座間コミニティー

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◆こうして、彼らはエルサレムを、広い城壁のところまで修復した。

2011年08月20日 22時54分22秒 | 聖書
(ネヘミヤ三・八)

堅固な要害の町には、広い城壁が巡らされている。エルサレムも全盛の時にはそうだった。同じように、新しいエルサレムも、世と妥協しない広い城壁を巡らして保護され、この世の習慣と精神から区別されていなければならない。
今日の傾向は、聖い壁を壊して、教会と世との区別を単に名目的なものにしてしまおうとする。信仰告白者は、もはや厳格でも清教徒的でもない。いかがわしい文学が至る所で読まれ、くだらない娯楽が流行し、一般の放縦が、主の特別な民から、罪人と区別する聖なる特徴をも奪おうとしている。教会のこの世との融和が完成され、神の子どもたちと人の娘たちが一つになる時は、教会にとっても世にとっても不幸な日々である。その時、再び怒りの洪水が私たちの上に臨むであろう。愛する友よ。世を友とすることが神への敵対であることを覚え、あなたの心に、ことばに、服装に、行動に、広い城壁を保て。
広い城壁は、エルサレムの住民のために快い展望台となり、そこから彼らは、四方の眺望を楽しむことができた。これは私たちに、この上ない主の広い戒めを思わせる。私たちはその中で、イエスとの交わりのうちに地上の景色を見下ろし、天の栄光を見つめて、自由に歩む。私たちはこの世から隔てられ、すべての不敬虔と肉欲を否定するが、牢獄にいるのではなく、狭い所に閉じ込められているのでもない。否、私たちは主の戒めを守っているので、自由にゆうゆうと歩く。
友よ。今夜神と共に神の戒めの中を歩こう。友人同士が城壁の上で会うように、あなたは聖い祈りと黙想のうちに、あなたの神に会うであろう。救いのとりでを横切る権利をあなたはもつ。なぜなら、あなたは王の国の自由人であり、天地の首都の市民だからである。


出エジプト記7章1-7節

2011年08月20日 10時40分34秒 | 聖書
7:2 「あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。」モ-セが自分は口べたのであるので、その任に堪えないと言った時、神様は彼をお叱りにはならないで、彼に代わって、パロに神の御心を告げることが出来る人を立てて下さいました。それは、モ-セの兄のアロンでした。モーセにとっては、安心して、一緒に行動がとれる人物でした。このようにして神様は、モ-セから、彼の内にある不安な思いを少しづつ取り除いて下さって、最後には、彼が自分からパロに語って、主の御心が実現されるように事を計っていく者となりました。モ-セは、初めから強力な奉仕者ではありませんでした。弱さと臆病さを持っていた者でした。しかし、神様の忍耐と励ましによって、神様のために働く良き奉仕者として成長させて下さったのです。モ-セというと、威厳に富んだ、強い指導者のように思いがちです。しかし、その強さは自分の内から出たものではなく、主によって育まれたものであったのです。

◆快楽か喜びか

2011年08月20日 10時27分34秒 | 聖書
快楽を愛する者は貧しい人となり、
ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。(箴言二一17)

このみことばを読むと、イエス・キリストの「放蕩息子のたとえ話」がすぐ思い起こされます。お父さんから遺産を先取りし、大金をふところにして町に行き、たちまち酒色の奴隷となり、肉の快楽のために金を湯水のように使いました。そして金が尽きた時、彼は何もかも失ったことに気がついたのです(ルカ一五11―16参照)。「放蕩息子のたとえ」を引くまでもなく、私たちのまわりに、たくさんの実例が見られます。「歓楽極まりて哀情多し。」二日酔いの苦しさどころではありません。快楽追求にふける快楽第一主義のむなしさとその結末のみじめさは、実に明らかです。
「快楽」と訳されたシムハーというヘブル語は、一五節では「喜び」と訳されています。喜びとは、人生の幸福と祝福を象徴することばではないでしょうか。喜びを好まない人はありません。快楽を好むのと喜びを求めるのと、どこが違うのでしょうか。どこから狂ってくるのでしょうか。
聖書は、人の幸福の三本柱のような愛も平和も喜びもみな、人生の果実だと言います。パウロはガラテヤ人への手紙の中で、愛・喜び・平安……は、聖霊の実だと言っています。
ほんとうの喜びが欲しければ、自分の欲求だけで生きる生き方から離れ、神に従い神を待ち望む生活をするべきです。神につながって初めて、喜びの実が実るのです。イエス・キリストは言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。……そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ一五4―5)。神とつながっていなければ喜びの実は期待できないのに、いのちのないものの中に快楽を追求していく。――ここから狂いが出るのです。電信柱にリンゴがなるのを期待するようなまねは、やめなければなりません。


◆イスラエルの麗しい歌。

2011年08月20日 10時23分55秒 | 聖書
(Ⅱサムエル二三・一)

聖書に記されているすべての聖徒の生涯の中でも、ダビデはとりわけ印象的で変化に富み、ためになる経験をしている。彼の生涯には、他の聖徒に見られない試練と誘惑が見られる。そしてその生涯は、私たちに主のご生涯を思い起こさせる。
ダビデはあらゆる階級、あらゆる境遇にある人間の試練を知っていた。王には王の悩みがあるが、ダビデはその王冠をいただいていた。農夫には農夫としての心労があるが、ダビデは羊飼いだった。放浪者には、特有のさまざまな困難がつきまとうが、ダビデはアドラムのほら穴に隠れた経験がある。将軍には独自の労苦があるが、ダビデはツェルヤの子らが手に負えないという経験を味わった。詩篇作者ダビデは、友人関係においてもまた、さまざまな試みにあった。彼の議官アヒトフェルは彼を捨てた。「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」彼の最悪の敵は彼の家の者であり、彼の子らは彼の最大の悩みの種であった。
貧窮と富裕の誘惑、名誉と叱責の誘惑、健康と病弱の誘惑、これらがすべて彼の上にその力を試みた。彼は、平安をかき乱す外部からの誘惑をもっていた。また彼の喜びを損なう内部からの誘惑があった。一つの試練を逃れると、ただちに他の試練が襲ってきた。一つの失望と驚きの時期を抜け出ると、また絶望のどん底に落ち、神のすべての大波が押し寄せてきた。
ダビデの詩が経験深いクリスチャンに広く喜ばれている理由は、おそらくここにあるだろう。私たちの心がどのような状態にあろうとも、歓喜の時であろうと、失望の時であろうと、ダビデは私たちの感情をそのまま描いている。彼は人の心を扱う術にすぐれている。それは、彼があらゆる学校の中の最高学府、すなわち体験の学校で学んだからである。同じ学校で訓練を受ける私たちもまた、年と恵みのうちに成長するに従って、ダビデの詩の深い味を知るようになり、それが「緑の牧場」であることを見いだすであろう。私のたましいよ。ダビデの経験の中から喜びと助言を得よ。