座間コミニティー

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◆七たびくり返しなさい

2015年09月28日 18時40分14秒 | 聖書
(Ⅰ列王一八・四三)
 
主が約束された時には、成功は確実である。あなたが幾月か祈っても、答えのきざしのないことがあるかもしれない。しかし、主の民が主のご栄光に関することを熱心に祈っているのに、主が耳を貸さないということはあり得ないことである。
カルメル山上の預言者は神と格闘し続けた。そして一瞬たりとも、主の法廷で自分の訴えが却下されはしないかと恐れたことはなかった。しもべは、六度まで帰って来た。そのたびに「もう一度行きなさい」とのことばだけがあった。私たちは、七度を七十倍するまで信仰を固守すべきである。信仰はカルメル山から眺めさせるために、待ち望みの希望を送り出し、もし何も見えなければ、何度でも見に行かせる。
信仰は度重なる失望に挫折せず、むしろいっそう熱心に神に嘆願をする。信仰は謙遜を与える。しかし決して恥じ入っているのではない。信仰のうめきは深くなり、その嘆息はさらに激しさを増す。しかし決してその手をゆるめない。祈りの答えがすぐに得られることは、血肉にとっては快い。しかし信仰深いたましいは従順を学んでいる。そして主にお仕えすることと同様に、主を待ち望むことがよいことであるのを見いだしている。答えが遅れることは、しばしば自分の心を反省させて悔い改めに導き、霊的改革をもたらす。
こうして、私たちの腐敗に致命的な打撃が加えられ、よこしまな思いの部屋がきよめられる。最大の危険は、人が気力を失って祝福を受け損なうことである。友よ。そのような罪に陥ることなく、祈りと見張りとを続けよ。ついに小さな雲が見えた。大雨の前触れである。あなたの場合も同様である。よい事のしるしはたしかに与えられる。そして、求めてきた恵みを受けるために、あなたは王侯のように立ち上がるだろう。
エリヤは私たちと同じような人であった。神を動かした力は、彼の功績のうちにはなかった。彼の信仰の祈りがそのように力があったとすれば、あなたの祈りがそうでないことがあろうか。絶えず執拗に尊い血潮によって嘆願せよ。必ずやあなたの願いのようになる。
 
 

「御国のことばを聞いても悟らないと、

2015年09月28日 18時39分07秒 | 聖書

悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。
道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」(マタイ13:19)

救われたクリスチャンの願いは、誰しも「信仰の成長、霊的成長」では無いだろうか。
スムーズに成長して行く事を阻む原因は何だろう。
まず御言葉を聞く態度は大切だ。
信仰は聞く事から始まり、聞く事はキリストのことばによる。
それゆえ信仰に成長したいのなら、どうしても御言葉を聞く必要がある。
その聞き方が、ぼや~っと聞いていては右から左で、種が心に落ちないし、とどまらない。
サタンがいて種を奪ってしまう。
種が心に植わらない限り、結実はあり得ない。
聞いているつもりが、心に何一つとどまってはいない。
うわの空で、他人事として聞いている。傍観者的態度だ。
私達はどうだろう。又、御言葉を聞いても、自分の思いが強いため、心に植わらない。
先入観や偏見が強く、御言葉と自分の思いがある時、自分の思いの方を選択し優先させてしまう。
だから、聞いてはいても、実際は御言葉を捨ててしまう事になる。
神以外の事を、優先させて行くと、伸びたいばらが芽をふさぐように、信仰の芽をふさいでしまう。
神の事柄がどんどん後回しになって行き、いつしか離れてしまう。
又、正しく受け止めた御言葉は、実行する事が何より大切だ。
従って行く時、必ず変えられて行く。
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成長できるように、主は繰り返し御言葉を語り続けて下さっている。
主の愛であり何と感謝だろう。
主が「心に植え付け」て下さる。
私達は「素直に受け入れ」るだけだ。


今日の聖人の記念日

2015年09月28日 06時08分51秒 | キリスト教

聖トマス西と15殉教者

 

 秀吉時代から徳川家光の時代までの、宣教師として最後の殉教者で、日本26聖人殉教者(2.5記念日)に入らなかった女性と日本人司祭が含まれている。

 日本人の司祭であるトマス西、サンタマリアのヤコブ朝長、十字架のビンセンチオ塩塚の3人と、長崎のマグダナレナ、大村のマリナとして知られている女性がいた。またフィリピンの最初の聖人であるロレンソ・ルイズなど、日本から追放されたが死を覚悟して再び来日した外国人司祭もいた。

 彼らは、日本で列聖された最初の日本人司祭と女性である。


◆助  け  出  せ

2015年09月28日 06時07分31秒 | 聖書

捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言二四11)
 
ベイリー・モアさんというカナダの伝道者から聞いた話です。あらしの晩に、イギリスのある海岸で近くの暗礁に乗りあげて、船が沈没しました。村人は総出で小舟を出し、海に浮かぶ一人一人を助けました。女たちや年寄りや子どもは、砂浜にたき火をどんどんたいて待っていました。さて、最後の舟がもどってきました。聞いてみると切り立った岩の上に一人の男が声のかぎり助けを求めていたのですが、波がすさまじく、どうしても舟を近づけることができません。そこで、ひとまず浜に帰ってきたのです。
若者たちは額を集めて、見捨てるか、助けに行くかを相談しました。いのちがけで助けに行こうと話が決まって、舟を出そうとしました。すると一人の婦人が髪をふりみだしてかけ寄り、一人の青年に抱きつきました。「行かないでおくれ、息子や。お父さんも海で死んで、お前の兄さんも海で行方不明じゃないか。行かないで――。」しかしその青年は、優しく言いました。「お母さん、大丈夫だよ。あの人を見殺しにゃできない。」出かけていった舟は、長いことしてから浜を指して帰ってきました。「助かったかぁ。」「ああ、助かったぞー。」浜に着いて母親が駆け寄ってみると、何と助けられた男は、行方不明になっていた兄息子だったというのです。
この実話を聞いて、心が締めつけられる思いがしました。イエス・キリストは、体を張って十字架の上で血を流し、私たちを滅びから助け出してくださいました。ヨハネは、このように言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。人を見殺しにする心が私の中にもあることを感じて、恐れおののきます。
 
 

◆主は天から目を注ぎ、

2015年09月28日 06時06分38秒 | 聖書
人の子らを残らずご覧になる。(詩篇三三・一三)
 
恵み深い神を表すことばのうち、神が天の御座を降りて人類の欠けを助け、わざわいを免れさせるために親しくおいでになるという表現ほど、それにふさわしいものはないだろう。ソドムとゴモラが悪に満ちている時にも、親しくその地を訪れて検分するまでは、それを滅ぼされなかった神を私たちは愛する。臨終の床にある罪人が神との和解を求める時、栄光の御座より耳を傾け、その耳を罪人のくちびるにつけて聞いてくださる神に、私たちは心からの愛情を感じる。
神が私たちの髪の毛をも数えきり、行く手を指し示して導いてくださることを知る時、どうして私たちは神を愛さないでおられるだろうか。神がその被造物の物質的要求だけでなく、霊的要求に対してどれほどの配慮をなさるかを思う時、この偉大な真理はさらに近く私たちに迫る。
有限な被造物と無限な造り主との間には、大きな隔たりがあるが、なおこの二つを結ぶ鎖の輪が存在する。あなたが涙を流すとき、神がそれを見ておられないと思うのか。否、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。あなたの嘆息は、主の御心を動かし、あなたのささやく声は主の耳を傾けさせ、あなたの祈りは主の御手をとどめ、あなたの信仰は主の御腕を動かすことができる。
神が高い御座におられて、あなたのことなどかまっておられないなどと思ってはならない。あなたがどれほど貧しくても、主はあなたを御心にかけてくださることを覚えよ。なぜなら、主の目は、全地をあまねく見そなわして、ご自身に向かって心を注ぐ者に御力を現してくださるからである。
 おお、疲れることを知らない真理を反復せよ
 私のたましいの慕う神のような神は
  ほかにおられない
 主の御声に、天も震えおののく
 主は大いなる方
 しかし私のために身をかがめることを
  ご存じの方だ
 
 

第1歴代誌16章8-14節

2015年09月28日 06時05分27秒 | 聖書


16:9 「主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
16:10 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
16:11 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」



 ダビデは単に自分の都合のために、また自分の王としての働きの益のために、神さまを慕い求めたのではありませんでした。

彼にとっては、主こそ自分のすべてであり、またこのお方によって自分は生かされていることを知っていました。

彼にとっては、主と共にあることが、すべてに勝って一番良いことであったのです。

 ですから、その心の内から出る思いは、主を褒め称えて生きるということであり、また主を絶えず慕い求めて、主の導きの中で自分が生きることこそが、最も願わしいことであったのです。

王であるということは、その次のことでありました。

彼は自分が王であるということは、主がそのようにしてくださったからであり、主によってのみ王としてのあり方も守られるのだと思っていたのです。

主のみを慕うということが、一番のことだったのです。


エステル6章12~13節

2015年09月28日 06時02分58秒 | 聖書


★それからモルデカイは王の門に戻ったが、ハマンは嘆いて、頭をおおい、急いで家に帰った。そして、ハマンは自分の身に起こった一部始終を妻ゼレシュとすべての友人たちに話した。すると、彼の知恵のある者たちと、妻ゼレシュは彼に言った。「あなたはモルデカイに負けかけておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」

■O:今日のコラム
エステル記においてハマンはユダヤ人の大虐殺に向けて悪しき計画を企てます。ハマンはアガグ人と書いてありますが、このアガグ人とはアマレク人の子孫です。聖書の歴史を見るとアマレク人は繰り返しイスラエルを滅ぼす力として登場します。

現在もこのアマレクの力は約束の民を滅ぼす為に働いています。ハマンは狡猾に法律を変えてユダヤ人虐殺の道を作ろうとしました。今、世界中の国々では同性愛の法律が定められ始めています。

もちろん同性愛の人々も主イエスを信じて救われ、受け入れられ、癒され、回復される必要があります。しかし、私達は聖書がYesと言う事をYes と言い、聖書がNoと言う事はNoと言わなくてはなりません。人間中心では無く、絶えず神が中心である事を求める必要があります。

この法案の故にアメリカにおいては同性愛に反対したクリスチャンが逮捕される事まで起こり始めています。
これがさらにエスカレートして行くと教会で真っ直ぐに真理を語る事が出来なくなり、さらには聖書は同性愛の法律に反対する違法の書物となります。私達はこの事をとりなし祈る必要があります。

また、現在パレスチナを国として認める国際的な法が通ろうとしています。もちろんパレスチナの人々も救われ、守られ、助けられ、平和を得る必要があります。

しかし、この法案が成立するとイスラエルは大変不利な立場に立たされ、世界から非難を受け、法的に裁かれる事となります。

サタンは何とかしてイスラエルを無くしたいと願います。イスラエルが無くなれば主イエスが再臨する場所も無くなるからです。

しかし、主の御言葉はこの世のどの法案よりも、上にあり、力があります。主が約束された事は必ずこの地に実現します。

エステル記の時代にも、エステルの断食によるとりなしによってハマンの悪しき計画が、むしろ主の民の大いなる勝利へと変えられた様に、今の時代もキリストの花嫁なる教会の断食と祈りにより全てのこの世の暗闇は、むしろ主イエスの栄光が光輝く機会とされるのです。

私達は共に麗しさと勇敢さを持ったキリストの花嫁として、祈りに立ち上がりましょう。

■A:考えてみよう
教会を日本を国々を、そしてイスラエルを覚えて今日とりなしの祈りをしましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月27日(日)のつぶやき

2015年09月28日 01時46分10秒 | キリスト教