座間コミニティー

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◆しかし、御霊によって導かれるなら、

2015年09月06日 17時05分21秒 | 聖書
あなたがたは律法の下にはいません。(ガラテヤ五・一八)
 
律法の観点から自己の品性と位置とをながめる人は、もし賢明なら、その観察の最初から失望するであろう。もし私たちが律法の立場からさばかれるとすれば、生きている者で義とされる者は一人もいないからだ。
神の前における私の状態を考える時、問題は「私は律法の前に完全であるか」ではなく、「私はキリスト・イエスにあって完全であるか」ということである。これは、非常な相違である。私たちは「生まれつき自分に罪があるか」と尋ねる必要はなく、「私は罪と汚れのために開かれている泉によって洗われたか」ということが大切なのである。「私は神に喜ばれているか」ではなく、「私は愛する御子によって受け入れられているか」ということである。
クリスチャンは、シナイの頂で与えられた十戒に救いの証拠を探して、「私は救われているだろうか」と心配し始める。しかし、自分の肩書きをカルバリの光に照らして読むほうがはるかによい。彼は「私の信仰には不信仰が混じっている。それは私を救うことができない」と言う。しかし、もし彼が自分の信仰ではなく、信仰の対象について考えていたら、次のように言ったであろう。「主には失敗はない。だから私は安全だ」と。彼は自分の希望を嘆いて言う。「おお、私は現在の事で心労し、私の希望は痛められ、曇らされている。どうして私は受け入れられよう。」彼が、もし希望の基礎を見つめていたならば、神の御約束が厳然と立っており、私たちの疑いがどうであれ、神の誓いと御約束は決して廃されないことを見たに違いない。
ああ、信者よ。律法の足かせをつけているよりも、聖霊によって福音の自由に導かれるほうが、常に安全なのである。あなたがどんな人間であるかということより、キリストがどんな方であられるかによって、自分を判断せよ。サタンはあなたの罪深さと不完全とを思い起こさせて、あなたの平和をだいなしにしようとする。あなたはただ忠実に福音を固守し、奴隷のくびきを拒むことによってのみ、その告発に対抗できる。
 
 

「あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。

2015年09月06日 17時04分32秒 | 聖書


あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした…廃墟となったわたしの宮のためだ」(ハガイ1:9)

主の宮が廃墟となっているのに、自分達は板張りの家に住んでいてよいのか。
現状をよく考えよと、主が、ハガイを通して民に語られた。
多く蒔いても少ししか収穫がなく、食べても飲んでも飽き足らず、幾ら稼いでも穴の開いた袋に入れるだけで、貧しく、生活が満たされる事がないと。
多くの収穫を期待しても、僅かしかないと。
「わたしはそれを吹き飛ばした」と。
「わたし」による事だと。天は露を降らさず、地は産物を産出しない。
神がストップをかけておられる。
なぜなら、神を顧みず、自分中心に自分の事だけに奔走してしたからだと。
神は何かを告げたいがために、時に祝福を差し控えられる。
神を忘れ、自分を喜ばせるだけの生活にある時、収穫が無いよう、事態がうまく行かないようにされる。
立ち止まって、考えさせるためだ。行く道をふさがれる。
自分勝手な道に行く者を懲らしめられる。それは神の愛だ。
放っておかれたなら、どうなっていたかわからない。
多くの人が、主を忘れて生活していたが、行き詰まったからこそ、主のもとに戻れたと証ししている。
あなたも今、色々な事でギクシャクしているか。
物事がうまく行かないだろうか。
何かが空回りしている。これでよいのかと、立ち止まって考えてみよう。
優先順位は狂っていないか。
第一のものを第一にしているか。あらゆる祝福と平安喜びはそこから来る。
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日々の忙しさにすぐに流されてしまう。
目の前がふさがれる時、状況よりまず神に目を向けよう。
神が立ち止まるよう合図を送っておられる。
何らかの軌道修正が必要かも知れない。
方向をそれないよう導いておられる神の愛だ。


今日の聖人の記念日

2015年09月06日 07時13分47秒 | キリスト教

聖カグノールド司教

?-633年

 カグノールドは、聖コロンバンとともに宣教に励んだ人物であり、コロンバンが建てたフランスのリュクセイの修道院の司祭であった。この修道院からは多くの聖人が出て、人びとの信仰生活を導き7世紀には、フランスで最も重要な修道院といわれた。
 コロンバンは、アイルランドの厳格な修道規則に従って儀式を重んじたため、フランスのメロヴィング王家の反感を買い、さらに610年にテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したことで、フランスを追放された。そのとき、カグノールドもコロンバンに従ってボーデン湖の近くに移り、宣教師として働いた。 612年以後は、イタリアのボッビオの新しい修道院で暮らした。615年にコロンバンが亡くなった後、カグノールドはラオン市の司教となって、教会のために力を尽くした。


第1歴代誌11章4-9節

2015年09月06日 07時12分24秒 | 聖書


11:5 エブスの住民はダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。」しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。 11:6 そのとき、ダビデは言った。「だれでも真っ先にエブス人を打つ者をかしらとし、つかさとしよう。」ツェルヤの子ヨアブが真っ先に上って行ったので、彼がかしらとなった。




 ダビデは、王として民から承認を受けて、その油を注がれた時、ヘブロンに住んでいました。

後に、彼はその地からエルサレムに登りました。

そこが、全地を支配するためにふさわしい地だと思えたからです。

ところが、そこに住んでいたエブス人は、その町をダビデに譲ることを好みませんでした。

そこでダビデは家来に語って、誰でも真っ先に進んでいってエブス人を打つ人を、民の頭とすると伝えました。

その言葉に従って、ヨアブが立ち上がってエブス人の町に入り、勝利を確保しました。

 以来、エルサレムは、ダビデの町といわれています。

ダビデが居を置き、民を治めた町であったからです。



◆主によりたのむために

2015年09月06日 07時09分48秒 | 聖書

耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。
あなたの心を私の知識に向けよ。
これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。
これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
あなたが主に拠り頼むことができるように、
私はきょう、特にあなたに教える。(箴言二二17―19)
 
神のことばに心の耳を傾けよ。神のことばを心の中にためておけ。いつもそれを口に唱えることができるように、暗唱せよ。そうすれば、いつでも神によりたのむことができて、力強く生き抜くことができる。――このようにいわれています。
神によりたのんで生きることを、多くの人は弱々しい女々しい生き方だと思っています。しかし、策略・金権・エゴなどの人間的な力にたよらないで、目には見えませんが、主の正しさ・きよさ・愛にのみよりたのんで生きることほど、勇敢で力強い生き方はないと、私は心の底から思います。
さて、いつでも神を神として認め、どんな時にも神によりたのむ方法があります。第一に、普段から神のことばに耳を傾け、第二に、その神のことばを心の中に蓄え、第三に、自然とくちびるにのぼるよう暗唱しておくことだと思います。
有名な、古い話があります。四十歳くらいの実業家が破産して、にっちもさっちもいかなくなりました。ある夜、神戸の六甲山で、いよいよ自殺を決行しようとしたのです。しばらく瞑想していると、自然に「すべて労する者・重荷を負う者、我に来れ、我なんじらを休ません」ということばが、くちびるから出てくるではありませんか。いったい、だれのことばだろう。いったいだれがこう言っているのだろう。――考えていると、やっと分かりました。何年か前、神戸の湊川の教会へ行って覚えた、聖書にあるイエス・キリストのことばだったのです(マタイ一一28)。その人は、自殺を思いとどまって帰り、また教会に行きました。そして、力強い新しい人生に向かって出発したのです(箴言三5―6参照)。
 
 

◆曲がった邪悪な世代の中にあって……

2015年09月06日 07時08分51秒 | 聖書
彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ二・一五、一六)
 
私たちは物を明白にするために光を用いる。クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。彼らにいのちのことばを伝えなければならない。罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
 恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
 そうすれば、私も恵みに進み
 人を助け、いやすことばをもって
 あなたのいのちを内に現し
 雄々しく、柔和な行いで
 救い主キリストを証しします
 
 

9月5日(土)のつぶやき

2015年09月06日 01時46分34秒 | キリスト教