座間コミニティー

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◆キリストの測りがたい富……。

2011年08月22日 22時01分00秒 | 聖書
(エペソ三・八)

私の主がもっておられる富は、数学によって計算することも、理性によって測ることも、想像力によって夢見ることも、雄弁をもって語ることもできない。測りがたい富である! あなたはイエスをながめ、研究し、測れるかもしれない。しかし主は、あなたの考え得る極限をはるかに超えた偉大な救い主であられる。
あなたは罪を犯しやすいが、私の主はそれ以上に赦しを備えておられる。あなたが咎に陥るよりもはるかにまさって、それを赦すことができる。私の主はあなたが欠乏を訴える以上に、あなたのその欠乏を喜んで満たされるのである。私の主イエスについての不十分な考えに甘んじてはいけない。
私の主は、今あなたの上に授けなければならない幸福の富を所有しておられる。あなたを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる。主の笛にまさる音楽はない。主は羊飼い、あなたは羊、そしてあなたは主の足もとに伏す。主のもっておられるような愛はこの天地にない。キリストを知り、そして主に見いだされること、おお、これこそいのち、喜び、脂肪と髄、そしてよくこされたぶどう酒である。私の主は、そのしもべたちを粗末に扱うことをされない。主は、王が他の王に贈り物をするようにして彼らに与えられる。主はしもべたちに二つの天国を与えておられる。一つは、この地上で主に仕える、下にある天国。一つは、永遠に主にあって喜ぶ、上にある天国である。
主の測りがたい富は、永遠の世界において最もよく知ることができる。主はあなたが天国へ行く途上においても、あなたの要する一切のものを与えられる。あなたは堅き巌で守られ、あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される。しかしあなたが勝利者の歌を聞き、宴会に連なる者たちの叫びを聞き、愛する栄光の主に顔と顔とを合わせてまみえるのはかしこである。
キリストの測りがたい富よ! これは地上の歌人の調べであり、天上のたてごとの歌である。主よ。私たちにさらに深くイエスを教えてください。私たちはその良いおとずれを他の人々に伝えます。


子ども大切にする政治を教育のつどい アピール発表し閉会

2011年08月22日 14時10分24秒 | 福祉

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 千葉県内で開かれていた「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい―教育研究全国集会2011」が21日、分科会討論を終え、閉会しました。全日本教職員組合(全教)など27団体による実行委員会は「今こそ『子どもたちのいのちを慈しみ、人間として大切にする学校・地域』を創るために力を合わせましょう」と呼びかけるアピールを発表しました。

 つどいには、3日間で、のべ約6000人が参加しました。

 アピールは、高校授業料無償化など要求の前進面が後退しかねない情勢のもと、教育の中身の充実とそれを支える教育条件の改善を一体ですすめる重要性が語られたと指摘。教育政策の抜本的な転換に向け、「子どもと教育を大切にする政治を実現し、みんなで21世紀の未来をひらきましょう」と訴えています。

 代表委員の一人で、全教の北村佳久委員長は閉会後に記者会見し、「今の教育課題に向き合い、父母、国民とともに学校をつくる確かな教育実践を深めるつどいとなった」とのべました。

 研究室で紹介されて参加したという名古屋大学大学院の男子学生(23)は「保護者や地域の人と結びついた現場の活動を聞くことができ、自分の研究のヒントになりました。先生になりたい気持ちが強くなった」と喜んでいました。



シンポジウム「ホームレス自立支援法と社会保障制度」

2011年08月22日 13時56分47秒 | 予定・告知

日本のホームレス問題は、欧米諸国より10年遅く、1990年代に大きな社会
問題となりました。大都市の寄せ場で現役の日雇い労働者が恒常的に野宿を
強いられている状況が問題であった初期から、日本中の都市に野宿を余儀なく
される人が見られるようになり、さらに、2008年のリーマンショック以降は、ホー
ムレス状態にある人は、中高年の男性に限らず、全年齢化しています。

 国による対策も進み、「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が
議員立法により制定されたのが2002年です。ホームレス自立支援法は、ホーム
レス状態にある人々の自立を「就職自立」と想定しており、これに沿って施策が
展開されてきました。しかし、この「就職自立」を支援するという考え方は限界が
あったというのが、社会の大部分の評価です。考えるべきは、ホームレス状態を
余儀なくされている人々の生存権保障であり、また、「自立」にしてもさまざまな
形態を認めるべきであるということでしょう。

 ホームレス自立支援法は2012年で終了する予定であり、折しも、政府において
は、社会保障制度改革も議論されています。ホームレス自立支援法の10年から
得た教訓を、社会保障制度改革の議論にも活かすべく、様々な立場の方に議論
していただきます。

 多数のみなさまのご参加をお待ちしています。


            記

日時: 9月4日(日曜日) 午後1時半~5時
場所: 豊島区立勤労福祉会館 大会議室(定員250名)
http://www.toshima-mirai.jp/center/e_kinrou/#nav_access

シンポジスト  早川 和男さん(居住福祉学会)
          中川 治さん(民主党衆議院議員)
          稲葉 剛さん(自立生活サポートセンター・もやい)
          垣田裕介さん(大分大学)

コーディネーター  水内 俊雄さん(大阪市立大学)

特別報告   新村鉄也さん(仙台ワンファミリー)


参加費: 500円
      (ホームレス状態や生活困窮の方、ホームレス資料センター会員は無料)
主催: ホームレス資料センター 文京区湯島2-14-11-4F
電話: 03-5812-4850
メール: YHY07064@nifty.com
後援: ホームレス支援全国ネットワーク

*事前の御申し込みは不要です

●最低賃金法で規制される賃金の内容●

2011年08月22日 13時53分48秒 | 労働法
最低賃金法で規制される最低賃金額は、通常1時間当たりの金額で示されますが、その時間当たりの賃金額には、労働の対価に該当しないものは除かれます。例えば通勤手当は当然に最低賃金額からは除かれます。また家族手当や住宅手当のような生活保障的なものも除かれます。例えば時給換算で最低賃金額を上回っていたとしても、その中に家族手当や皆勤手当などが含まれている場合には、これらを除外して計算する必要があります。また所定時間外労働については最低賃金の適用対象外ですので、時間外労働に対する賃金が含まれている場合にはこれを除外して、所定労働時間について最低賃金をクリアしているかどうかの判断をしなければなりません。

出エジプト記7章14-18節

2011年08月22日 07時34分44秒 | 聖書
7:17 「主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」 パロに向かって行いなさいと言われた次の業は、水を血に替えることでした。主はモ-セに向かって、そのことをパロに語り告げなさい、と言われました。パロは水の所にいました。暑い所でありますので、水が心地よい思いを与えてくれるからであろうかと思います。しかし、水は王の生活に取っては絶対に必要とされるものでした。それを血に替えて飲めなくさせると告げよ、というのです。このようなことがなされれば、不安と恐れを感じることでありまして、通常でしたら、それがなされないために、主の要求を聞き入れるということを思うのです。しかし、パロは心をかたくなにして聞かないであろうと言われています。それは、彼にとっては、イスラエルの民がエジプトから出ていくとことの方が、より不都合であったからです。

◆自任か、モットーか、追求か

2011年08月22日 07時28分23秒 | 聖書
正義と誠実を追い求める者は、
いのちと正義と誉れとを得る。    (箴言二一21)

まじめに誠実にやっていけばそれでいいという考えが、今も日本人の人生観の底流となっているようです。この箴言のことばは、日本人のそんな人生観にはんこを押してくれるもののように響きます。ところがどっこい、そうではないと思うのです。
正義と誠実について、同じように見えながら、全く違う三つの態度があります。
第一は、自分は正義だ誠実だと自任する態度です。そのように自任する人で、ほんとうに正しく、ほんとうに誠実な人がいるでしょうか。それに対して、私も聖書もイエス・キリストも、大きなクエスチョンマークを持っています。
エルサレムの神殿の前に、パリサイ人と取税人が祈りに来ました。正しいまじめな者だと自任するパリサイ人は、こう祈りました。「神よ。私が、隣にいる取税人のような罪人でないことを感謝します。私は、祈りや施しや断食に励んでいます。」ところが隣の取税人は、うつむいて胸をたたき、「神よ。この罪深い私をあわれんでください。ゆるしてください」と祈りました(ルカ一八9―14参照)。
第二に、自分は正義と誠実をモットーとして生きていこうと、言い聞かせている態度です。まじめ人間の特徴として、同情はできます。しかしこれは、きたないどぶ川に、「いのちの清水」と立て札を立てるようなものです。立て札やラベルだけで、人間がどうなるものでもありません。
第三に、正義と誠実を追い求める態度です。自分にはそれがない、自分はそれが欲しいと、飢え渇いて、神に向かって心を開いて求めます。自分が正しい、自分が誠実だなどと言いません。しかし神の前に全く開かれた心に、神が、ゆるしによる義・愛によるいのち・人の誉れでない天の誉れを与えてくださるのです。


◆エルサレムの娘たち。誓ってください。

2011年08月22日 07時24分51秒 | 聖書
あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。(雅歌五・八)

これはイエスとの交わりを求めてあえぐ信者のことばである。彼は主に対する愛のために病んでいる。恵まれたたましいは、キリストに近くいなければ決して満たされない。なぜならキリストから離れている限り、平安がないからである。信者は、主に近づけば近づくほど、天国の全き静けさに近づくのである。また、心が満たされるのである。平安で満たされるだけでなく、いのち、活力、喜びに満たされる。なぜなら、これはイエスとの絶えざる交わりに依存しているからである。
キリストの私たちに対する関係は、太陽が昼に、月が夜に、露が花に対するごとくである。パンが飢えた人に、着物が裸の人に、大きな岩陰がくたびれる旅を続けている旅行者に対するごとくである。だから私たちが主と一体であることを意識していないとすれば、私たちのたましいが「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください」と叫ぶのは当然である。
このイエスに対する熱望には祝福が伴っている。「義に飢え渇いている者は幸いです。」その渇きは尊い。なぜなら、それは神から来たものだからである。私がもし満開の祝福で満たされていないとしても、キリストによって満たされるまで、せめてその祝福のつぼみを熱心に求めたい。キリストによって養われていないとしても、イエスを求めて飢え渇く私は、天国の隣にいる。その渇きは神聖である。それは私たちの主の至福の中に輝いているからである。またその祝福の中には約束が含まれている。飢え渇く者は、今求めているものに「満ち足りる」ようになる。
もしキリストがこのように、私たちにご自身を慕うようにさせられるならば、必ずその熱望を満たしてもくださる。そして主が私たちの所へ来られる時、おお、それはなんと楽しいことであろう。