座間コミニティー

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◆私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

2015年09月14日 16時56分32秒 | 聖書
私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇三二・五)
 
ダビデは自分の罪にたいへん苦しんだ。その結果は肉体にも及んだ。彼の骨は「疲れ果てた」、彼の「骨髄は、夏のひでりでかわききった」とある。それをいやす道はなかった。ついに彼は天の恵みの御座の前に、腹蔵ない告白をなすに至った。彼はしばしば沈黙を守ったが、彼の心はより深い苦悩に満たされていた。出口がふさがれた山の中の湖のようにたましいの中には、悲しみの奔流があふれたのである。
彼は口実を考えてまぎらわそうとした。しかし、それはむだであった。腫れ物がうむように、苦悩は増大し、彼が告白というメスを用いようとしなかったので、その霊は苦悩に満たされて安息を得られなかった。
ついに彼はへりくだり、罪を悔いて神のみもとに帰るか、それともその場で悶死するかのどちらかであることがわかった。それで彼は、急いで恵みの御座に行き、すべてをご存じであるお方の前で、自分の悪の巻き物を広げ、これまでのすべての邪悪を、詩篇五一篇、その他の詩篇にあることばをもって告白した。このことをなし終えると(これは非常に簡単なことだが、高慢な者にはこの上なく困難である)、彼はすぐに神の赦しのしるしを受けた。彼の砕かれた骨は喜び、彼は密室を出て、咎を赦された者の祝福を歌った。
恵みによってなす罪の告白の価値を見よ! それはすべての価値にまさって尊ぶべきものである。いやしくも、真実の、幸いな告白がなされるところ、あわれみは自由に与えられる。悔い改めと告白に、あわれみを受ける価値があるからではなく、ただキリストのゆえに与えられる。神はほむべきかな。砕かれた心のあるところ、必ずいやしがある。私たちの罪をきよめる泉は絶えず流れている。
おお、主よ。まことにあなたは「赦しの神」であられます。それゆえ、主よ。私たちは自分の罪を告白します。
 
 

「天の下では、何事にも定まった時期あり、

2015年09月14日 16時55分47秒 | 聖書

すべての営みには時がある」(伝道3:1)

信仰の成長に不可欠な事、必要な事は「待つ」という事だ。
神をじっと待ち望む事。これ無しに成長は無い。
神を信じるとは、神を待つ事だ。
そして、誰しも、最も苦手なものが「待つ」ことだ。
すぐに結果が欲しい。今すぐに欲しいのだ。
速ければ速いほど良い現代、余計待つことは難しい。
しかし、信仰の世界は違う。待つ事によって、学ばされ、訓練される。
待つ事なしに、神も信仰もわからない。
信仰の成長には、長い時間が必要だ。
一朝一夕に成長は無い。長い長い時間をかけて、神は私たちの信仰を練り鍛え、成長させられる。
アブラハムは75才の時、約束を受け取った。
しかし、それが実現したのは100才だった。
25年待ち望んだのだ。ヤコブは兄エサウを欺き、殺されそうになり、叔父ラバンのもとに身を寄せた。
その二人が和解するのに20年がかかった。
イスラエルがエジプトで奴隷となり、モーセによって解放されるのに400年待った。
「神の時」がある。その前でも後でもない。
神の定められた「時」だ。それは「美しい」時だ。
あなたも、今待つ事が御心か。神を待とう。
「もし遅くなってもそれを待て。
それは必ず来る。遅れる事はない」。神の美しさを知る。
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待つことは、信仰の表明だ。待つとは、信じているという事だ。
神はその信仰を喜んで下さる。待つ事によって、信仰を献げよう。
確信を投げ捨てるな。「それは必ず来る。遅れる事はない」。


今日の聖人の記念日

2015年09月14日 06時35分06秒 | キリスト教

聖ノトブルガ

1265年-1313年

 ノトブルガは、オーストリアのチロルの貧しい農家に生まれ、18歳のときにヘンリー・ラッテンブルグ伯の城に手伝いとして雇われた。彼女はよく働き、いつも明るく、皆から好かれた。

 城に貧しい人たちが物乞いをしに来るのを見て、ノトブルガは、食べ物の残りをその人たちに与えた。しかし、そのことをよく思わなかった夫人から追い出され、近くの農家に住み込みの手伝いとして働くようになった。

 ある日曜日に、ミサに出るために麦刈りの仕事を断わったことで主人の怒りにふれ、彼女は神に正しさを証明してもらおうとして、鎌を高く差し上げて手を離し、鎌を空中にとどめたといわれる。そのため彼女の像は、鎌を持って描かれている。

 その後、ヘンリー伯の夫人が亡くなり、ヘンリー伯が再婚すると、家事をする女性が必要となり、ノトブルガが呼び戻された。彼女は亡くなるまでそこで働き、貧しい人たちに施しを与え、城のためにも貢献した。
 彼女は、雇い人の保護者として親しまれている。


第1歴代誌12章8-15節

2015年09月14日 06時32分03秒 | 聖書


12:8 また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。
12:9 そのかしらはエゼル。第二はオバデヤ。第三はエリアブ。



 先には、ベニヤミン族の人々の内の特殊な能力を持っている人々が、ダビデの下に応援に来ましたが、ここではガド人の部族の人々がダビデの下に来て、彼を応援したことが記されています。

ガド人と言いますのは、以前イスラエルの民がカナンの地に土地を得ました時に、自分たちはヨルダン川の東の土地を望みますと言って、ルベン族及びマナセの半部族の人々と共に、ヨルダン川の東の側に土地を得た人々として知られています。

そうした遠地の所からも、ダビデの名を聞いて彼の下に集まった人々もいたということを語っています。

彼らは、ダビデが真に神に仕えて、神の御心に従って、王として支配をしようという思いを知って、出てきたのです。


◆富を得ようと苦労するな

2015年09月14日 06時29分26秒 | 聖書

富を得ようと苦労してはならない。
自分の悟りによって、これをやめよ。(箴言二三4)
 
ある雑誌で、「幸福な家庭生活のための三本柱」を特集し、アンケートを有名人に出した結果をのせていました。多くの人が、「安定した経済」を三本柱の一つとしてあげていました。一生懸命働いて家族の生活を支え、病気や不時の災害に備え、人さまの世話にならず、かえって人さまの世話までできるようにするのは、うるわしい必要なことでしょう。
しかし、自分のために金をためることだけを人生の目標にしている人々も、世の中になくはありません。落語に、「黄金」というのがあります。金をためるためにのみ生きた男が、病気になり、死んでその金が人手に渡るのを惜しんで、あんころもちの中に金をくるんで飲みこみ、ついに窒息して死んでいく話です。
聖書の中でもヤコブは、金持ちになるために人生のあらゆるエネルギーを消費する、そのような金持ち志願者たちに、こう警告しています。少々長いのですが、読んでみましょう。富を得ようと苦労する者の後ろ姿が明らかです。「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました」(ヤコブ五1―5)。
キリスト・イエスは、私たちを富ますために貧しくなってくださった方です。
 
 

◆舟に乗っておられるままで、

2015年09月14日 06時28分28秒 | 聖書
イエスをお連れした。(マルコ四・三六)
 
その夜、イエスは海軍提督として、親しく一隊の船団を守られた。舟がどれほど小さくても、主と共に航海するのはまことによい。私たちがキリストの群れに加わって航海する時も、なぎばかりとは限らない。時には主ご自身の乗っておられる舟すら大風にもまれることがあるからである。したがって、私たちの小舟が波にもてあそばれることが少ないことを期待してはならない。私たちがイエスと共に行くならば、彼と同じ境遇に満足しなければならない。波がイエスに荒ければ、私たちにも荒いであろう。私たちが陸地にたどり着くのは、以前主が経験されたように、あらしの中を通って木の葉のように波にもてあそばれた後である。
あらしが暗いガリラヤ湖上に吹いたとき、人々は顔色を失い、今にも舟が難破するのではないかと恐れた。こうして一切の人間的な頼みの綱が切れたとき、眠っておられた救い主が起き上がって、一言で大あらしを静められた。そのために主が乗っておられる舟も、その他の舟も共に安きを得た。
イエスは海の星であられる。私たちの心がイエスをいかりとし、舵とし、灯台とし、救助艇とし、港とすることができますように。
主の教会は、提督の乗られる旗艦である。私たちはこの教会の集いに出席し、この旗艦の将校である教職者を励まそうではないか。常に私たちはイエスの航跡に従い、信号に注意し、主の海図に従って舵をとり、呼べば答えられる所におられる主を覚えて、決して恐れないようにしたい。護送船団のうち一そうたりとも、難破するものはない。大提督がすべての舟の一つ一つの舵をとり、目指す港へ安全に伴われるのである。
信仰によって、私たちはいかりづなを解いて航海に出る。そしてイエスと共に苦難の海に乗り出す。風波は容赦しないだろう。しかし、それらはすべてイエスに従う。だから、外にどんな突風が吹いても、信仰により、内には幸いな平和がある。ゆえに、私たちは主にあって喜ぼうではないか。主の舟はすでに港に入った。こうして私たちもまもなく港に入るであろう。
 
 

9月13日(日)のつぶやき

2015年09月14日 01時45分29秒 | キリスト教