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◆エルサレムの娘たち。誓ってください。

2011年08月22日 07時24分51秒 | 聖書
あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。(雅歌五・八)

これはイエスとの交わりを求めてあえぐ信者のことばである。彼は主に対する愛のために病んでいる。恵まれたたましいは、キリストに近くいなければ決して満たされない。なぜならキリストから離れている限り、平安がないからである。信者は、主に近づけば近づくほど、天国の全き静けさに近づくのである。また、心が満たされるのである。平安で満たされるだけでなく、いのち、活力、喜びに満たされる。なぜなら、これはイエスとの絶えざる交わりに依存しているからである。
キリストの私たちに対する関係は、太陽が昼に、月が夜に、露が花に対するごとくである。パンが飢えた人に、着物が裸の人に、大きな岩陰がくたびれる旅を続けている旅行者に対するごとくである。だから私たちが主と一体であることを意識していないとすれば、私たちのたましいが「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください」と叫ぶのは当然である。
このイエスに対する熱望には祝福が伴っている。「義に飢え渇いている者は幸いです。」その渇きは尊い。なぜなら、それは神から来たものだからである。私がもし満開の祝福で満たされていないとしても、キリストによって満たされるまで、せめてその祝福のつぼみを熱心に求めたい。キリストによって養われていないとしても、イエスを求めて飢え渇く私は、天国の隣にいる。その渇きは神聖である。それは私たちの主の至福の中に輝いているからである。またその祝福の中には約束が含まれている。飢え渇く者は、今求めているものに「満ち足りる」ようになる。
もしキリストがこのように、私たちにご自身を慕うようにさせられるならば、必ずその熱望を満たしてもくださる。そして主が私たちの所へ来られる時、おお、それはなんと楽しいことであろう。


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