座間コミニティー

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◆私は眠っていましたが、

2015年09月24日 16時54分51秒 | 聖書
心はさめていました。(雅歌五・二)
 
クリスチャンの経験の中に逆説は無数にある。花嫁は眠っていたが、心は覚めていたとあるのは、その一つである。深い経験をもつ人にして、初めてこの信者のなぞを解くことができる。今夜の聖句の二つの要点は、悲しみに沈む眠りと、希望に満ちた目覚めである。
「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
 お立ちになっておられる愛の御姿
 私のたましいはこの客をお迎えする
 すべてのまといつく罪を振り捨て
 開いた心と苦しむ手を伸ばして
 
 

「古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ…

2015年09月24日 16時53分37秒 | 聖書


新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:24)

古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着るべき事を教えられている。
新しくなるとは、つまりは古い人を脱ぎ捨てる事だ。
ある古い工場が売りに出されていた。
ガラスは割れドアは壊れ、外装もはげ落ちていた。
買い手が現れ、喜んだ家主は、ガラスを替え、ドアを修理し、外装を塗り直すと言った。
しかし、買い手は一切無用だと言った。
なぜなら、全部取り壊して、全く新しい施設を作るからと。
私達の新生も同じだ。
一部を修理するのではなく、全く新しい建物が建て上げられるという事だ。
新しい建物を建てるために、古い建物を壊さなければならないが、その古い建物が捨てられない。
古い思考パタンや見方考え方が根強くて、なかなか捨てられない。
主を信じ救われているが、価値観は古いままだったりする。
古いままの価値観や思考パタンの上に、新たな建物を建てている。
そうであるなら、主の言われる事より、自分の思いの方を信じる。
御言葉より、目に見える所や常識を信じる。
その古い価値観が問題だ。
それを脱ぎ捨てない限り成長がない。
御言葉を、その通りに受け入れないからだ。
幾ら愛されていると言われても、いいや、そんなはずはないと心の底では否定している。
御言葉を信じないで、古い価値観の方を信じている。
私たちはどうだろう。
新しくされている。
古い価値観を脱ぎ捨て、脱ぎ捨て前進しよう。
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御霊様がうちにおられるのに、なぜいつまでも自分の知恵や習慣で生きてしまうのだろう。
主が新しく変えて下さる事を信じ、自分を閉じこめている古い人を脱ぎ捨てて行こう。


今日の聖人の記念日

2015年09月24日 06時00分09秒 | キリスト教

聖ノエル・シャバネル司祭殉教者

1613年-1649年

 ノエルは、フランスのメンデに生まれ、17歳のときにツールーズのイエズス会に入った。

 1641年に司祭となって、カナダへ派遣された。当時のカナダは、ヒューロン、アルゴンキン、イロクワなどの遊牧民が勢力争いをしていた。ノエルは、1644年にヒューロン地方の遊牧民のところに行き、先にそこで宣教活動をしていたガルニエ司祭とともに働いた。風土・習慣になじめず、言葉のハンデもあって宣教が難しかったが、決してあきらめず、生涯をヒューロン人のために尽くそうと決心した。

 このころから、イロクワ人による迫害が激しくなり、ガルニエ司祭をはじめ、仲間の宣教師たちが次々に虐殺された。ノエルは森に避難したが、キリスト教に反感をいだいてたヒューロン人から殺されて殉教した。彼は、失敗をした人の保護者といわれる。


第1歴代誌15章1-15節

2015年09月24日 05時58分56秒 | 聖書


15:1 彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。
15:2 そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」



 主によって選ばれ、王として立てられたダビデは、彼自身、自分を選んでくださった主に対して、忠実な人でした。

王となるならば、自分が最高位に立つ者として、何でも自分の願うことを一番に立てることが多い中にあって、彼が最も自分の心に留めていたことは、自分のことではなく主のことでした。

彼は、主によって立てられた王です。

ですから、主の御心を第一にして、その御心に従っていきたいと願ったのです。

そのために、彼は主の御心が知らされていた時には、それを第一にしました。

その1つは、自分の町に神の箱を運び込みたいということでした。

もう1つは、運び込むためにも、主の御心に従って、それをなしたいということでした。


◆心 を 与 え よ

2015年09月24日 05時56分51秒 | 聖書

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言二三26)
 
文語訳では、「わが子よ汝の心を我に与え」となっています。私が、若い時から暗唱し、祈るたびに心に浮かんでくるようになった聖書のことばの一つです。
ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(Ⅰヨハネ三16)と言いました。私たちのためにすべてを与えられたお方が、「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」と言っておられるのです。
私は、その人となりや人生から、平和とか喜びとか思いやりとかの圧倒的な力がにじみ出てくる人におめにかかったことがあります。そういうものは、教養とか財力とか権力ではなく、人生のほんものの力です。そんな人は、心を神に与えている人だと、私は感じています。旧約聖書に「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴代一六9)ということばがあります。神に心を与えきった人には、力が与えられるのです。
その心を神に与え、その心が神と一つになっている人とは、どんな人なのでしょう。ヘブル語の原語から見て三つの意味があります。
第一に、神に対して全く平和になった心です。くだけきって、神に逆らう石の心の部分がありません。悔い改めて罪ゆるされたからです。
第二に、まるごと神に明け渡した心です。一部分でも私するところがありません。
第三に、ささげられた心です。神のみ声がかかったら、すぐに従って実行する心です。
神は全世界を見まわして、捜しておられます。そんな心を! そしてその人に、愛や喜びや平和の力を与えてくださいます。
 
 

◆私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを

2015年09月24日 05時55分56秒 | 聖書
王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。(エズラ八・二二)
 
護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。
 
 

9月23日(水)のつぶやき

2015年09月24日 01時47分30秒 | キリスト教

◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。 goo.gl/AdFrvZ


「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、 goo.gl/B8d0e0