座間コミニティー

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◆この子のために、

2015年09月19日 17時03分43秒 | 聖書
私は祈ったのです。(Ⅰサムエル一・二七)
 
信仰深いたましいは、祈りの答えとして与えられたあわれみを回顧するのを楽しむ。それによって、神の特別な愛を見ることができるからである。私たちが自らの祝福をサムエル(「神に聞かれる」の意)と名づけるならば、サムエルが母ハンナにとっていとしいものであったように、その祝福は私たちにとっていとしい。ペニンナには多くの子どもがあったが、それは祈りによらない普通の祝福であった。ハンナはただ一人の子サムエルをはるかにいとしく思った。熱心な祈りの結果として与えられたからである。サムソンが主に呼ばわって与えられた「エン・ハコレ(呼ばわる者の泉)」の水は、どれほど甘美だったろう。苦い液はすべての水を苦くするが、祈りは飲み水を甘くする。
私たちは子どもの回心のために祈ったであろうか。子どもたちが救われ、それが私たちの嘆願の結果であると知ることは、二重の喜びである。血を分けた子どもであるからと喜ぶよりは、祈りの結果のゆえに喜ぶほうがはるかにまさる。私たちは、何か特別な霊的賜物を主に求めたことがあるか。それは神の忠実さと真の黄金の布に包まれているために、私たちに与えられる時、二重の尊さをもつ。私たちは主のみわざの成功を祈ったことがあるか。祈りの翼に乗って繁栄がもたらされるのは、いかに喜ばしいことであろうか。
祝福を私たちの家に迎え入れるにはどうしたらよいだろうか。常に最上の方法は、正しい道筋である祈りの門から迎え入れることである。こうして迎えたものは祝福であって誘惑ではない。祈りの答えが延引すればするほど、祝福は豊かになる。母マリヤがイエスを捜し求めて見いだした時、少年イエスは彼女にとっていつもよりはるかに愛らしかったであろう。
ハンナがサムエルをささげたように、祈りによって得たものを神にささげなければならない。天から下った賜物は天に帰せ。祈りによって得、感謝の歌を歌い、献身によってそれをきよめよ。
友よ。あなたにとって祈りは重要なものとなっているか。それとも退屈な味気ないものか。
 
 

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

2015年09月19日 17時02分50秒 | 聖書


神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)

信仰者に必要なものは信仰だ。神は霊であり肉眼では決して見えない。
どう頑張っても見えない。
「信仰」というメガネを通して初めて、神が見える。
「信仰」を通さなければ決して見えないゆえに、信じなければならない。
神がおられる事、神を求めるなら報いて下さる事を信じる必要がある。
自分の願い事を求めるのでなく、「神」ご自身を求める事が大切だ。
そうするなら必ず報いて下さる。
神のために生き、神ご自身との交わりを求めて生きるなら、必ず報いがある、これを堅く信じよう。
神を求めて歩むとは、御霊によって歩む事だ。
御霊による歩みと、肉による歩みがある。
御霊の導きを選択するか、自分の欲望を選択するかだ。
自分の欲望のままに歩むと、自己中心、偽り、虚栄、貪欲、妬み、そねみ、争いに向かう。
しかし、自分に死んで、御霊に歩むと、自制の実を結び、愛、寛容、親切、善意…の実を結んで行く。
そして、どちらも刈り取りがある。
肉欲に歩むと、周囲にも害毒を流し、自分の行為の結果を刈り取る事になる。
又、御霊に歩むと、温もりと潤いを周りにも溢れさせ、証しとなり、実を結んで行く。
神を信じる歩みは決して虚しいものではない。
報いがあり豊かに刈り取って行く歩みだ。
目に見えるところに惑わされず、神を信じて歩もう。
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信じた時、従った時、目に見えない神が見える。
御霊の導きに従った時、神に愛されている事がわかる。
信じて従うほど、ますます愛がわかる。
この喜びと平安と満足は何にも代えられない。


今日の聖人の記念日

2015年09月19日 06時06分21秒 | キリスト教

聖ヤヌアリオ司教殉教者

?-305年

 ヤヌアリオは、イタリアのベネヴェントで生まれた。ローマ皇帝ディオクレティアヌスの迫害のときに、その地の司教であった彼は、数人の助祭や信徒とともに捕えられた。ヤヌアリオは信徒たちを励まし、ポッツオリに送られ、そこで殉教した。

 遺体は、413年にナポリの郊外のカタコンブに移された。彼はナポリの守護の聖人といわれ、その絵はシュロの葉と開いた本を持って描かれている。


第1歴代誌12章23-37節

2015年09月19日 06時05分02秒 | 聖書


12:23 主のことばのとおり、サウルの支配をダビデに回そうと、ヘブロンにいるダビデのもとに来た、武装した者のかしらの数は次のとおりである。
12:24 ユダ族で、大盾と槍を手にし武装した者六千八百人。
12:25 シメオン族から軍務につく勇士七千百人。
12:26 レビ族から四千六百人。



 ダビデの下には、多くの部族から戦いに出ることが出来る人々が集まってきました。

それらの人々は、イスラエルの12部族のすべての部族から来た人々でした。

これらの人々がダビデの下に来た理由は、ここで「主が語られたとおりであった」と言われているように、主がダビデを王にしようとされた、その主の意向によって導かれてきた人々でした。

つまり、主がそのようにご計画され、又そのご計画に従って人々の心を起こして、導いてくださった結果であると告げているのです。

 なぜ主は、ダビデのためにこのような多くの人々を起こしてくださったのか。

それは、彼をイスラエルの地における真の王として立て、擁護されるためであったのです。



◆ねたんではならない

2015年09月19日 06時02分59秒 | 聖書

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。
ただ主をいつも恐れていよ。     (箴言二三17)
 
ねたみ心ほどみじめなものはないと思います。あなたはどう思われるでしょうか。自分が被害者だと決めこみ、ねたむ心でまわりを見まわすと、くやしいことばかり、いっぱい見つかります。「自分はまじめに一生懸命やっているのに、ちっとも認められない。ごまかして、適当にやっている人のほうが重んじられて、出世した。月給も多いし、得をしている。……」
いったんねたみ心を持つようになると、心から平和や喜びがなくなり、やたらに攻撃的な破れかぶれの心になります。自己憐憫にはまりこみ、みじめな思いに苦しむだけです。ねたみ心からは、何一つよいものは生まれてきません。ねたみ心を分析してみると、いろいろと興味のあることが分かります。
第一は、かけ離れた人はねたまないで、身近な者をねたむことです。総理大臣はねたまず、同僚をねたみます。今のことをねたみ、永遠の先のことなら、けっしてねたみません。ねたみ心は近視眼なのです。
第二は、真実な価値・永遠性にねたみは向きませんが、色欲・物欲・名誉欲などに関係することだけねたみます。隣の人が、心さわやかに神に祈り、きよい喜びに満ちていても、けっしてねたみません。しかし、自分よりえらくないと思う人が、家を建てたりするのを見るとねたむのです。ねたみ心は野獣的です。
第三に、ねたみ心には、自分の価値と能力に対するばかげたほど安っぽい自負心があることです。ねたみ心は、愚かなピントはずれの心なのです。
第四に、ねたみ心は、自分もあの人のようになれるなら、罪人の道へ走ってもみようかと思う、罪にまどい汚染された病める心なのです。
私たちは、心のきよい者に対してあくまでもいつくしみ深い神に目を向け、神を恐れて進まなければなりません。
 
 

◆キリストは、

2015年09月19日 06時01分31秒 | 聖書
自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(ガラテヤ五・一)
 
この「自由」は私たちを解放して、天国の憲章である聖書に向かわせる。信者よ。ここに金言がある。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり……」と。あなたはそこで自由である。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず……」との聖句がある。あなたはここにでも自由である。約束の食卓に招かれている客である。聖書は無限の恵みに満ち、尽きることを知らない宝庫である。またそれは天の銀行である。何の妨害もなくあなたの欲するままに引き出してよい。
信仰をもって来れ。あなたはあらゆる約束の祝福に歓迎される。神のみことばの中には撤回されるような約束は一つもない。苦難の底に置かれても、この自由によって慰めを得よ。苦悩の大波の中にも、これによって自らを励ませ。悲哀が取り囲む時、これをあなたの慰めとせよ。これはあなたの父の贈り物である。あなたはいつでも、それを自由に受けることができる。
あなたはまた、恵みの御座に自由に近づくことができる。どんな時にも天の父に近づけることは、信者の特権である。私たちの願望、困難、欠乏がどのようなものであっても、自由に一切を父なる神の前に広げることができる。私たちがどれほどの罪を犯してきたかは問題ではない。罪の赦しを求め、かつそれを期待してよい。私たちがどれだけ貧しくても問題ではない。主こそすべての必要を備えてくださるとの約束に従って、求めればよい。いつでも、私たちは主の御座に近づくことができる。
おお、信者よ。あなたの権利を用いて、あなたの特権に生きよ。キリストの中に蓄えられているすべてのもの――知恵、正義、聖潔、贖い――をあなたは自由に得ることができる。キリストの中には満ち足れる供給があり、それはあなたのためのものである。
ああ、あなたはなんという自由を与えられていることか。罪の刑罰からの自由、約束に対する自由、恵みの御座に近づく自由、そして天国に入る自由まで!
 
 

9月18日(金)のつぶやき

2015年09月19日 01時48分55秒 | キリスト教

◆もし私たちが御霊によって生きるのなら、 goo.gl/UkeWRg


「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 goo.gl/M7O8qe


◆わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。 goo.gl/LdvT5x