座間コミニティー

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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2015年09月30日 17時13分01秒 | 聖書
(伝道者九・四)
 
いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。
 
 

「患難さえも喜んでいます。

2015年09月30日 17時11分59秒 | 聖書

それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)

何となく信仰生活を誤解していたりする。
信仰を持つと良い事づくめであり、又、人生、肯定的に、スムーズに行く事が神の祝福と思っている。
受験は合格、畑は豊作、商売繁盛、無病息災、都合良く行く事が祝福で、不合格、不作、倒産や病気は祝福が無いと思ってしまう。
強いては順境の時は神に愛されていて、逆境の時は愛されていないと思う。
順境は善で、逆境は悪との価値観があるからだ。
それで、逆境が来ると「なぜ?なぜ?」と落ち込む。
世はまさにそれなので、周囲からは、信仰の意味がないという目で見られる。
しかし、聖書はそんな事は言っていない。
信仰者の目的は平穏無事、幸せ、安楽ではない。
聖くされる事、御子のかたちに変えられる事だ。
そのため、神の子となった途端に、神はどんどん取り扱われ、鍛えられる。
「ご自分の聖さにあずからせ」るために試練が臨む。
逆境は悪ではなく、それを通して私達の品格が練られ、弱い者が強くされて行く。
ここをわきまえているなら不必要なつまずきから守られる。
ある人は、近所からの事実無根の誹謗中傷に苦しみノイローゼ状態だった。
しかし、試練と受け止め、苦しみの中で祈りつつ委ねて対応した。
すると事態の収束と共にある事を発見した。
人が気になる性質がどうにもならなかったのが、人が気にならなくされていた。
試練を通して主が変えて下さった。
御名を崇め、感謝に溢れた。
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順境に感謝するのはよいが、試練に打たれて、本当の自分に向き合い、信仰を働かせることを学ぶ。
はるかに感謝な事だ。試練を避けず神様からの品格を身につけたい。


今日の聖人の記念日

2015年09月30日 07時18分17秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。


◆食 欲 の 問 題

2015年09月30日 07時16分56秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)
 
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。
 
 

◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2015年09月30日 07時16分06秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)
 
神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ
 
 

第1歴代誌19章16-19節

2015年09月30日 07時14分44秒 | 聖書


19:18 アラムがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはアラムの戦車兵七千と歩兵四万をほふり、将軍ショファクを殺した。
19:19 ハダデエゼルのしもべたちは、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、ダビデと和を講じ、彼のしもべとなった。アラムはそれからはもう、アモン人を救おうと思わなかった。



 アモン人はダビデと戦うために、アラム人の戦車や騎兵を雇って戦いに臨みました。

ダビデは、将軍ヨアブとその兄弟アビシャイによって戦わせました。

アラム人は、初めの戦いでイスラエルの軍に敗れました。

そこで、同じ民でヨルダン川の東の側に備えていた軍も呼び寄せました。

しかし、その軍隊も打ち破られてしまいました。

その結果、アラム人は戦う意欲を失い、ダビデと和を講じて戦いをやめました。

そして、もうアモン人を助けることをしませんでした。

こうした、アモン人が助けを求めたアラムの軍隊の支援は、効果を持たなかったのです。

彼らがより頼んだ軍は、先にダビデが打ち破ったことのあるハダデエゼルでした。

勝つはずがなかったのです。


伝道者の書 3章10-12節、ピリピ3章1節

2015年09月30日 07時12分30秒 | 聖書


★私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

■O:今日のコラム
日々の生活の中でつらいとこを通る時、また苦しい時、私たちはよく神様に不平不満を口にしてしまいます。また、神様に疑問を抱くでしょう。神様は、恵み深い愛に満ちた天のお父さんなのに、なぜ、こんな苦しみを通らせるのかと。愛の神なら、こんな苦しみなんかを通らせないと思いがちです。

しかし、今日の箇所にはっきりと書いてあるように、主は私たちに労苦させる仕事を与えるとあります。

苦しみを通る、労苦は、自分の罪の結果の時もあれば、そういう時でない時もあります。その違いは聖霊様によって吟味をしなければなりませんが、罪からきた労苦であれば、主は憐れみ深い方なので、その罪から背を向け、主に立ち返ると、多くの場合、その労苦から解放されます。

しかし、今日の箇所を読んで分かるように、主が与えられる労苦というのがあります。そして、これに続き、主のなさることは、すべて時にかなって美しいとあります。ということは、労苦も時にかなって美しいのです。

私たちは、主がなさることを見きわめることは不可能です。なので、なぜ、労苦をある時に与えるのか分かりません。時々、どうみても、タイミングが悪いのに、そういうときに労苦が増して、「どうしてーーー!」って叫び泣きたくなる時もあるかもしれませんが、神様から見たら、すべて時にかなっているのです。

だから、ソロモンは悟ったのです。そして、パウロも、労苦に対する秘訣を得ていました。それは、主にあって、どんな時も喜ぶということです。

労苦を避けることができない。であれば、その中で、喜び楽しむことを学ぼうではありませんか。


■A:考えてみよう
労苦の中にいますか?苦しい時期を通っていますか?主にあって、喜びを見出していきましょう!それが私たちの力となり、前に前に歩み続けることができます。そして、主に信頼しましょう。この時もすべて、主にあっては美しいものであることを。だから、いつも喜び楽しみましょう!

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月29日(火)のつぶやき

2015年09月30日 01時46分49秒 | キリスト教