座間コミニティー

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◆子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。

2011年08月28日 19時49分16秒 | 福祉
(イザヤ五四・一)

私たちは、キリストに向かって進みながら、わずかながら実を結んできた。また、自分が主の「右の手が植えた苗」であるという喜ばしい希望を抱いている。しかし、時には自分が全く実を結ばないように感じる。祈りにいのちがなく、愛は冷ややかであり、信仰は弱く、自分の心の園にある一つ一つの徳は衰え、またうなだれている。私たちは炎天下の花のように、すがすがしい夕立を必要としている。
このような時どうすればよいのか。冒頭の聖句は、このような私たちに向かって語りかける。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。」しかし、私たちは何について歌うことができよう。現在にも過去にも、少しの実も結んでいない。私はイエス・キリストについて歌うことができる。以前に、贖い主が私を訪れてくださったことを語ることができる。そうでなければ、主がその民を愛し、民の贖いのために、天の高い所から下られた大いなる愛をあがめることができる。
私は再び十字架のもとに行こう。たましいよ。おまえはかつて重荷を負っていた。そして十字架のもとで重荷を除かれた。おまえにいのちを与えたその同じ十字架が、おまえに実を結ぶことを得させるであろう。
私の不妊は何か。それは神の結実の御力が働く舞台である。私の荒地は何か。それは主の永遠の愛のサファイアをはめ込む黒い台である。私は乏しいままで行こう。無力なまま、恥と不信仰のままで。主にまだ子どもであることを告げ、主の忠実なみこころに信頼し、実を結ばない私ではあるが、声高らかに歌い叫ぼう。
信者よ。喜び歌え。それによってあなたの心も、実を結ばない他の人の心も励まされるからである。歌い続けよ。あなたはまもなく実を結ぶようになる。今、あなたに実を結ばないことを嘆かせておられる神は、すぐに果実の房をもってあなたをおおわれる。私たちの実のない経験は苦しいが、主の訪れは喜ばしい。私たちの無力さの自覚が私たちをキリストへと駆り立てる。そここそ、私たちの行くべき所である。主のうちにこそ、私たちの実が見いだされるからである。


出エジプト記8章16-19節

2011年08月28日 09時25分26秒 | 聖書
8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。 先に蛙を登らせた不思議な業がされた時に、パロはそれを取り除いてくれと、モーセに願ったことでした。自分の国の魔術師達には、蛙を登らせることは出来ても、それを消滅させることが出来なかったからです。蛙は、パロにとっては自分の近くにたむろするもので、気持ちが悪いものでした。そして、それを取り除いてくれたら民をエジプトから出そうと言いました。しかし、モ-セがそのことを聞いて、主の前に願い、その蛙を消滅させると、息をつくことが出来たパロは、心をかたくなにして、先に言ったことが嘘のように、彼等がエジプトから出ることを赦しませんでした。そこで主は、次に、ブヨをこの国にもたらすことを語られました。今までは、周りに事が起こることのみでしたが、今度は自分の身体にまで、直接苦しみの影響を及ぼす生き物をも支配して、その苦しみをもたらすことをされるというのです。このような不思議な業は、魔術師には出来ませんでした。神のみがなされる、力ある業であったのです。

◆親  と  教  育

2011年08月28日 09時05分23秒 | 聖書
若者をその行く道にふさわしく教育せよ。
そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言二二6)

子どもが問題を起こして悩んでいる親が、世の中にどんなに多いことでしょう。全部が全部、親の責任ではありません。子ども自身の責任も、環境や友達からの影響もあるでしょう。あきらめたり、がっかりしたり、自分を責めすぎたり、子どもに責任の全部をなすりつけたりしてはいけないと思います。神の恵みにたより、祈り続け、模範となって教えていくべきでしょう。
しかし、ドイツのことわざに「子どもの時していたとおりを、大人になってもする」、イギリスのことわざに「芽生えの時に曲がった木は、大木になっても曲がっている」とあるとおり、子どもの時の教育の大切さは、何回言っても言いすぎではありません。その子どもの教育で一番大切なことは何でしょうか。
第一に、「教育せよ」を考えましょう。これは原語で「ハノーク」ささげよという意味です。子どもを自分の私有物とする考えを捨て、神から預けられたその子の真の幸福のために、神の任命を受けた親として、子を神にささげる、これが、正しい教育の第一のポイントです。
第二に、「その行く道にふさわしく」です。人間は神に造られ、神に愛され、神によってその行く道を定められています。ですから、まず神を恐れるように教育することです。救世軍の母ブース夫人は、「私は悪魔の先を越して、子どもを神に従うよう信仰に導きました」と言っています。信仰があればどこへ放り出したとしても、大丈夫ではないでしょうか。次に、一人一人にはふさわしい行く道があるということです。一流大学を出たお父さんの子は一流大学へ行かなければ困るとは、考えてはならないことでしょう。
しかし、教育に大切な、教訓・模範・規律・祈りの四つがすべて、やはり親に、神を恐れ、神を知ることを要求しているとお思いになりませんか。


◆燈油……。

2011年08月28日 08時58分29秒 | 聖書
(出エジプト二五・六)

私のたましいよ。どんなにかおまえはこの燈油を必要としていることであろう。なぜなら、これがなくては、おまえのともしびが長く燃え続けることは不可能だからである。もし光が失われたり、油が切れたりすれば、おまえのともしびの芯はくすぶり、わざわいとなるであろう。おまえは自分の中にはわき上がる油の源泉をもっていない。だから、行って油を求めなければならない。そうでなければ、おまえは愚かな娘たちのように「私たちのともしびは消えそうです」と叫ばなければならないであろう。どれほどきよめられたともしびであろうと、油がなければ輝くことはできない。幕屋の中のともしびにも油が必要であり、たとえ風が吹かなくても芯を切っておく必要がある。たましいよ。おまえの場合も同様である。どれほど幸福であろうとも、新しい恵みの油の供給を受けていなければ、長く燃え続けることはできない。
すべての油が主の用に立つわけではない。地中から豊富にわき出る石油、魚から取った魚油、くるみ類から取った油などは適さない。ただ一種類の油だけが主の用に立つことができる。それは最上のオリーブ油である。生来の徳性から来る偽りの恵み、宗教家の手より授けられた想像上の恵み、外見上の儀式から来る仮想の恵み、これらは決して真の神の聖徒の力とはならない。彼は主がこのような油を喜ばれないことを知っている。ゲツセマネのオリーブ油をしぼる場所に行き、そこで押しつぶされた主からの油の供給を受ける。
福音の恵みの油は純粋であり、にごりがない。したがってその光は鮮明である。私たちの教会は救い主の金の燭台である。それらがこの暗黒の世を照らす光になろうとすれば、多量の聖い油を受けなければならない。私たち自身のために、私たちの牧師のために、そして教会のために、光の油が不足しないように祈ろうではないか。真理、聖潔、知識、愛、これらはすべて聖なるともしびから生ずる光である。しかし、私たちが個人的に神から油を受けていないならば、それらの光を輝かすことはできない。