々の為に祈っていきましょう。彼らが救われ、真理を知ることができるように。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月1日(火)のつぶやき

2015年09月02日 01時46分05秒 | キリスト教