彼は口実を考えてまぎらわそうとした。しかし、それはむだであった。腫れ物がうむように、苦悩は増大し、彼が告白というメスを用いようとしなかったので、その霊は苦悩に満たされて安息を得られなかった。
ついに彼はへりくだり、罪を悔いて神のみもとに帰るか、それともその場で悶死するかのどちらかであることがわかった。それで彼は、急いで恵みの御座に行き、すべてをご存じであるお方の前で、自分の悪の巻き物を広げ、これまでのすべての邪悪を、詩篇五一篇、その他の詩篇にあることばをもって告白した。このことをなし終えると(これは非常に簡単なことだが、高慢な者にはこの上なく困難である)、彼はすぐに神の赦しのしるしを受けた。彼の砕かれた骨は喜び、彼は密室を出て、咎を赦された者の祝福を歌った。
恵みによってなす罪の告白の価値を見よ! それはすべての価値にまさって尊ぶべきものである。いやしくも、真実の、幸いな告白がなされるところ、あわれみは自由に与えられる。悔い改めと告白に、あわれみを受ける価値があるからではなく、ただキリストのゆえに与えられる。神はほむべきかな。砕かれた心のあるところ、必ずいやしがある。私たちの罪をきよめる泉は絶えず流れている。
おお、主よ。まことにあなたは「赦しの神」であられます。それゆえ、主よ。私たちは自分の罪を告白します。