ある者は、自分自身に向かってこのように言う。「もし私が霊の夢でも見るか、まだ経験したことのない突然のショックでも受けたら信じよう」と。このように、無価値な死すべき人間であるあなたが、主を指図のままに動かそうなどと考えているとはどういうことか。あなたは主の門口にいて、あわれみを求めている者なのに、主があわれみを与える方法を指図しようと言うのか。私の主は寛大な心をもっておられるが、正しい王の心をもっておられる。主はあらゆる指図を退けて、主権者としての行動をとられる。
愛する友よ。なぜあなたはしるしと奇蹟とを見たがるのか。福音そのものがしるしであり奇蹟ではないか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは奇蹟中の奇蹟ではないか。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」この尊いみことば、そして「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」という厳粛な約束は、たしかにしるしや奇蹟にまさるものである。なぜ、偽りを語れないお方について真実の証明を求めようとするのか。悪霊でさえ、この方が神の御子であると宣言したのに。