キリストの十字架自体、世の人のつまずきとなっている。十字架は、「ユダヤ人にとってはつまずき」である。すでに十分であるつまずきの上に、私たちがさらにつまずきを加えないようにしよう。「異邦人にとっては愚か」である。私たちの愚行によって、福音をあざけるこの世の知恵に、さらに乗ずるすきを与えないようにしよう。
私たちは自分のことについて、どれほど注意深くなければならないことだろう。私たちの良心をどれほど堅固なものにしなければならないだろう。敵は私たちの最上の行為さえ誤り伝え、行為を非難できない時は、私たちの動機に向かって攻撃を加える。バニヤンの『天路歴程』の中で、巡礼者は虚栄の市において容疑者として扱われた。私たちは、監視されているばかりでなく、敵の回し者は私たちが考えている以上に多い。スパイ網は、至る所に張り巡らされ、内にも外にもある。もし私たちが敵の手に陥るならば、狼のほうがむしろ彼らより寛大であり、悪霊のほうがまだ彼らよりあわれみをもつ。神に対しては不信仰であり、神の民を中傷する人々に、私たちの弱点が容認されることを期待することなど、およそ望み得ぬことである。
おお、主よ。敵が私たちをつまずかせないように、絶えず導いてください。