「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
お立ちになっておられる愛の御姿
私のたましいはこの客をお迎えする
すべてのまといつく罪を振り捨て
開いた心と苦しむ手を伸ばして